第8話 私が先輩とデートをするまでの話③

 約束の時間、午前11時、5分前。先輩とは互いの部屋の目の前で合流する予定。

 私は、ゆっくりとドアを開けた。まだ、その先に先輩の姿はない。どうやら私の方が早く支度を済ませることができたらしい。


 もたもたして先輩を待たせることにならなくて良かった。

 でも、やっぱり変じゃないかな、今日の私? 部屋に戻って、もう1回自分の姿を確認しておきたい……。

 いや、大丈夫、大丈夫……さっき散々確認したんだから。

 

 自分の部屋の扉に背を預け、先輩が出てくるのを待つ。心臓の音が、どうにも煩く感じた。

 

「おはよう、東雲さん。待たせてごめんね」


 間もなくして、結城先輩が部屋から出て来た。

 その声に、私は弾かれたように顔を上げ、そして、呼吸を忘れた。

 そこに立っていたのは、紛れもなく結城先輩だった。けれど、それは私の知らない結城先輩だった。

 いつもラフに下ろしているだけの髪は、ゆるく、綺麗に巻かれている。服装は、淡いミントグリーンのワンピース。足元は、少しだけヒールのある白いサンダル。

 晴れ渡った空の下で、彼女はキラキラと輝いて見えた。

 

「……きれい」


 声になったのか、ならなかったのか。ただ、呆然と呟くことしかできない私を見て、先輩は少し照れくさそうに笑った。


「そんなに見られると、恥ずかしいんだけど」

「あ、す、すみません……!」

「ううん。……ていうか、今日の東雲さん、すごく可愛いね」


 不意打ちだった。


「スカートなんて珍しいじゃん。すっごい似合ってるよ」


 そう言って、結城先輩は、裏表を感じさせない綺麗な笑みを浮かべていた。

 彼女の笑顔を前に、直前まで私の心の中にあった不安は、一瞬で浄化されるように消えた。代わりに、胸いっぱいに広がったのは、どうしようもないほどの幸福感だった。


 ああ、良かった。この服して……。

 

「さ、行こっか東雲さん。私、もうお腹すいちゃった」

「はい!」


 私は肩を並べて、目的地へ向かって歩き出した――。

 

 私たちが向かうのは、駅の近くにあるカフェ。新しくできたケーキ屋が併設されていて、ランチを食べた後にデザートとしてケーキも提供して貰えるそうだ。

 いつもは一人で歩く駅前までの道も、隣に特別な人がいるだけで、全く違う景色に見えるから不思議だった。

 

「カフェなんて、久しぶりに行きます」

「そうなの?」

「はい。私、オシャレなお店に1人で入る勇気がなくて……かと言って、こっちに来てからは一緒に行くような人も居ませんでしたし」

「あ~、分かる。バイト先がカフェだから頻繁に出入りするけど、私もお客さんとして一人で行く気にはならないな」

 

 他愛のない内容でも、結城先輩が相手なら1つ1つの会話が大切な思い出になる。

 気付けば、あっという間に目的地の前に辿り着いていた。カフェは、駅から少し歩いた路地裏。白い壁に、木製のドア。いかにもお洒落な雰囲気だ。

 ランチタイムで賑わう店内。私たちは窓際の席に案内された。

 散々迷った挙句、私はキッシュプレートを、先輩はパスタランチを注文した。

 

「んー、美味しい!」

 

 幸せそうにパスタを頬張る先輩。その姿を見ているだけで、私も幸せな気持ちになる。

 大学の講義の話、見たいと思ってる映画の話、最近流行ってる音楽の話。会話は途切れることなく続き、先輩との幸せな時間が流れていく。

 食後のデザートに、約束通りケーキも食べた。ショーケースに並んだ美しいケーキを2人で選ぶ時間は、それだけで楽しかった。

 私が王道のショートケーキを、先輩が艶やかなチョコレートケーキを選び、再び席に戻る。

 

「やっぱり、チョコレートも美味しそうですね……」

「東雲さん、意外と優柔不断だなぁ。そんなに気になるなら、一口食べる?」

 

 席に戻っても先輩のケーキに目移りしてしまう私に、彼女は悪戯っぽく笑いかけた。

 すると、自分のチョコレートケーキを一口、フォークですくって、ごく自然に私の口元へと差し出す。

 

「はい、どーぞ」

 

 ――時が、止まった。

 

 目の前には、チョコレートの欠片が乗った、銀色のフォーク。その先には、楽しそうな先輩の笑顔。

 

 こ、これは、いわゆる、その……『あーん』、では……!?

