夕凪燕 短編集 ー 「最後の一粒が落ちる前に」
夕凪燕
第1話 時を戻す砂
雨は、放課後の校門で急に濃くなる。
濡れたアスファルトが街灯をぼやかして、世界の輪郭が少し甘くなった。傘は忘れた。いや、朝の自分が置いていった。ぼんやりしていて、いつも何かを落とす。今日落としたのは、たぶん言葉だった。
「もういい、勝手にしろよ」
親友の蓮にそう言って、僕は背を向けた。
文化祭のバンド、練習を休むだの休まないだの。小さなことだった。けれど喉の奥に棘がひっかかったまま、謝る機会を逃した。家を出る前、妹の紗良に「帰ったら一緒に曲合わせしよ」と言われていたのに、「後で」とだけ返して玄関を閉めた。その「後で」が、僕は昔から苦手だ。
濡れた制服の裾を抱えて走っていると、角の古い路地で、灯りの点いた店が目についた。ガラス戸の向こうに、時間だけが積もっているみたいな空気。骨董屋なんて、ここにあっただろうか。
風鈴の音がして、戸が軽く鳴る。
薄暗い棚に並ぶのは、使い方のわからない金属具や、すでに役目を終えた懐中時計。奥のカウンターの影から、痩せた店主が現れた。年齢は測れない。瞳はやけに澄んで、僕の濡れた肩より、手のひらを見た。
「探しているものは、時間かね」
冗談かと思って、苦笑いが漏れた。
棚の真ん中に、それはあった。掌にすっぽり収まる小さな砂時計。透明な硝子の球の中、小麦の粉より細かい砂が、星屑のように光っている。耳を寄せると、砂が落ちる音がした。雨音と混じって、胸の奥に届く。
「それ、持っていくといい」
店主はあっさりと言った。「代金はいい。だが、ひっくり返す前に一つだけ」
「一つだけ?」
「落ちる砂のぶんだけ、どこかが軽くなる。軽くなったところがどこかは、選べない」
意味がわからなかった。けれど、そのときの僕は、意味よりも、今すぐ何かをやり直せたらという願いの方が強かった。
店を出ると、雨は少し弱まっていた。ポケットの中で、砂時計は手の熱を吸って体温になった。
信号が赤に変わる。夜の風がシャツの襟に入る。
——もし戻れたら。
蓮に言い過ぎた言葉を飲み込んで、紗良に「後で」じゃなく「今」を渡せたら。
横断歩道の手前、僕は砂時計をひっくり返した。
世界は、息を呑むみたいに静かになった。
雨粒が一度だけ逆向きに跳ねて、雲の底へ吸い込まれていく。街灯が細く伸び、音が遠のき、胸の鼓動だけが残った。次の瞬間、蝉の声が聞こえた。蝉? さっきまで降っていた雨は、どこにもない。
僕は校門の前に立っていた。
放課後のざわめき。傘を忘れて困っている一年生の子が、ちょうど僕の横を通り過ぎる。ポケットの中の砂時計は、ひんやりして、音を立てない。
時間が――戻った?
