第34話 追い込み時期、尊い距離の変化

 十一月も半ば。

 落ち葉が校庭を埋め、朝の空気は冬の匂いを帯びていた。

 受験まで、もう三か月もない。


 教室では、昼休みですら多くの生徒が参考書を広げていた。

 ざわめきは減り、重たい鉛筆の音があちこちから響いている。


「……尊いですわ」

 琴音が席に座りながら呟いた。

「皆さまの必死さが尊いですわ!」

「いや、図書室みたいに静かな教室で『尊い』って言うのやめろ。浮くから」

「尊い浮遊ですわ!」

 クラスメイトの小さな笑いが空気をほぐした。

 琴音は、やっぱりみんなを和ませる存在だった。


 放課後。

 三人で図書室に集まる。


 森山は黙々と問題集に取り組み、口を開くことすら少なくなっていた。

「……」

 ページをめくる音だけがやけに重く響く。


「森山さん、少し休まれては?」

 琴音が恐る恐る声をかける。

「くだらない。時間の浪費だ」

「尊い浪費もありますわ!」

「ない」


 会話が途切れた。

 以前なら苦笑で済ませられたやりとりが、今は重苦しい沈黙に変わっていた。


 そんな中、琴音が必死にノートを広げているのが目に入った。

 難しい英文を一行ごとに写し取り、意味を調べ、カラーペンで書き込む。

 彼女の手は震えていたが、それでも止まらない。


「琴音……」

 俺が声をかけると、彼女は振り返って笑った。

「尊いですわ! 不安だからこそ、尊い努力ができるのですわ!」


 その笑顔に、かえって胸が痛くなった。

 尊いを口にしてはいるけれど、その目は必死で――追い詰められているようにも見えた。


 帰り道。

 夕暮れの冷たい風が頬を刺す。


「森山さん、最近ほとんど笑いませんわね」

 琴音がぽつりと言った。


「……笑っている余裕はない」

 森山は淡々と答える。

「東大に落ちれば、俺の道は閉ざされる。それだけだ」


 その言葉に、琴音は小さく頷いた。

「わたくしも同じですわ。尊い夢を追いたい。でも、数字は冷たいですの」


 重い空気が漂った。

 俺は二人の横顔を見ながら、強く思った。


(……このままじゃ駄目だ。二人がそれぞれ追い詰められて、笑顔が消えてしまう)


 その夜。

 机に向かい、俺は自分のノートを開いた。


 これまで、調整役でいることに甘えていた。

 でも、二人が本気で未来を掴もうとしているのに、俺だけ迷っているわけにはいかない。


(俺も……本気で進路を決めて、挑まなきゃいけない)


 心の奥に小さな炎が灯った気がした。

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