第1話 前編――時計塔の囁き
拙作『霧の街の挑戦状〜ミステリー入門編2』をご覧いただき、ありがとうございます。
このシリーズは「読者への挑戦状」を合言葉に、
毎回ひとつの事件を取り上げ、
犯人・動機・トリックをフェアに提示された手掛かりから推理できるよう構成しています。
探偵より先に真相に辿り着けるのか、
あるいは物語の最後で驚きを味わうのか――
その判断は、すべてあなたに委ねられています。
第1話は、大時計塔を舞台にした事件です。
「鐘の音は確かに鳴った。しかし、その“時刻”は本当に正しかったのか?」
ここに、本作最初の挑戦が隠されています。
どうぞページを進める前に、登場人物の証言や描写を注意深く拾ってみてください。
きっと、あなたの推理力を試す瞬間がやってきます。
それでは、霧の街の物語をお楽しみください。
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第1話 前編――時計塔の囁き
冬の霧は、街をやわらかな布で包むように流れていた。
ガス灯が一つ、また一つと灯り、そのたびに白い息のような灯りが霧の膜を押し広げては、すぐに呑み込まれる。石畳は昼間の湿りをまだ残し、靴底に鈍い音を返した。
私――カーターは、コートの襟を立てながら坂道を上った。坂の最上段には伯爵邸、そのさらに背後に街の心臓とも言うべき大時計塔が、薄闇から刃物のように輪郭を抜き出して聳えている。
塔の四面には象牙色の文字盤。長針と短針は、いつもと変わらぬ静謐さで時間の階段を昇り続けていた。だが今夜は、見えるはずのない“ためらい”が、刃のような寒気のなかで確かに感じられた。
「寒いね、カーター君。けれど、霧は耳には優しい」
隣を歩くヴァンスが、まるで独り言のように言った。
彼は革手袋の指先で帽子の庇を軽く押さえ、視線だけで塔を一巡した。探偵という職業は、寒さを遠ざける術を持っている。観察と推論という熱が、体の芯に火を点すのだ。
伯爵邸の門前では、執事が背筋を正して我々を迎えた。名はジャイルズ。背は高く、動きは無駄がない。
「お待ちしておりました、ヴァンス様。伯爵閣下は書斎に。塔守オルドリッチは……塔におります」
最後の一言だけ、わずかに声が曇った。
赤絨毯の敷かれた玄関ホールを抜けると、右手に書斎、左手の奥に塔へ通じる扉が見える。壁には先祖の肖像画が幾枚も、冬の空気にふさわしい冷たい視線を落としていた。
私の耳は、風に混じってかすかな油の匂いを嗅ぎ取る。機械油の匂いだ。馴染み深い刺激が、軍医時代の記憶を呼び起こす――整備場、金属、汗、そして時間に追われる感覚。私はその匂いの出所を探して反射的に視線を巡らせた。
「奥です」ジャイルズが言う。「歯車室から、時折」
ヴァンスは微笑もしなかった。ただ一つうなずくと、書斎の重い扉をノックする。
「どうぞ」という掠れた声が返り、我々は伯爵と対面した。
リチャード伯爵は五十代半ば、威厳ある顔立ちだが、体調の陰りは隠せない。杖を膝に立て、火の落ちかけた暖炉の前に座っている。
「来てくれて助かった、ヴァンス君。塔守のオルドリッチが、どうにも落ち着かないのだ。鐘の調子が、と」
伯爵が言葉を探すあいだ、私は書斎の壁の振り子時計に目をやった。振りは規則正しい。だが文字盤の数字の縁に、かすかな擦り傷がある。人の指でしょっちゅう触れられ、磨り減ったような痕。些細なことだが、時計にまつわる家の“癖”のように感じられた。
「わたしは塔の売却を考えている」伯爵は唐突に切り出した。「維持費が嵩みすぎる。だが姪のエレノアは猛烈に反対している。オルドリッチも同様だ。彼は塔を、街の心臓などと言ってね。私にとっては、出血の心臓だ」
「対立は、時間を乱します」ヴァンスが穏やかに答えた。「実際の時刻ではなく、人の“感じる時刻”を、です」
伯爵はため息をつき、火掻き棒で薪を寄せた。火の粉が一つ、はらりと舞った。
「六時の鐘が鳴る。今夜、君たちにも立ち会ってほしい。あの老人は六時の鐘を誇りにしている。だが、ここ数日、鐘はわずかに遅れて鳴ったと、街が言い立てているのだ。そんなはずはないのに」
