第39話 変わったこと、変わらないこと

 預言者が光の粒子となって消え去った後、遺跡には夜明け前の静寂が訪れた。

 禍々しい紫の光を放っていた魔法陣は完全に沈黙し、月明かりだけが戦闘の爪痕が残る広場を静かに照らしている。


「……終わった、のか」


 俺は深く息を吐き出し、ロングソードを鞘に収めた。

 全身を駆け巡っていた昂りは霧散し、代わりに心地よい疲労感が全身を包む。

 記憶を取り戻したことで混乱していた思考も、今は不思議なほど澄み渡っていた。


「シンさん……!」


 ユキナとアリサが駆け寄ってくる。

 ユキナの脇腹の傷は浅いが、白い騎士服に滲んだ赤が戦いの激しさを物語っていた。

 アリサは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも安堵の笑みを浮かべている。


「二人とも、無事か」

「はい……! シンさんこそ、お怪我は」

「わたし……わたし、少しは役に立てましたか……?」


 俺は二人の頭にそっと手を置いた。


「ああ。お前たちがいなければ、勝てなかった。二人とも、よく頑張ったな」


 その言葉に、アリサは堪えきれずに嗚咽を漏らし、ユキナは誇らしげに、そしてどこか照れたように微笑んだ。

 俺たちはすぐに祭壇へと駆け寄り、意識を失っている子供たちの鎖を解いた。

 ひどく衰弱してはいるが、命に別状はなさそうだ。

 エヴァなら問題なく治療できるだろう。


 遺跡の外に出ると、ダイダスが黒ローブたちと共に地面に転がって気絶していた。

 どうやらアリサが奮闘した結果らしい。

 彼が目を覚ました時、自分が町を救う英雄になったと勘違いするのは、もはや既定路線だろう。

 まあ、結果的に完璧な囮の役目を果たしてくれたのだから、少しは英雄気取りでいさせてやるのも悪くないかもしれない。



   ***



 東の空が白み始め、朝の光が世界を照らし始めた頃。

 俺たちは衰弱した子供たちを背負い、町への帰路についていた。

 道中、ユキナが不思議そうな顔で俺に尋ねてきた。


「シンさん。なんだか……雰囲気が変わりましたね。以前の、どこか世を拗ねたような諦観が消えて……とても真っ直ぐになった気がします」


 その鋭い指摘に、俺は苦笑いを浮かべた。


「そう見えるか? まあ、色々と吹っ切れただけだよ。自分が本当にやりたかったこと、守りたかったものが、ようやく分かったんだ」


 楽な生活がしたい。

 それは、過労死した前世のトラウマからくる、ただの逃避だったのかもしれない。


 神様との約束を、俺の魂の奥底は覚えていた。

 だから、ただ漫然と生きることにどこか満たされないものを感じ、無意識に鍛錬を続けていたのだろう。


 報われる努力をしたい。

 その願いは、今、確かに叶った。


 俺たちが冒険者ギルドにたどり着いた時、ギルドは早朝にも関わらず、かつてないほどの熱気に包まれていた。

 ジレンとエヴァが心配そうに待ち構えており、俺たちの姿と、背負われた子供たちを認めるなり、駆け寄ってきた。


「無事か! よくやった、シン!」

「素晴らしい! 子供たちも全員無事とは! さあ、すぐに治療室へ! 君たちの奮闘の記録も後でじっくり聞かせてもらうからね!」


 エヴァは目を輝かせながら子供たちを引き取ると、すぐさま治療に取り掛かる。

 ギルドホールに集まっていた冒険者たちは最初は何が起きたのか分からず遠巻きに見ていたが、やがてジレンが野太い声で高らかに宣言した。


「諸君、聞け! 王都を震撼させていた連続失踪事件の犯人は、たった今、シン・バーデンとその仲間たちの手によって討伐された! 子供たちも全員、無事保護されたぞ!」


 その言葉を合図に、一瞬の静寂の後、ギルドホールは割れんばかりの歓声に包まれた。


「うおおおおっ!」

「シンのおっさんが……いや、シンさんがやったんだ!」

「俺たちの町から英雄が生まれたぞ!」


 昨日まで俺を侮蔑していた者たちが、今は目を輝かせ、尊敬の眼差しを向けてくる。

 手のひらを返すような態度は相変わらずだが、不思議と悪い気はしなかった。

 俺は照れ臭そうに頭を掻きながら、仲間たちと顔を見合わせて笑い合った。


 ジレンの執務室で改めて事の顛末を報告すると、彼は深い安堵のため息をついた。


「……お前がこの町に来た時は、ただの根性のある若造だったがな。まさか、世界を救うほどの男になるとはな」