メッセージアプリを開くと、さっき蓮に送った腹立ちまぎれの文面が、そもそも存在しない。
代わりに、未読のままの蓮からの短い文がある。「今日、合わせられる?」
指先が震えた。すぐに「行く」と打って送る。走る。音楽室へ。ドアを開けると、蓮が驚いた顔でこちらを見た。
「遥斗、来たのか。珍しいな」
「昨日の件、悪かった。俺、ちょっと焦ってて」
言葉が、今度は棘じゃなくて糸のようにするすると出てくる。蓮は笑って、ギターを差し出した。
弦を弾く。音が空気を震わせ、窓の外の光が少し柔らかくなる。二人で合わせる。指が思い出す。こんなふうに、何度もやり直せるなら、きっと人はもっと優しくいられるのに――そんな考えが、音に紛れて消えた。
帰り道、空は薄いオレンジ色に沈んでいく。
玄関を開けると、台所から漂う醤油の匂い。母の声。「手洗ってねー」
「ただいま」と言いながら、僕は心の中で砂時計を抱きしめる。やり直せた。小さなことだけど、確かに何かが救われた。
階段を上がると、紗良の部屋のドアが半開きで、ピアノの音がこぼれていた。
「紗良、さっきはごめん。合わせ、今からでも――」
振り向いた紗良は、少し首を傾げた。
「あれ? 今日、合わせる約束してたっけ?」
胸が、ひゅっと細くなる。
「朝、言われたろ。『帰ったら一緒に』って」
「……私、言った?」
紗良は鍵盤に視線を落とし、指先でCの音を確かめるみたいに軽く叩いた。「ごめん。最近、物忘れひどいのかな。昨日の買い物メモもどっか行っちゃったし」
冗談めかして笑う顔は、普段と変わらない。
でも、その笑いの奥で、何かが欠けている音がした。ピアノの弦の一本だけが、ほんの少し緩んでいるみたいな。僕はドアの縁に手を置き、ポケットの砂時計に触れる。冷たい。いや、冷たくなった気がした。
夕飯の食卓で、母が箸を止める。
「そういえば、隣の……ほら、あの、漬物くれる奥さんの名前、なんだっけ。喉まで出てるのに」
「古川さん?」と僕が言うと、母は「そうそう」と笑って、また話題が流れていく。小さな、取るに足らない引っかかり。
でも、今日の僕は引っかかりに敏い。
食後、部屋に戻って、机の引き出しから古い譜面を出した。紗良と幼い頃に書いた、下手くそな二重奏。角は丸くなって、消しゴムの跡が白い雲みたいに広がっている。
廊下から、紗良の足音。部屋の前で一度止まって、また階段へ戻る。扉は開かない。
スマホが震えた。蓮から。「今日、良かったな。日曜、スタジオいく?」
僕は「もちろん」と打って、送信の矢印を見送った。その矢印が画面の端に消えるとき、不意に店主の声がよみがえる。
——落ちる砂のぶんだけ、どこかが軽くなる。
どこか、はどこだ。
ライトを消す。暗い部屋の中、窓の外から街灯の光が薄く差し込む。ポケットから砂時計を出す。月明かりがない夜でも、砂はかすかに光って見える。耳を澄ますと、音がした。チリ、チリ。
砂が落ち続けている? ひっくり返していないのに。
翌朝、玄関で靴ひもを結びながら、ふと違和感に気づいた。
靴箱の上の家族写真。去年の海。父と母、真ん中に僕、横に紗良。
いつも紗良は、僕の腕にしがみつくように写るのに、そこに映る紗良は半歩、離れていた。前から、こんなだったろうか。わからない。たった半歩が、はっきり思い出せない。
通学路の角で、紗良と別れる。「じゃ、行ってくるね、遥斗」
当たり前の挨拶。
なのに、彼女は続けた。「あ、今日、放課後……えっと、なんか言おうとしたんだけど、忘れた。ごめん」
僕は笑って頷いた。
心の中では、砂の音が大きくなる。
やり直すたびに、何かが軽くなる。軽くなるのは、失敗じゃない。気まずさでもない。
たぶん――記憶だ。僕の、じゃない。誰かの。
校門で、蓮が手を振った。
「おはよう。昨日の続き、放課後やろうぜ」
僕は手を振り返す。その瞬間、ポケットの中の砂時計が、ぱちん、と小さく鳴った。気のせいかもしれない。けれど、指先の皮膚が、その音を覚えている。
僕は砂時計を、深くポケットの底へ押し込んだ。
落ちる音は、聞かなかったことにする。
今はただ、やり直せることの喜びだけを、もう少しだけ、握っていたかった。
けれどその夜、二度目の雨が降ったとき、紗良は玄関で靴を履きながら、ふいに僕の方を見て、首をかしげた。
「ねえ……私、あなたのこと、なんて呼んでたっけ?」
その問いは、雨よりも静かに、まっすぐ僕の胸に落ちた。
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