「六時――」ヴァンスは懐中時計で時刻を確かめた。「あと四十分」
我々が塔の根元へ向かうと、通路で若い男がすれ違いざまに軽く会釈をした。指先まで油染みの作業着。痩せた頬。
「時計職人のハロルドです」ジャイルズが紹介した。「修繕を任されております」
ハロルドは目だけで笑った。指は細くよく動く。懐から出した布で、無意識のように手の油を拭っている。
「歯車室で少し調整を。すぐ終わりますので」
私の鼻先を、より濃い機械油の匂いが掠めた。さきほどの廊下より強い。新品の油というより、古い油に新しい油が重ねられた時に特有の、甘く重たい、粘りを含んだ匂い。
塔の扉は重く、長い年月の丁寧な手入れが染みこんでいる。螺旋階段の石は人の足で磨かれ、中央は僅かに窪んでいた。上層に行くほど冷気が強くなる。
歯車室に入ると、音が変わる。外の風の唸りに、金属の微かな唸りが加わった。歯車のかみ合う連続音。規則正しいはずのその呼吸に、どこか浅い乱れが潜んでいるように感じられた。
「オルドリッチは?」ヴァンスが問う。
「最上段です」ハロルドが顎で上を示す。「鐘の綱の確認を」
「よろしい。行こう、カーター君」
最上段の鐘楼に出ると、霧がわずかに切れて街の灯りが遠くに並んでいるのが見えた。青灰色の世界。鐘は巨大な貝の殻のように口を開け、冷たい金の腹を露わにしている。そこに、塔守オルドリッチがいた。
彼は背筋を伸ばして立ち、風に白髪を揺らしていた。顔は皺だらけだが目は澄み、鐘の腹を撫でるように視線を這わせている。
「おや、ヴァンスさんじゃないか」声は若い。「あんたなら鐘の嘘も見抜けよう」
「鐘は嘘をつきませんよ、オルドリッチ氏」ヴァンスが返す。「嘘をつくのは、人の耳と記憶だ」
老人は笑った。
「よく言う。だが、ここ数日、鐘は遅れたと人が言う。わしは遅らせとらん。わしの手は嘘を憶えとらんよ」
その手は節くれ立ち、だが綱を扱う指の運動は若者のように軽かった。私はその動きをじっと見た。掌の皮は硬く、擦り傷が新しい。
「オルドリッチさん」私は声を掛けた。「歯車室で油の匂いが強い。最近、職人が大きな調整を?」
「やつは“微調整”だと言い張る」老人は眉をひそめた。「微調整にしたら油が新しすぎる。しかも重ねている。古い油を落とさず、新しい油で口紅を塗ったようなもんだ。器械はそれを嫌う」
ヴァンスが、鐘の縁に軽く触れて手を引いた。指先を鼻に近づけ、金属と油の匂いの重なりを確かめている。
「六時の鐘まで、わずかだ」彼は私に目配せした。「下へ戻ろう。針の動きがよく見える場所へ」
歯車室に降りると、ハロルドは帳面に何やらメモを取っていた。指先には黒い油。帳面の端には、五時五十五分の文字。
「何の記録だね?」ヴァンスが訊く。
「調整の目安です。五時五十五分、短針がこの目盛りに来たときの歯車の抵抗値。六時ちょうど、鐘のレバーが落ちる。何分の遅れも許されませんから」
口ぶりは丁寧だが、言葉の奥に微かな焦りが混ざっている。私は彼の作業着の袖口に目を留めた。糸が一本ほつれ、その先に固まった微かな黒い粒が付着している。油というより、磨耗した金属粉が絡んだような粒。
「鐘の合図は?」
「このレバーです。長針が十二を指すと、ここが落ちて鐘を打つ。単純です。単純なほど、誤魔化しがきかない」
「なるほど」ヴァンスは短く答え、文字盤の裏側に回った。
内側から見る針は、外側とは違う生々しさで時を示している。金属の細い軸、歯車の波が押し、返し、押し直す。
彼は眉を動かした。「カーター君、見えるか。長針の基部に、擦り傷がある。爪で軽く止め、滑ったような細い刃の跡だ。ごく最近だ」
私は前の戦で見た医療器具の傷痕を思い出す。止めようとして止め切れず、僅かに皮膚を掠めたときにできる、あの種類の線だ。
「針は止められた?」
「少なくとも、止めようとされた」ヴァンスは言う。「あるいは――数分、止められたのかもしれない」
歯車室の空気が、ふっと重くなった。