 

 頭は完全に沸騰し、思考能力はゼロになる。

 

 そ、そして、これは、先輩が口をつけたフォーク、では……?

 つまり――――間接キスというやつなのでは⁉


 私は誘惑に負けて先輩が差し出すケーキにかぶりつきたくなる自分を必死に抑えた。

 

「……い、いえ! 大丈夫です! 自分のを食べます!」

 

 先輩は「そっかー」と、残念そうに、そのフォークを自分の口へと運んでいった。


 心臓に悪いよ先輩……。

 

 それまで先輩のデート(と、勝手に思っている)を意識せず、自然と会話を楽しめていたのに、一気に緊張感戻ってきてしまった。

 一度『デート』という言葉を意識すると、カフェの中に、やたらカップル多いことに気が付いた。

 

「今度の記念日、どこ行く?」

「アタシ、温泉とか行きたいな!」

「良いじゃん温泉! 俺も好きなんだよね!」

 

 近くのカップルの声が、聞こえてくる。


 良いなぁ……好きな人と旅行。楽しそう。

 ちょっと前までこんなこと考えたこともなかったのに……。

 私と先輩だったら、何処に行くんだろう?

 

 そんな、意味のない想像が、頭をよぎる。

 目の前で美味しそうにケーキを頬張る先輩を見ていると、「好きだ」という気持ちは、もうどうしようもなく溢れてくる。

 

 先輩のことを、もっと知りたい。

 私がまだ知らない、先輩を、もっと。


 店内の甘い空気に流されて、私は少しだけ大胆になっていた。

 気が付くと、私は普段なら絶対にしない質問を先輩にぶつけていた。

 

「……あの、先輩は、どんな人が、タイプなんですか?」

 

 その言葉を口にした瞬間、カフェの賑やかな喧騒が、すっと遠くなるような気がした。

 私の言葉に、先輩は少しだけ驚いたように目を丸くした。

 そして、その表情が一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ曇ったのを、私は見逃さなかった。

 いつの太陽みたいに明るい笑顔ではなく、どこか遠くを見るような、少しだけ冷たい表情。

 

「うーん……どうだろう」

 

 ぽつり、と彼女は言った。

 先輩は曖昧な微笑みを浮かべているけれど、その笑顔は、どこか壁を作っているように見えた。

 

「昔はいろいろあったけど……最近は、そういうことを考えることがないね」

 

 先輩は、そう言って困ったように笑う。

 

「今は、恋人とかは必要ないかなって感じなんだ。そういうの、なって」

 

 嫌悪感すら感じさせるその言葉は、まるで鋭い氷のれきのように、冷たく私の胸に突き刺さった。

 

「そ、そうなんですね! すみません、変なこと聞いちゃって……!」

「ううん。全然良いよ。でも意外。東雲さんは、そういうことに興味ないと思ってた」

「……そ、そうですね。でも、なんだか、店内の雰囲気に当てられちゃって……」

 

 必死に笑顔を取り繕って、私はそう言った。


「あ~、やっぱりカフェってカップル多いもんね」

 

 それからの会話は、もうほとんど覚えていない。

 ケーキの味も、どこかぼやけて記憶に残らなかった――。


 アパートに戻るまで、私は平静を装いながらも、どこか遠い所に意識があるような、ぼんやりした気持ちになっていた。

 

「今日は……ありがとうございました。ごちそうさまでした」

「ううん、こちらこそ。じゃあ、私、これからバイトだから。今日は悪いけど夕食は別々で!」

「はい。バイト、頑張ってください」

「うん! それじゃあ、またね!」


 先輩はいつも通りの優しい笑みを浮かべて自分の部屋の中へ消えていく。

 自分も自室のドアを開け、中に入ると、そのままドアに寄りかかる。


 これって、アレか……間接的に、フラれちゃった感じか。

 うわ~……なんだろうこれ。うわ~~~~~…………。


 最高の朝を迎えたはずの私は、どんよりとした気持ちで夜を迎えていた。

 その後は、夕食も食べず、ただただ憂鬱な気分でベッドに寝転がって過ごした。

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