4.チームとして

 十二月も終わりに近づき、寒さは一層増している。冷たい空気に顔が引き締まり、白い息を吐きながら、早川朱俐は壁打ちをしていた。


(俺はなんでバレーをしているんだろう)


 年の瀬が近づけば公園に人影などまず無い。しかも、中学三年の受験生でこんな時期に外をふらついてる人などいるわけがなかった。朱俐は、残り少ない枯葉を踏んでは、その寂しさと、あての無さに途方に暮れた。


 目標も、志望校も定まらずに、とりあえず敷かれたレールに乗って何となく勉強をこなす毎日。そして時々、こうしてバレーをしては、道を見失った自分に対して、自問自答を繰り返した。そうして時は過ぎ、いつの間にか年が終わりそうになっていたのだった。


 朱俐にも選抜やいくつかのスポーツ推薦の候補があった。しかし、全て断った。何か怪我をしていたという訳でもなく、ただ何となく、学総で引退して燃え尽きてしまい道を見失ってしまったから、これ以上高く飛べる気も自信もなかった。でもそれ以上に、大きな理由があった。 


 それでもバレーに触れる癖は直らなかった。三年間、ほとんどの時間をバレーボールに捧げてきた。だから必然的に、何も考えずとも、ボールに毎日触れることは欠かさなくなっていた。


 少し力を入れすぎて打ったために、ボールが一定の軌道を外れて、壁打ちが途切れた。


(俺は何がしたいんだろう......そろそろ志望校も決めないとだよな)


 未来が何も見えないとはいえ、朱俐の友達も冬期講習に励んでいるのを知っていたので、さすがに焦りを感じていた。そんなことを考えながら、転がっていったボールを追うと、その先でどこからかボールが弾む音が聞こえてきた。朱俐は気になって音の鳴る方へ行ってみると、そこには一人の青年が、朱俐と同じように家の向かいのアスファルトの壁で壁打ちをしていた。真っ直ぐに伸ばした左腕と後ろに目いっぱい引いた右腕、それからしっかりとボールを捉えて肩を回転させて腕を振り下ろす。その完璧なフォームに、朱俐は自然と目を奪われていた。すると、青年はボールを持ってしばらく俯いた。薄暗い夕刻の影の中に微かに見える表情は、どこか浮かないものだった。


「あの人も、俺と同じなのかな......」


 朱俐はそっとその場を後にした。それからしばらく朱俐は練習を続けたが、先ほどの壁打ちの音はもうしなかった。


 家に帰ると、テレビには夏の県の高校総体のニュース特集の録画が流れていた。


「なんで今更そんなの見てるの?」


 リモコンを握っていたのは、仕事納めをして久々に家に帰ってきた八つ上の兄だった。


「今度春高見に行くからさ、今の総武学院がどんだけ強いのか見とこうと思って」


 兄はテレビを見たまま淡々と答えた。兄もまた中高時代はバレー部で、今では総武学院の次に位置づける星野済矢高校の強豪校へと成り上がった立役者の代だった。


「朱俐は高校どこ行くか決めたのか?」


 朱俐は首を横に振り、兄の隣に座って一緒にテレビを眺めた。


「大会最終日を迎えた男子バレーボールの部は、白熱した激戦が繰り広げられました。準々決勝......」


 そういえばと思い、朱俐は先ほどの記憶をたどった。日が暮れていて暗かったので上手くは見えなかったが、あの青年が着ていたジャージに学校名が書いてあった気がした。


 テレビでは試合の様子が流れていて、黄色のユニフォームの総武学院と白のユニフォームの市立中央が一進一退の攻防戦を繰り広げていた。時折、市立中央のベンチの選手の応援する姿が切り抜かれていたが、その中の一人の顔に、朱俐は何となく見覚えがあった。


「へえ、市立中央も結構押してるじゃん。俺たちの時は聞いたことなかったけど」


 市立中央は初めの劣勢をひっくり返そうと必死に食らいついていた。相手の総武学院は全国大会常連で、朱俐にも推薦の誘いが来ていた強豪校。資金力も環境も人材も差があるのは歴然。それでも、そんなものは関係ないと、市立中央は果敢に猛攻撃を仕掛けていた。


