現場 3

車の中で松山は、連絡先として渡された沼田の名刺を、両手首から先をハンドルの上に乗せて眺めていた。


・・・誰かに追われて逃げていて、前に柱があるのに気づかず、例えば後ろを向いて走っていて、前に向き直った瞬間にぶつかったとか・・・そういうことか?


ないとは言えないが、柱は思いがけずそこにあったというものではない。


車なんかの動くものなら、出会い頭ということもあるだろうが・・・・松山はどうも納得がいかなかった。



 太田市内にある松山が所長を務める営業所は、『金井荘かないそう』といい太田市の北のはずれにあった。


受託じゅたくしてから長いクライアントで、冬場は路面が凍結して、配送のトラックが上がってこれないような不便な山の上にあったのだが、施設の老朽化で再建するタイミングで、国道わきの交通の便がいい場所に降りてきた。


以前の施設は、一応鉄筋コンクリートだが断熱もされてない一時代前の作りだった。


特に厨房などの水回りは、梅雨時つゆどきには結露でカビがあがって、掃除が大変であったが、厨房からつながる食堂の窓からの眺めは良かった。


移転して格段に利便性は上がったし、建物も新しくなったのでもちろん快適にはなったが、夜間は国道を走る車の音や振動もあって、空気も悪い。


そこで暮らすお年寄りにとっては、どちらが良かったのかなかなかに難しいところではあった。


松山が遅れて出勤すると、川原美紅かわはらみくがパソコンを見ていた顔をこちらに向け、長いこと画面を見ていたのだろうか、眼をパチパチさせた。


 「あ、松山さん。サキさんが急変きゅうへんで運ばれたんで食止しょくどめです」サキさんといわれて、一瞬咲子のことを言っているのかと思ったがそうではなかった。


食止めは何らかの事情で、食事の提供を中止することだ。


サキさんは、長くここに入居にゅうきょされているおばあちゃんで、90歳を超えている。


車いすを使っているが、認知症のほうは比較的軽く、普通に会話も意思疎通もできて、問題となるような行動もなかった。


元気な方だった。


 「サキさんどうしたの?昨日は普通だったよ」松山は、自分の机のパソコンを立ち上げながら言った。


出勤するとまず、パソコンに電源を入れるのが習慣だった。


メールで来る本社からの連絡を確認するためだが、そもそもパソコンなしでは成り立たない仕事だった。


メインとなる仕事の栄養事務も、栄養管理のソフト無しではとてもやりきれない。


一昔前ひとむかしまえはすべて手計算てけいさんでやっていて、多くの時間をそれに取られていたため、献立を工夫したり、新しいこころみにチャレンジしたりということに、費やす時間が取れなかった。


今はその時間を、より高度な知識を習得したり、クリエイティブなことに使えるようになった。


自然と栄養士に求められる内容が変わってきて、それに対応できない古い栄養士は淘汰とうたされていく。


今でも学校では、手計算で献立作成をやる授業が残っているらしいが、栄養の基本的なことを学ぶのには意味があっても、それ以上のものではないと松山は考えていた。


もっと学んできてほしいことはいっぱいあるのだ。


金井荘は五十床ごじゅっしょうで規模の大きい施設ではなかった。


松山の経歴からすると軽すぎると思える仕事内容だが、そのおかげで近くの営業所の様子を見たりすることが出来た。


結果周辺の営業所は、若い栄養士が所長をしていることが多い。


本来ある程度の経験を積んだものが任される管理業務を、給料の安い若い社員にさせるのだから、会社としてのメリットは大きく、その事は織り込み済みなのだった。


 「美紅には詳しい事は伝わってこないですけど、急に意識が無くなったみたいです」川原美紅は包み紙を開いて、飴玉か何かを口に放り込みながら言った。


確かに入居者にゅうきょしゃの病状などの詳しいことは、委託業者には伝えられないことも多い。


個人情報であることもあるし、その必要がないと思われることもある。


 「あぁ戻ってこなかったんだな」松山は言った。


老人が、例えば排便などにともなって急に血圧が下がったりすると、意識を失ったり、呼びかけで意識を取り戻したりは、意外とよくある事だ。


起こったからといって、すぐ救急車を呼ぶといった話でもなかった。


救急車を呼んだということは、長く意識のない状態が続いたか、戻らなかったということだ。


 「病院からはすぐに帰ってくるかもしれないから、夕食の用意は一応しといて」松山が言うと、川原美紅はビッと敬礼をして見せた。


相変わらず口はもごもごしている。


 「それと美紅」本人が自分を名前で呼ぶので、松山もつられて名前で呼んでしまうことがあった。


それが当たり前になりつつある。


 「実はメロディー渡良瀬わたらせの所長が亡くなったんで、暫く俺が行ったり来たりするから」


 「メロディー渡良瀬って松山さんがいたところですよね。・・・所長さんって女の子ですよね・・・」美紅は言った。


どうして死んだんですか?という言葉は省略されているが、間と表情で分かる。


若い女の子がどうして?病気ですか?事故ですか?


 「美紅に女の子って言われるほど女の子じゃなかったよ」若いといっても咲子は、30歳になったところだった。


 「事故の様子が普通じゃないらしいから、もしかしてテレビなんかでも流れるかもしれない」


 「事故ですか」


 「そしたらすぐ情報は伝わるから、その前に話しておくよ。誰かに何か聞かれたら困るから」美紅は珍しく神妙しんみょうな顔で聞いていた。


 「松山さんは何か聞いてるんですか?」


 「いま現場を見てきたよ。警察にも会って話してきた」松山が現場の様子を一通り話した後、川原美紅は言った。


 「その話、美紅なんかにしてよかったんですか?」


・・・本当だなんで美紅に話してしまったんだろう。


事故現場の様子や傷の状態がどうかとか・・・そんなこと話す必要はなかった。


誰かに話さずにいられなかったのだろうか。


納得いかないことを解決してくれるようなタイプでは、決してないのに。


美紅自身もそう思ったに違いない。


 「・・しばらくバタバタするだろうし、美紅にも迷惑かけると思ったからさ。・・・そうだメロディの小田さんは、美紅と一緒に入ったのにもう献立も食材の発注もやってるみたいだぞ。美紅も頑張らないと」松山はそう言って事故の話題を早々そうそうに切り上げた。


 「そうなんですね・・・あっ献立見てください、一週間できたんで」川原美紅は、自分のデスクの席を空けた。


代わって席に着くとき美紅の体臭がただよった。


なんだか赤ん坊の様な匂いがする。


美紅らしいと思わず笑ってしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る