古賀先生の不倫の写真が掲示板に貼られてるぞ(三)
加藤が校門を出たのは、バドミントン部の練習が終わってすぐの十九時頃であった。校門を出てすぐの道を左に曲がる。方向的に彼が目指すのは京成金町線の駅のはず。
「追うよ!」
僕が言う。
本館の昇降口で校門を見つめていた僕と涼香は、加藤の姿を認めた瞬間、そっとその場を離れた。彼の背後と、一定の距離を保つ。加藤本人は、それに気づいている様子はない。
たとえ振り向かれたとしても、僕たちは駅へと向かう通学路を歩いているに過ぎない。不自然に思われる理由など、本来どこにもないはずだ。
小刻みに、慎重に、音をたてずに、潜むように、怪しまれず……。
「普通に歩けばよくない?」
涼香が言った。
尾行の様子は明らかに素人のものだった。ぎこちない歩調は見よう見まねのそれで、第三者の目にはどこか滑稽にも映る。教師から生徒をみた関係を『教え子』と呼ぶが、追いすがる後ろ姿にくらいつく様子は、雛鳥が親鳥の尾を懸命に追いかけているかのようであった。
「尾行の雰囲気なんていらないでしょ? むしろ自然体がいいはず」
「一理あるね」と僕は日常に溶け込もむように歩調を通常に戻す。
「どこに行くのかな?」
「どこだろうね」
「律希は、加藤先生が行く場所に検討はついているんだよね?」
「まぁね」
加藤が改札を通過した直後、駅員が次の列車の到着をアナウンスした。僕と涼香は慌てて改札を駆け抜け、到着した列車に機敏に飛び乗る。いつも僕が乗る列車とは反対の方向へ電車が進んでいく。
混みあった車内で、加藤の姿を見つけることができない。彼は遠く離れたドアを使ったようだ。
「見えないね。ちょっと近づこう」と、涼香が僕の胸の近くで言う。
いつだって涼香の案を断ることはしない。加藤を探し車内を彷徨った。
「律希。あそこにいる。ほら、優先席の前で吊革に掴まっているでしょ」
不意に袖を引かれた。涼香の視線の先には、吊革を両手で握る加藤の姿があった。彼がどの駅で降りるのかは分からない。だからこそ、僕たちは車内のざわめきの中にあっても集中を切らさぬよう、男性教諭の後頭部を視界に捉え続けていた。
加藤が降車したのは学校から四つ先の駅であった。
「行くよ」と、涼香が勇ましく僕の背中を押す。
住宅街に囲まれた駅だからだろうか、乗り換えのないこの小さな駅で、降車客の波が一斉に改札へと押し寄せていた。
「どこいるか分かる?」と、涼香が訊く。
「一番左の改札の列の中」と、ベージュのステンカラーコートを着た男を見つけ指をさす。
加藤から、少し遅れて改札を出た。
「そろそろ、加藤先生がどこへ向かうのか、教えてくれてもいいんじゃない?」
隠し続ける僕に苛立ちを覚えたのか、それとも見知らぬ夜道を進むことへの不安からか、涼香の声は強い調子だった。
確証はないんだけど、まぁ、隠すことでもないか。
「掲示板に貼られた古賀先生の写真を見て、不自然な箇所はなかった?」
彼女は首を横に傾ける。
気がついていないみたいだから、言葉を付け加えた。
「写真の中の古賀先生は手に何を持っていたか覚えている?」
「うん。満杯に入った買い物袋だよね。その袋から長ネギが三本も頭を出してた」
「恐らく、古賀先生はスーパーで買い物をしてから、その部屋に向かったんだろうね」
「そりゃ、そうでしょ」
「長ネギ買いすぎだと思わない?」
「バランスが悪い恋愛に、せめて食卓にだけでもバランスを求めたんじゃないかな?」
「違うと思う」
「私も違うと思った」と涼香が言う。
「不倫現場を想像した。小さな円卓を二人で囲む様子だよ」
「うん」と涼香は頷く。
「炒め物や鍋をやるにしても三本は使いきれない。それに他にもたくさん買ってた。同じスーパーの袋だったから、他の食材も買ってたと思うけど、一日で食べきれる量じゃないよね」
「そうだね。二人は何日も同じ部屋に通ってたのかな?」
僕は首を横に振る。
「いや、それはないんじゃないかな。加藤先生の家には、まだ小さいお子さんと奥さんもいるし、古賀先生の家にも旦那さんと息子さんがいる。毎日、愛を育むことなんてできないと思うよ」
「あぁ、そうだね」
ようやく涼香もこの写真の違和感に気がつきはじめた。
「それと、もう一つ気になる事があったんだ。掲示板に例の写真が貼られてからも、二人はなにもなかったように学校に来ていたよね」
「うん。来てた」
「それも不可解だよね。一般的に、不倫は個人の私的領域に属する問題であり、職場が直接的に関与すべきことではないとされている。けれども、今回のケースはそれでは済まされないのではないかな。なぜなら、教師という職業は、そもそも生徒の模範であることが求められる存在だし、さらに言えば、公務員としては“全体の奉仕者”として国民の信頼に応える義務がある。そうした立場にある者が、公私のけじめを曖昧にしたまま倫理的に逸脱した行動を取った場合、それは単なる個人の問題ではなく、公職の在り方自体が問われる事態となる。ましてや、コンプライアンスへの社会的要請がこれほど高まっている中で、こうした内容が学校内で公然と掲示されてしまったにもかかわらず、“不適切な異性交際”として正式な懲戒処分が下されていないというのは、制度的にも運用上にも大きな疑問が残るよね」
涼香が「うん。そうだね」と穏やかに相槌を打つ。
僕は「ほらっ」と小さく促し、顎で加藤の進む方向を示した。
「えっ……」
涼香が足を止め、その先に現れた光景に目を見開く。
僕の胸中には、確かな既視感のようなもので満たされていた。予想していたとおりの場面が、寸分違わぬ形でそこに広がっていたのだ。
「これって、“二人の秘密の借家”だよね?」
「そう。写真に写っていたアパートだね」
白亜の壁に朱色の屋根、小粒の窓、ちょうど昨日のこの時間、彼女から送られてきたメールに書かれていた外観が目の前にあった。
「今日も古賀先生が来るってこと?」
暗くて彼女の目は見えないが、泳ぐ瞳が頭に浮かぶ。
鍵を開け部屋の中へと消えた加藤の姿に、涼香は唖然としていた。
「……どうして?」
「アパートの外周を回ってみようか」
もしかすれば、ベランダ側から生活の痕跡が垣間見えるかもしれない。僕らは駐車場の脇から静かに歩き出し、加藤が上っていった外階段を通りすぎると、建物の角を曲がり、ベランダのある南側へと回り込んだ。
「あそこだね?」
僕が指さした先――それが加藤の入っていった部屋のベランダであるはずだ。
目の前に広がる空間には、思いがけず濃密な生活の気配が漂っていた。
手すりの隙間からは、小さな椅子と丸いテーブルが覗いている。そのすぐ脇には、三輪車とチャイルドシート。
説明の言葉など、もはや必要なかった。
涼香は、静かに、それでも確かに頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます