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週刊ノンフィクション 2024年10月7日号 公開記事
【週刊ノンフィクション 2024年10月7日号 公開記事】登山道に消えた微笑み、田中さん失踪から1ヶ月。難航する捜索、深まる家族の悲しみ
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序章:静寂が人を呑み込むとき
一台の白いコンパクトカーが、⚫︎⚫︎山地の麓にある県営駐車場の隅に、主の帰りを待ち続けている。持ち主は、都内のIT企業に勤務する田中澄子さん(仮名・30歳)。彼女がこの場所から、澄み渡る秋空の下、山の懐へと足を踏み入れてから、既に一ヶ月という時間が流れようとしていた。警察、消防、そして土地勘に優れた地元の山岳会による、延べ数百人規模の懸命な捜索活動が続けられている。ヘリコプターが空から山の襞(ひだ)を舐めるように監視し、優秀な捜索犬が鋭い嗅覚で落ち葉の積もる地面を追った。しかし、彼女の鮮やかな色のザックも、身につけていたはずのウェアの切れ端すら、発見には至っていない。まるで、彼女という存在そのものが、山の深淵に溶けて消えてしまったかのように。
事件が発覚したのは、彼女が下山予定時刻を半日以上過ぎても帰宅せず、心配した家族が警察に通報したことからだった。携帯電話は応答せず、GPS機能も途絶。翌朝、登山口の駐車場で彼女の車が発見され、事態は単なる連絡の行き違いではない、深刻な遭難事件として動き出した。
「週末には多くの登山客で賑わう山です。しかし、彼女の姿を見たという決定的な目撃情報が一つもない。これほど大規模な捜索にもかかわらず、全く手がかりがないというのは、我々の経験の中でも極めて異例です。」
捜索本部の責任者は、疲労の色を隠せない表情で語る。⚫︎⚫︎山は、登山道も整備され、家族連れにも人気の、いわゆる「優しい山」として知られていた。だが今、その穏やかな山のイメージは、一人の女性を呑み込んだ「神隠しの山」として、不穏な影を落とし始めている。
第一部:周囲が語る「理知的で計画的な人柄」
なぜ彼女は消えたのか。その謎を解く鍵は、彼女の人物像にあるのではないか。我々取材班は、彼女の日常を知る人々のもとを訪ねた。そこで浮かび上がってきたのは、遭難という言葉とは最も縁遠い、理知的で自己管理能力に長けた女性の姿だった。
「澄子が無計画な行動をするなんて、到底考えられません。仕事でもプライベートでも、彼女は常に最善の準備をする人でしたから。」
そう声を落とすのは、田中さんの会社の同僚であり、親友でもある女性だ。彼女が語る田中さんは、まさに現代を生きる理想的な社会人の姿そのものだった。
「仕事では、決してミスをしないことで有名でした。どんなプロジェクトでも、起こりうるリスクを事前に洗い出し、常に対策を準備しておく。後輩の面倒見も良くて、彼女を慕う社員は本当に多かった。そんな彼女が、自分の命に関わる登山で、準備を怠るはずがないんです。」
その言葉を裏付けるように、彼女の生活は「計画性」と「健康」という二つのキーワードで彩られていた。毎朝、彼女が会社のデスクで広げる手作りの弁当は、同僚たちの間でも評判だったという。タンパク質、脂質、炭水化物のバランスを考慮した彩り豊かなおかずは、まるで健康雑誌の特集ページのようだ。
「お昼は外食をほとんどしない人でした。『自分の身体は、自分が食べたものでできているから』が口癖で。週に3回は仕事帰りにジムに通い、ヨガや筋力トレーニングで汗を流すのが習慣。ストイックというより、自分の心と身体を丁寧にメンテナンスするのを楽しんでいる、という感じでしたね。」
今回の登山においても、その計画性は遺憾なく発揮されていた。失踪の数週間前、彼女が訪れたという都内の登山用品店を我々は突き止めた。そこで彼女を接客したスタッフは、当時の様子を鮮明に記憶していた。
「最近は、見た目がおしゃれなウェアから入る初心者の方も多いのですが、田中さんは全く違いました。登る山の標高、ルートの特性、想定される天候の変化まで、ご自身でしっかり調べ上げた上で、必要な機能について的確に質問をされてきたんです。例えば、『このジャケットの耐水圧はどのくらいですか』とか、『汗をかいた時の透湿性はどうですか』とか。初心者とは思えない知識量で、安全に対する意識が非常に高い方だと感じました。最終的に選ばれたのも、流行りのブランドではなく、質実剛健で信頼性の高いメーカーのものばかり。完璧な装備でした。」
第二部:霞に消えた「夢」と、もう一つの趣味
計画的で、慎重で、常に冷静。そんな彼女が、今回の登山には特別な思いを抱いていたことが、取材から分かってきた。失踪前、複数の友人に「やっと夢が叶うんだ」と、興奮した様子で語っていたという。
「本当に嬉しそうでした。子供みたいに目を輝かせて。」
友人の一人は、涙を堪えながら当時の会話を振り返る。
「だから、私もつい『すごいね、百名山制覇とか?』なんて軽い気持ちで聞いてしまったんです。そうしたら、彼女、少し困ったように笑って、『うーん、そういうのじゃないんだけど、すごく良いこと』って。それ以上は教えてくれませんでした。あんなに楽しみにしていたのに…。どんな夢かちゃんと聞けてないことが本当に心残りで...ただ、ただ無事に帰ってきてほしい。それだけです。」
山に登ること自体が夢なのではない。では、彼女にとっての「夢」とは、一体何だったのか。そのヒントは、彼女のもう一つの趣味にあったのかもしれない。
彼女は、日常的にランニングを楽しんでいた。だが、それはタイムを競ったり、決まったコースを走ったりする一般的なそれとは少し趣が異なっていたという。
「彼女、よく『観察ランニング』って呼んでました。」
前出の同僚は言う。
「その日の気分で、全く知らない道を気の向くままに走るのが好きだったみたいです。『普段は気にも留めない路地裏の看板とか、お店の軒先にいる猫とか、すれ違う人の会話とか。そういう、世界の断片みたいなものを集めるのが楽しいの』って。まるで、走ることを通じて、この世界の誰も知らない側面を覗き込んでいるような、そんな不思議なことを言っていました。思えば、あの観察眼が、仕事でのリスク管理能力にも繋がっていたのかもしれません。」
計画的な日常の中で、唯一計画性のない、自由な「観察」。その先に、彼女は何を見つめていたのだろうか。
第三部:唯一の手がかりと、険しい山の現実
捜索は困難を極めている。彼女が登った⚫︎⚫︎山は、標高こそ高くないものの、一度登山道を外れると、深い沢や切り立った崖が複雑に入り組む、熟練者でも迷いやすい地形が広がっている。失踪から数日後には不運にも雨が続き、地面はぬかるみ、新たに発生した霧が捜索隊の視界を奪った。
「我々も諦めてはいないが、時間が経つにつれて状況が厳しくなっているのは事実です。山の広さはもちろんですが、落ち葉が深く積もっているため、万が一滑落していても上からは見えにくい。二次災害の危険もあり、無闇に危険な箇所へ隊員を送り込むわけにもいかないのです。」
捜索隊を率いるベテラン隊員は、厳しい表情で語る。そんな中、唯一の物的な手がかりが発見されたのは、失踪から一週間が経過した日のことだった。
発見されたのは、彼女が携行していた登山用のGPS機材。場所は、本来の登山ルートから沢筋を500メートル以上も下った、人がほとんど立ち入らないような場所だった。泥に半分埋もれていたが、奇跡的にも大きな損傷はなかったという。
なぜ、慎重な彼女が、これほどまでにルートを大きく外れたのか。道に迷ったのか、足を滑らせたのか、それとも何者かに誘導されたのか。専門家によるGPSのデータ解析が進められているが、それが途絶えた地点からの消息は依然として掴めていない。残された小さな機械は、答えの代わりに、遺された者たちへ更なる謎と悲しみを投げかけている。
彼女の帰りを待つ都内のアパートの一室は、出発の日の朝のまま、時が止まっている。一日も早い発見が、そして無事の帰還が待たれる。
(雑誌「週刊ノンフィクション」記者:岸谷)
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