私は窓ににじむ霧を見た。屋外の世界は静かだ。だが塔の内部では、何かが微かにずれている。針のためらいのような、時間の呼吸の浅さ。
「六時になります」ハロルドが言った。
我々は文字盤を見上げた。長針はゆっくりと十二へ、短針は六へ。
息が詰まる一瞬――歯車が喉の奥で音を飲み込んだかのような微細な沈黙――次に、レバーが落ちるわずかな振動が床から伝わる。
そして、鐘。
最初の一打は、深い谷に石を落とすように空気を震わせた。
二打、三打――
私は胸の内で数える。四、五、六。
鐘の音は街に流れ、霧の膜を震わせ、遠くの犬が一声吠えた。
鐘が止むと同時に、上から叫び声が降ってきた。
「オルドリッチ!」
誰かが駆け上がる足音。私とヴァンスも続いた。螺旋階段を三段飛ばしに駆けると、鐘楼の床に老人が倒れているのが見えた。
背中がわずかに痙攣し、口元に赤い泡。胸には深い刺創。
私は膝をつき、手を添えた。体温はあるが、急速に失われている。
「脈は……」
ヴァンスが私の肩に手を置いた。静かな力で制した。「カーター君」
私は目を閉じ、小さく息を吐いた。
――遅かった。
鐘楼の風が冷たく吹き抜けた。
ハロルドが蒼白になって立ち尽くしている。
「なぜ……どうして……」
エレノアがどこからともなく現れ、口元を押さえて泣き声を呑み込んだ。
伯爵は杖にすがって、ただ唇を震わせている。
「六時の直前に、何がありました?」ヴァンスの声は低い。
「私は歯車室に」ハロルドが答える。「長針の動きを見ていました。鐘が鳴った瞬間、レバーが落ちるのを感じて……すぐに上がってきたときには、この通りで」
「私は中庭で鐘を聞きました」エレノアが言う。「日記に書こうと思って。毎日、六時の鐘は……」
伯爵は書斎を指した。「私は机で。鐘を数えた。間違いなく六打。遅れはなかった」
ヴァンスは首を傾げ、老人の懐から懐中時計を丁寧に抜き出した。
蓋を開く。
「五時五十五分で止まっている」
私の背に鳥肌が立つ。
「衝撃で止まったなら、六時直後――のはずだ。だが針は五時五十五分。止められていたのか?」
「可能性がある」ヴァンスの瞳に微かな光がともる。「誰かが、時間に触れた」
塔の床に小さな黒い粒が散っていた。私はそれを指先でつまみ、鼻先に寄せた。金属粉に油が絡んだ匂い。
袖口のほつれに付着していたものと同じ気配。
私は無言でハロルドの袖口を見た。ハロルドも目を落とし、慌てて布で拭った。布には黒い筋。
「六時の鐘は、確かに鳴った」伯爵は強張った声で言う。「街の者も聞いている」
「鐘は鳴りました」ヴァンスは頷いた。「鐘は正直です。だが、人の耳に届いた“六時”が、本当に六時だったか――そこに疑問がある」
ヴァンスは鐘楼の縁から街を見下ろした。
霧に細い道が浮かび、遠くで子どもの笑い声がかすかに上がった。世界は、何事もなかったかのように続いている。
だがここで、一人の老人の時間は止まった。五時五十五分で。
「下へ降りましょう」ヴァンスは静かに言った。「**針の“ためらい”**を、もう一度確かめたい。歯車室に痕跡があるはずです」
歯車室に戻る道すがら、私は自分の胸の内を点検した。
油の匂い、針の擦過、懐中時計の時刻、袖口の金属粉、そして全員の「六時」という証言。
証言は一致する。だが一致が過ぎるとき、そこには誰かの“整えた手”がある。
「ヴァンス」私は囁いた。「もし針を数分だけ止めることができるなら――」
「ええ」ヴァンスは言う。「人が感じる六時を実際の六時からずらせる」
彼は歯車の列の一つに指を滑らせた。そこに、微かな磨耗の帯が走っている。
「見なさい。一度、押し止めて、二度、滑った痕。止めたのは強い指。短時間だ。数分」
私は固唾を呑んだ。
「では、犯人は“六時の鐘の直前”にここにいた?」
「六時の鐘が鳴るように感じられる、数分前にね」ヴァンスは淡々と言った。「時刻は動かせない。だが、人の耳に届く“六時”は動かせる」
歯車室の隅に、薄い布切れが落ちていた。拾い上げると、布は油で重く、端が焦げたように黒ずんでいる。
「それは?」
