夕凪燕 短編集 ー 「Rustの祈り」
夕凪燕
第1話 「コードの断片」
最初に光ったのは、モニターではなく窓の外だった。深夜一時、交差点の歩行者信号が誰もいない横断歩道を許可し、雨の粒だけが青の中を渡っていった。
遙斗はキーボードの上で手を止め、匿名掲示板のスレッドを見つめる。数分前、そこに落ちた短いコード片は、冗談にしては出来が良すぎた。Rustで書かれているのに、構文が数行ずつ微妙に破綻している。エディタは赤い波線を引き、コンパイラは当然のように吐き出す――はずだったエラーを、なぜか吐かない。ビルドは進む。進んで、止まらない。
「おかしいよな」
つぶやきは自分の部屋に吸い込まれた。狭いワンルームの壁紙は薄いグレー、机の端に空になったカップ麺。何も起きないはずの夜に、温度差だけがある。ターミナルに走るログは意味を持っているようで、持っていない。エラーでも成功でもない結果は、彼の指先を宙づりにした。
コード片の出所はわからない。投稿者名はランダムな英数字、スレの他の住人は「釣りだ」「AIの幻覚だ」と笑っている。笑いを滑らせるように、遙斗はコードをローカルで試した。関数の呼び出しに見えるのは、標準ライブラリにも外部クレートにも存在しない名前だ。なのに、ビルドは通る。しかもCPU負荷はほとんど上がらない。何かが動いているのに、彼のマシン上ではないどこかで動いている。
二度目の光は、遠くの高層ビル群で起きた。窓の灯りが上から下へ、波のように流れた。深夜のビルにそんな同期はない。遙斗は立ち上がり、カーテンを少しだけ開く。雨粒は窓に斜線を描き、街の輪郭を削る。その向こうで、監視カメラの赤い表示灯が一斉に瞬いた。次の瞬間、彼のモニターにも赤が波打つ。ログが一行だけ増えた。
listen: /city/cctv/* -> ok
「どこに“接続”してる」
遙斗は回線の経路を追う。トレースは奇妙に短く、何度やっても最寄りの基地局の手前で途切れる。まるで彼のマシンと街の機器の間に、地図にない私設の回路が平然と横たわっているかのようだった。掲示板に戻ると、新しいレスが一つだけ増えている。英語でも日本語でもない、祈りとも呪文ともつかない文字列。指が冷たくなった。
ターミナルに戻り、遙斗は問題の関数を切り出す。名前は「amen」。悪い冗談に見える単語だ。呼び出すと、モニターの隅が微かに揺らぎ、外の監視カメラが角度を変えた。誰もいない交差点を、ガラスの目が確かめる。風が吹いたのか、木の葉が揺れたのか。いいや。彼のEnterが押された音と、カメラの首振りのタイミングは、ぴたりと重なっていた。
胸の奥をなぞるように、不快ではない震えが走る。都市が彼の指先と同じ呼吸で動く。その直感は滑稽で、同時に甘美だった。あり得ない。あり得ないが――。
「誰が、組んだ」
スレを遡る。過去ログのアーカイブを開き、関連するIDを拾い上げる。三か月前に似た断片が流れ、翌日に市内の交通系アプリが数分だけダウンしている。一年前、別の断片の後に、港区のエレベーターが同時多発的に誤作動を起こしたという短いニュース記事。偶然の並び、そう言い切れる統計ではない。けれど、彼の直感は「これは系列だ」と結論を出す。
遙斗には、一人だけ思い当たる人物がいた。大学院の頃の指導者、真田。鉄のように静かな目をした男で、コードを「道具」でなく「言葉」と呼んだ。コンパイルを「折り目正しい祈り」と笑って、実験を徹夜でつき合ってくれた。二年前、研究費をめぐる騒動の後に姿を消した。連絡は途絶え、研究室のPCからは高度に暗号化されたデータだけが見つかった。
窓の外、ビルの灯りがまた流れる。今度は下から上へ。遙斗はもう一度コードを走らせる。指が自然に並ぶ。amen()、listen()、そして見慣れないbind_city()という呼び出し。Enter。雨音。遠くでサイレン。モニターの左下に、短いコメントが現れた。
// forgive me
誰かが謝っている。誰かが、都市に向けて。彼は背筋を伸ばし、スピーカーの音量を上げた。無音だ。けれど耳鳴りは、都市全体が小さく息をするように聞こえた。監視カメラが一拍置いて、別の角度を向く。歩行者信号がまた青になる。夜更けの交差点を渡るのは、彼の押したEnterだけだ。
掲示板に新しい投稿が落ちた。「同じもの、見てる?」という日本語。差出人は名無しのまま。遙斗は迷わず返信する。「見てる。君は誰だ」。返事が来るまでの数秒、都市は止まっているようで、止まっていなかった。雨は弱まり、雲が切れ、遠い空が薄く群青に濡れていく。
「彼は、もう街にいるよ」
短い一文。彼? 真田のことか。遙斗は胸の内で名前を呼ぶ。見失った師の影は、雨に滲む回路図のように、彼の街の上に透けていた。モニターの端で小さな通知が跳ねる。外付けカメラからの映像が、許可なくピクチャ・イン・ピクチャで開いたのだ。部屋の外の廊下、非常灯の緑、そして――壁に貼られた避難経路図の矢印が、ありえない方向を指していた。手書きで、誰かの字で、矢印の先にこう書かれている。
「祈りはここから」
遙斗はスニーカーを履き、ドアノブに手をかける。背後でコンパイラが柔らかい音を鳴らし、ログがもう一行だけ増えた。
build: pending
この夜が、自分の書いた一行ではじまってしまったのだと、彼はやっと理解した。
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