 朱俐はふと、手を握って画面に釘付けになっている自分に気づいた。自分には全く関係ないのに、知らない間に市立中央のプレーに心を惹かれていた。


「......最後はデュースにもつれ込みましたが、猛追を振り切った総武学院がストレートで勝利。初の八強入りを果たした市立中央は、ここで敗退となりました」


 エンドラインに並んだ選手の中には泣いている人もいた。インターハイで三年生は引退なのだろう。負けた市立中央の悔しさが画面越しに伝わってきて、朱俐もなぜか悔しさを抱いた。そして、握った手の汗を見つめた。


(久しぶりだな......この感覚)


 その時、先ほどの微かな記憶が繋がり、雲が晴れた。さっき壁打ちをしていた彼は、市立中央の生徒だ。彼に会いたい。会って、もう一度スパイクを見たい。技術だけじゃない、惹かれる何かが彼のスパイクのフォームから伝わってきた。


「志望校、決まったみたいだね」


 兄は弟の横顔を見て、少し笑みを浮かべた。さっきまでは行く先も知らずに浮かない顔をしていた彼の心は、見つけた先に早くいきたいといわんばかりだ。


 もう二度と孤独を味わいたくなかった。大好物を食べているのに味がしないような、勝っても、もどかしい気持ちでいるのはもう終わりにしたい。玄関に飾られた兄のユニフォーム姿の集合写真が目に入る。


(俺も、いつか......)


 時が経ち、家の前の並木に桜が咲き誇る頃。日課であった朝のランニングを終えた朱俐は、市立中央の制服に腕を通した。


「今日から部活行くから。帰り遅いからね」


「はいはい、弁当そこだから忘れずに入れなさい」


「ありがとう」


 身支度を終え、玄関で身だしなみを整え扉に手をかけた。


「行ってきます」


 一歩踏み出した世界は、どんな所なのだろう。自分が自分で選んだ道。そこに、自分の求めるバレーボールはあるだろうか。


「ここで自分を変えたい。もっと自由に飛びたい。純粋にバレーを楽しみたい......兄のように」


 朱俐は手をかけたドアを勢いよく開けて、外の世界へ飛び出した。








 扉が開いた音がしたので朱俐は目線を上げ、「面識のない同級生か」と思ったが、そいつが自分に視線を注いでいるのに気づき、訝しく思った。


「お前......学総の時にボール取ってくれた時の……」


 目の前のやつが誰なのかわからず、良い反応をしてやれなかった。大体、学総の時にボールを取ってくれたなんてそんなわずかな記憶、覚えているわけがない。


「ごめん、覚えてないや......」


「......まあそりゃそうか、あんな一瞬目合ったくらいじゃね」


 そう言って郁瀬は苦笑いをした。朱俐はシューズの紐を結び終え、立ち上がって軽く足を伸ばした。郁瀬も朱俐に合わせてストレッチをした。


「俺、学総でお前たちの隣のコートだったんだよ。でも、俺たちは試合上手くいかなくて、呆気なく終わっちゃってさ。そしたら、お前たちのチームはまだ戦ってて、ぼーっと見てたんだけど。純粋にプレーがすごかった」


 郁瀬はカタコトながら、目を輝かせて言った。しかし、朱俐にとってのその言葉は喜ばしいものではなく、むしろ傷だった。朱俐は郁瀬が話すのを遮って、ぽつりと呟いた。


「......そんなことない。俺は……一匹狼なんかじゃない」


 朱俐は、テレビで市立中央を見て、志望校を決めたあの日から隠れていた負の感情が、再び心に蘇ってきた。しかし、その感情は郁瀬の一言で一瞬で晴れた。


「チームとして、凄かった。俺たちとは全然比べ物にならないくらいに完成してた」


 朱俐は、初めて言われた言葉に不意を突かれて、思わず郁瀬と目を合わせてしまった。


「もちろん、お前のスパイクもそうだけど、サーバーもレシーバーもセッターも、みんなで作ってる感じが羨ましかったな」


 朱俐がずっと欲しかったのはこの言葉だった。たったひとりへの賞賛でも、勝利という結果でもない。バレーは団体競技だという感覚を、郁瀬の言葉が初めて朱俐に与えた。


「......あ、ありがとう」


「そういえば、名前まだだったな。風上郁瀬って言います」


「......俺は、早川朱俐」


「今日からよろしくな」


「お、おう......」


 郁瀬は笑顔で朱俐の肩を叩いた。朱俐は自分でもわからないまま、涙目になっていた。三年の時を経て、やっと認められた気がした。


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