「清拭布でしょう」ハロルドが言った。「綺麗にしていないと、埃が歯を噛む」
「端が焦げています」私は示した。
ハロルドは一瞬、言葉に詰まった。
「作業灯に近づけすぎたのかもしれません」
ヴァンスは布を持ち上げ、光に透かした。
編み目のなかに、きらりと光る粉。
「真鍮粉だ。歯の先の磨耗。“止めるとき”に剝がれる」
彼は布をそっと戻し、視線を私に寄越した。
「ここまでの材料で、君にも推理はできるはずだ。だが、まだ言わないでおこう。言葉は、時に針を止める」
階段を降りる途中で、エレノアが追いついてきた。
涙の痕はそのままだが、瞳は強い。
「オルドリッチは、塔を守るためなら何でもした人です。売らせないために、伯爵と争っていた。だけど、殺されるような人じゃない」
「彼は真っ直ぐだった」私は言った。「真っ直ぐな人は、時に人の曲がりを照らしてしまう」
彼女はうなずき、小さな革の手帳を差し出した。
「毎日の記録です。六時の鐘を、私はいつも書きつけています。今日も、六つ」
薄い紙には繊細な字で、**“六時、六打”**とある。その横に小さな印――“遅れなし”。
「あなたの文字は正確です」ヴァンスが言った。「正確な文字は、正確な時刻を保証しない。人の耳は、鐘が鳴れば六時と記すよう出来ている」
彼女は俯き、手帳を胸に押し当てた。
「塔を、売らないでください。伯爵に伝えてください」
ヴァンスは答えず、ただ丁寧に会釈した。
広間に戻ると、伯爵と甥のアルバートが言い争っていた。
「だから言っただろう、あの老人は妨げだ!」アルバートは派手な服装に不釣り合いな声で叫ぶ。「塔を売れば、家は救われる!」
「黙れ」伯爵の声は低いが固い。「今は黙れ」
アルバートの視線が一瞬、歯車室の扉に向かった。その瞳の奥に、焦りと欲の濁りが走る。私は無意識に彼の靴を見る。靴底に、細かい金属粉が――いや、これは煤だ。暖炉の灰を踏んだのだろう。
だが、観察は積み重ねるものだ。一つでは足りない。三つ、四つ集まって、初めて線になる。
ヴァンスは執事ジャイルズに向き直った。
「六時の鐘が鳴る前後、塔へ通じる扉を誰が開けました?」
「私が見張っておりました。出入りは、ハロルド様と、オルドリッチ様だけ。あとは……」
ジャイルズは記憶を探り、少し視線を宙に泳がせた。
「エレノア様が一度、塔の下まで。中には入っておられません。伯爵家の方々は庭で鐘を。アルバート様は……」
「私は広場へ向かっていた!」アルバートが割って入る。「六時の鐘を合図に。あの広場の時計と同期していると、友人に証明してやるつもりで」
「広場へ?」ヴァンスは首を傾げた。「鐘が鳴った直後に?」
「そうだ!」
ヴァンスはわずかに微笑した。「広場の店主に伺いましょう。**君の到着が“鐘の前”**だったという証言も、いま得ていますので」
アルバートの顔から血の気が引いた。
「見間違いだ……霧が濃かった。みんな、錯覚してるんだ」
錯覚――今夜という夜の鍵となる語が、軽く、だが確かに空気を打った。
ヴァンスは懐中時計を閉じ、私に向けて顎をしゃくった。
「カーター君」
その短い呼びかけに、次の段取りはすべて含まれている。配達の確認、広場の証言、油の出所、針の擦過の角度――
だが今は、ここまでだ。
塔の外では、霧がいっそう濃くなりつつある。
世界は白い帳を降ろし、そこで起きたことを曖昧に包み隠そうとする。
それでも、歯車は嘘をつかない。
針のためらいは、たしかに残る。
懐中時計の五時五十五分は、静かに、しかし執拗に我々を見つめ続けている。
ヴァンスは背筋を伸ばし、伯爵と使用人たちに穏やかに告げた。
「皆さま。今夜は、“時刻”をもう一度整える作業から始めます。鐘は正直です。人の耳が、それに追いついていないだけだ」
私は彼の横顔を見た。
“時間は人を騙すが、歯車は嘘をつかない”――彼の口癖が、今ほど重みを持って聞こえたことはない。
(第1話 前編・了。中編へ続く)
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