「柄でもないことを言うな。俺はただ、目の前の奴らを助けたかっただけだ」


 窓の外では、朝日に照らされた町が活気に満ち溢れている。

 屈強な鎧を鳴らす若者、真新しいローブに身を包んだ少女。

 冒険者ギルドの朝は、いつだって希望と喧騒に満ちている。


 かつては眩しすぎると感じたその光景が、今はひどく愛おしかった。


「さて、これからどうするんだ? 王都に行けば、英雄として迎えられるぞ」


 ジレンの問いに、俺は首を横に振った。


「いや、俺はここでいい。この町がいい」


 俺は、隣で誇らしげに胸を張るユキナと、少しだけ自信をつけたように真っ直ぐ前を見つめるアリサの顔を見る。


「楽な生活っていうのも、悪くない。大切な仲間たちが、何の心配もなく笑って過ごせる……こういう毎日こそが、俺が本当に送りたかった生活なんだ」


 報われない努力などなかった。

 全ての積み重ねが、この温かい今に繋がっていたのだ。


 俺は仲間たちと共に、希望に満ちた朝の光の中へと、再び歩き出すのだった。



   ***



 湖畔の遺跡での死闘から、数日が過ぎた。

 町はすっかり平穏を取り戻し、救出された子供たちもエヴァの治療によって快方に向かっている。


〈黒蛇の揺り籠〉という悪夢は過ぎ去り、人々は日常へと戻っていた。

 ただ一つ、大きな変化を除いて。


「シンさーん! この前のオークの牙、買い取ってもらえたんですけど、相場より高く売れましたよ!」

「シンさん、今度一杯奢らせてくれよな!」

「シン様、うちの娘があんたのファンでよぉ……悪いがサインもらえねえか?」


 冒険者ギルドのホールを歩くだけで、俺は嵐のような賞賛と歓待に晒される。

 かつて〈万年Eランク〉と蔑んでいた者たちが、今では目を輝かせ、英雄を見るような眼差しを向けてくるのだ。

 俺はその変化にどうにも慣れず、曖昧に笑って手を振りながら、いつものカウンターへと向かった。


「……どうにも、むず痒いな」

「ふふっ。英雄になったのですから、当然ですよ。もっと胸を張ってください」


 隣を歩くユキナが楽しそうに言う。

 アリサも「わたしまでなんだか誇らしいです!」と胸を張っていた。


 彼女たちと依頼をこなし、こうしてギルドで笑い合う。

 かつて夢見た「楽な生活」が、今、確かにここにあった。

 そんな穏やかな昼下がりを切り裂くように、突如、空から鋭い鳴き声が響き渡った。


「キエエエエエッ!」


 それは鷲の上半身と獅子の下半身を持つ、気高き幻獣グリフォンの咆哮だった。

 ギルドの外が騒然となり、冒険者たちが慌てて飛び出していく。

 俺たちも顔を見合わせ、外へと駆け出した。


 ギルド前の広場には、純白の羽を持つ巨大なグリフォンが優雅に翼を休めていた。

 その背から音もなく降り立ったのは、一人の女性騎士。

 プラチナブロンドの長い髪を風になびかせ、磨き上げられた白銀の鎧は寸分の隙もない。

 その凛とした美貌には威厳が宿っているが、表情は穏やかで、厳しい印象は受けなかった。


「副団長……!?」


 ユキナが驚きの声を上げ、その場で膝をつき、騎士の礼を取った。

 王立白薔薇騎士団の副団長か……?

 彼女がなぜこんな辺境の町に。

 セレスティアはユキナの元へ歩み寄ると、優しい手つきでその肩に触れた。


「ユキナ。まずは、よくやってくれました。報告書は読みましたよ。困難な任務の中、貴方の判断は的確でした。そして何より、無事でよかった」

「もったいないお言葉です、セレスティア様……!」


 労いの言葉に、ユキナの表情がぱっと明るくなる。

 そしてセレスティアは、その穏やかな視線をまっすぐに俺へと向けた。


「そして、貴方がシン・バーデン殿ですね。ユキナから、そして王都に送られた報告で貴方のご活躍は伺っております。この町と、未来ある子供たちを救ってくださったこと、王立白薔薇騎士団副団長として、心より感謝いたします」


 その声には、真摯な敬意が込められていた。

 俺は思わず、照れ臭さに頭を掻いた。


「いや、俺一人の力じゃない。仲間がいてくれたからだ」

「その謙虚さも貴方の強さなのでしょう。……少し、お時間をいただけますか。皆様にお伝えしなければならない、重要なお話があります」


 セレスティアはそう言うと、俺たちに丁寧なお辞儀をするのだった。



————————

第一部・完

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