第一幕:妄執
第一話:ありふれた男
三日だ。
あの男が、おれの視界に現れるようになってから、三日が経つ。
おれは安物のベンチに腰掛け、文庫本を広げながら、通りの向かいに立つ男を観察していた。
三十代後半。くたびれたスーツ。
磨かれてはいるが、質の良くない革靴。
コンビニの袋を提げ、退屈そうにスマートフォンを眺めている。
どこにでもいる、ごく平凡な男。
だが、おれにはわかる。奴は、『組織』の追っ手だ。
偶然だと思うか?
一日目。駅のホームで奴を見た。
二日目。隠れ家のアパート近くの商店街で、奴とすれ違った。
そして今日、三日目。おれが時間潰しに入った公園の、真向かい。
ありえない。天文学的な確率だ。
奴は確実におれを追っている。奴らは、おれが思っているよりもずっと近くまで迫っているんだ。
奴が吸っている煙草の銘柄は、セブンスター。あの日、事務所の連中が吸っていたのと同じだ。
まさかとは思う。だが、万が一。
奴らが、おれの行動パターン、思考の癖、その全てをデータ化し、最適な追手を差し向けているとしたら?
奴の、わずかに猫背気味な姿勢。あれは、懐に何かを隠している人間の典型的な癖だ。
スマートフォンをいじっている指の動き。あれは、ただの時間潰しじゃない。仲間と連絡を取り、おれの情報をリアルタイムで共有しているに違いない。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
文庫本のページをめくる指が、汗で滑った。
落ち着け。まだ気づかれてはいない。
奴はこちらを一度も見ていない。それはつまり、奴がプロである証拠だ。
視線だけで獲物に感づかせたりはしない。周囲の状況に溶け込み、確実な好機だけを待っている。
その時、男が動いた。
スマートフォンをポケットにしまい、すっと顔を上げた。
まずい。目が合う――!
おれはとっさに顔を伏せ、本に視線を落とす。心臓が喉から飛び出しそうだ。
数十秒が、数時間にも感じられる。
やがて、恐る恐る顔を上げると、男はこちらに向かって歩き始めていた。
終わりだ。
気づかれた。
思考よりも先に、体が動いていた。
文庫本をカバンにねじ込み、ベンチから立ち上がる。足がもつれる。
走るな。走れば、異常を知らせるのと同じだ。
早足で、冷静に、公園の出口へ。人の流れに紛れて、路地裏へ。
狭く薄汚い、ゴミの悪臭が漂う路地裏に飛び込み、壁に背中を押しつけて息を殺す。
追ってくる足音は、ない。
だが、安心はできない。奴はプロだ。
おれがここに隠れることなど、お見通しかもしれない。別の出口で、仲間が待ち構えているとしたら?
「……はぁ、……っ、はぁ……」
荒い呼吸を繰り返すうち、不意に、あの夜の光景が蘇る。
――遠くで鳴り響くサイレン。怒号と、何か硬いものが砕ける音。
おれは事務所の奥で、ただ一心不乱に、壁の釘からそれを引き剥がした。汗でぬるつく掌に伝わる、冷たい金属の感触。
「後で返します」
誰にいうでもなく、そう呟いた。あれは誓いだったか。それとも、ただの言い訳だったか。
あの『鍵』は、今もジャンパーの内ポケットに入っている。あれがある限り、おれは……。
どれくらいそうしていただろうか。
路地の入り口を、誰も通り過ぎないことを確認し、おれはゆっくりと反対側へと歩き出した。
大丈夫だ。撒いた。今日は、生き延びた。
人通りの多い駅へ向かい、電車に飛び乗る。どこでもいい。とにかく、ここから離れなければ。
揺れる車内で、おれは次の潜伏先を頭の中で組み立てる。日雇いの仕事、現金のみで泊まれる安宿、監視カメラの少ない道順……。
その日の夜。
狭いネットカフェのブースの中で、おれは一枚のSIMカードを指でもてあそんでいた。
組織と連絡を取っていた、最後の繋がり。もう何度も叩き割ろうと思ったのに、なぜか、それができないでいた。
馬鹿な感傷だ。これが、命取りになる。
今度こそ、と爪を立てた、その瞬間だった。
ブブブッ……ブブブッ……!
ポケットの中の、古い携帯が震えた。
心臓が凍りつく。
ゆっくりと、震える手でそれを取り出す。液晶画面に浮かび上がっていたのは、この世のどんな言葉よりも恐ろしい、死の宣告そのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます