第2話 「階段の踊り場にて」

 階段の踊り場は、ひとつ進むごとに性格を変える。郵便配達人は、鉄の手すりに手をかけるたび、違う季節の指先に触れた気がした。冷やり、ぬくもり、木漏れ日。階段は空をねじりながら世界の抽斗をいちいち開けて見せるのだ。


 最初の踊り場には、巨大な靴屋がへばり付いていた。壁一面が革で、天井からは紐が蔓のように垂れ下がる。店主は掌ほどの小人で、釘を口にくわえながら配達人の靴底を見上げた。

「郵便屋さん、ソールが“物語疲れ”してますね。張り替えます?」

「まだ二話目ですけど」

「二話目だからこそ擦り切れるんです。期待と不安の歩幅は、想像以上に重い」


 小人は釘をひょいと投げ、空中でそれが「!」の形に並んだ。配達人は笑って辞退し、封筒を確かめる。やはり宛先は「螺旋階段の上」。封筒はほんの少しだけ重くなった気がする。何が増え、何が減っているのか分からない。ただ、封を破れば全部が零れ落ちそうで、指先はためらった。


 次の踊り場は宙吊りのカフェだ。床が見当たらないのに客だけが座っており、カップは空中で湯気を立てる。老夫婦が向かい合い、スプーンを髭のようにたくわえて笑っていた。

「おや、郵便屋さん。お飲み物は?」

「どうやって座ればいいのか教えていただければ」

「座ることから自由になることよ」老婦人が言い、配達人を手招きした。彼がおそるおそる腰を下ろすと、椅子があとからやってきて彼を受け止めた。

「宛先をお探し? わたしたちは宛先に手紙を書くのをやめたの」老紳士が窓のない空を見上げる。「誰かに届くより、誰かが来るのを待つのが好きでね」

「浪漫的ですね」

「老眼的とも言うわ」老婦人がふふ、と笑った。


 配達人はコーヒーの香りに目を細めた。封筒が膝の上でかすかに震える。心臓の鼓動よりも遅く、雲の影よりも確かな拍動だ。「届く」ほうへ向かって、なにかが育っている。彼は勘定の代わりに「約束」を一枚置いた。すると会計は自動的にゼロになった。約束は値段の単位であるらしい。


 三つ目の踊り場は、議論の輪が途切れない学者たち。黒板が階段の外側にずらりと続き、粉の白い風が舞う。

「上か下か、それが問題だ」

「いや問題は階段が“どちらでもない”と主張していることだ」

「ならば斜めだ」

「螺旋に斜めは存在するのか?」

 配達人は挙手した。「質問です。宛先が“上”にある場合、上という概念は距離ですか、方向ですか?」

 学者たちは顔を見合わせ、一斉にうなった。「詩だ」「科学だ」「お茶だ」

 お茶が配られた。カップの内側に、墨で細い矢印が描いてある。矢印は湯気に混じってゆっくり回転し、最後に封筒の方角を指した。学者の一人が満足そうに言った。

「結論:この手紙は、まだ宛先を獲得していない」

「獲得?」

「物は置けるが、場所は生まれるのだよ。特に“上”という場所は、登った足の数で育つ」


 配達人は礼を言って立ち上がる。封筒はさっきよりさらに重い。鞄の他の手紙が、遠慮して端に寄る気配がした。重たさは不思議と疲れではなく、むしろ背筋を伸ばさせた。届ける価値が、重力の形をとっている。


 四つ目の踊り場。看板には「迷子保管所」とある。金属製の棚に、なくした時間や言いそびれた言葉がタグ付きで並んでいる。係員は猫背の青年で、物静かな目をしていた。

「迷子、預かってますか?」

「心当たりは?」

「特には。ただ、たまに配達路で“自分の次の一歩”を見失います」

「それならこちらです」青年は小さな箱を差し出した。箱を振ると、コロン、と軽い音がする。ラベルには“ためらいの一秒”と書かれていた。

「お預かりした覚えは?」

「あります。皆、気づかぬうちに置いていくんです。必要なときにだけ返すことにしています」

「料金は?」

「お礼に、階段の歌をひと節」

 配達人は喉をひとつ鳴らし、鉄と風の旋律をまねて口笛を吹いた。青年は目を細めて笑い、箱の封を切って彼の胸ポケットに滑り込ませた。胸のあたりが少し軽くなった。


 そのとき、封筒の重みがふっと和らいだ。脈動は残るが、拍が整っている。配達人は気づく。――重さは、上へ行きたがっているときに増え、行けると分かった瞬間に軽くなる。


 五つ目の踊り場では、手すりが風鈴になっていた。ひゅう、と吹き抜けるたび、どこかの街の午後の音が鳴る。洗濯機、学校の鐘、未投函のため息。配達人は足を止め、封筒を耳に当ててみた。中から、紙ではない音がした。足音。自分の靴音とぴたり重なる、もう一人の歩みだ。

「……先に行ってるな」

 未来の自分――そんな言葉が、舌の先で転がった。確かめるように一段上がる。音は半歩先へ跳ねた。


 踊り場はまだまだ続く。が、配達人の心は奇妙な均衡にある。疲労と興奮、謎と笑い。彼はふと思い立ち、封筒の宛名にそっと親指を乗せた。指先の熱で、インクがわずかに柔らかくなる。文字は揺れ、細く伸び、見知らぬ行き先をためしては戻ってくる。宛名はまだ「螺旋階段の上」のままだが、その上にごく薄い影が重なった。――「もっと上」。


「了解」配達人は帽子のつばを上げ、風の鳴る手すりに軽く会釈した。「じゃあ、もう一段いこう」


 階段は、嬉しそうにきしんだ。

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