三十睡目 手作と睡眠と

 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室はざわざわとした笑い声に包まれた。机をくっつけて輪になり、楽しそうにお弁当を広げる子。購買のパンを買いに、急いで廊下に駆け出していく子。あちこちから軽やかな声が重なり、昼の教室独特の温かさが広がっていく。


 そんな中で、私は鞄の中に手を差し入れた。指先が布に触れた瞬間、胸がどきんと跳ねる。

 今日だけは、朝からいつもと違う準備をしてきたのだ。


「……鳴古。」


 隣の席。分厚いベージュのカーディガンにすっぽりと包まれ、頬杖をついて半分眠っている彼女に、そっと声をかける。光に透ける金色のウェーブがかった髪が、肩にさらりと落ちて揺れた。細い茶色のフレームの眼鏡がきらりと光り、その下の眠そうな瞳が、ゆっくりと私に向けられる。


「ん……」


 いつも通りの低くのんびりとした声。返事だけで、なぜか胸の奥がざわつく。


「これ、作ってきたんだ。……よかったら、一緒にどう?」


 そっと机の上に置いた二段のお弁当箱。蓋を開ければ、彩りを考えて詰めた卵焼き、タコさんウインナー、ブロッコリー、ちょっと頑張った唐揚げ。朝、キッチンで慌ただしく用意した光景が頭をよぎると、それだけで顔が熱くなる。


「……真白の?」


 鳴古は目をぱちりと瞬きさせ、少しだけ身を起こした。カーディガンの袖が机にずるりと落ちる。その動きまで、妙にゆったりしていて、見ているこちらが落ち着かなくなる。


「うん。……初めてだから、あんまり期待しないでね。」


 苦笑交じりにそう言うと、彼女は小さくまばたきをして、口元をわずかにゆるめた。


「……食べたい。」


 短い言葉なのに、胸の奥がじんわりとあたたまる。なんでもない一言が、こんなに嬉しく響くなんて。


「じゃあ……はい、あーん。」


 箸で卵焼きをつまみ、差し出す。鳴古は驚くほど自然に口を開け、ぱくりと咥えた。ふわりと咀嚼し、しばらくしてから、ほんの少し目を細める。


「……ん。甘い。」


「よかった……」


「……真白のだから、美味しい。」


 さらりと告げられ、私は思わず固まった。冗談っぽさは一切ない。ただ事実を淡々と述べたような声。

 頬が一気に熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らした。


「えーなにそれ、いいなー!」


 隣の席の子が、羨ましそうに身を乗り出してくる。


「真白、お弁当作ったの? めっちゃ彩りきれいじゃん!」

 

「鳴古ちゃん専用?」


「わ、卵焼き美味しそう!」


 一気に声が集まり、机の周りがにぎやかになる。

 普段なら恥ずかしくて隠したくなるところだけど、不思議と今日は嫌じゃなかった。みんなの声が温かい空気の中に溶けていく。


「わたしも食べたいー!」

 

「ほら、真白ちゃんシェフ!」


「ちょ、ちょっと待って! そんな大したものじゃないってば!」


 慌てて手を振る私の隣で、鳴古は落ち着き払ったまま弁当を手元に寄せた。眠たげな目をすっと上げ、きっぱりと言う。


「……真白のだから、分けない。」


「えっ?」


 一瞬の沈黙のあと、教室に笑い声がはじけた。

 

「独占してるー!」

 

「仲良すぎー!」


 私はますます顔が赤くなる。なのに鳴古は涼しい顔のまま、ほんのわずかに唇をゆるめただけだった。


「……次は、ウインナー。」


「へ? あ、うん。」


 赤いタコさんウインナーを箸でつまみ、差し出す。鳴古はまた当然のように口を開け、ぱくり。もぐもぐと噛みしめてから、静かにうなずいた。


「……噛むと音がする。」


「ふふ、そうだね。パリッてね。」


 些細な感想なのに、胸がふわっと弾む。

 嬉しくて、もう一度笑みがこぼれた。


「……緑も。」


「え?」


 彼女の視線の先を追うと、ブロッコリーが詰めてある。私は少しため息をつきつつ、箸でつまんだ。鳴古は間を置かずに、また口を開ける。


「はい、あーん。」


 もぐ、と静かな音。彼女は小さくうなずき、眼鏡の奥の瞳を細める。


「……真白が食べさせるなら、野菜も平気。」


「ちょ、ちょっと、それ……!」


 周囲から「ひゅー!」と冷やかす声があがる。

 私の頬はますます熱くなり、恥ずかしさで泣き出しそうだった。けれど、鳴古はやっぱり眠そうな顔のまま。ほんのり耳が赤い気がしたのは、私の見間違いだろうか。


「……次は唐揚げ。」


「え、あ、うん。」


 からりと揚げた唐揚げを差し出すと、鳴古は少し口元をほころばせて、ぱくりと咥えた。噛みしめるたびに金色の髪が肩で揺れる。茶色いフレームの眼鏡が光を反射して、きらりと瞬く。


「……美味しい。」


「ほんとに?」


「……真白が作ったから。」


 その声があまりにも自然で、胸の奥に深く落ちてくる。

 周囲が「きゃー」と笑って盛り上がっても、私はもう反論できなかった。


 気づけば鳴古のカーディガンの袖が机に広がり、私の腕に少しだけ触れている。分厚くて大きな布地。そのぬくもりが、雨上がりみたいに心にじんわり広がっていく。


 やがて私も少しだけ彼女に分けてもらって、一緒にお弁当を食べ進めた。唐揚げを半分に分け合ったり、卵焼きの味を比べて笑ったり。眠そうでありながら、どこか嬉しそうな鳴古の顔が近くにあるだけで、胸がじんわりと熱くなる。


 友人たちの「いいなー」の声に笑いながら、教室の喧騒はいつもより心地よく響いた。

 ――初めてのお弁当は、思った以上に甘くて、幸せな時間になった。


  食べ終えたころには、友人たちもそれぞれ自分の会話に戻り、机の周りは少し静かになっていた。ちらほらと廊下へ出ていく子の背中を見送りながら、私は弁当箱の蓋を閉める。


「……ごちそうさま。」


 鳴古が低い声でぽつりと言った。眠たげな横顔がすぐ近くにあって、思わず視線を逸らす。

 金色の髪が机の上にふわりと流れ落ち、茶色いフレームの眼鏡が光を受けてきらりと瞬いた。


「ど、どうだった? ほんとに、変な味しなかった?」


 思いきって聞くと、彼女はしばらく瞬きをして、分厚いカーディガンの袖をゆるく揺らした。

 そして、当たり前のように言う。


「……真白が作ったから、美味しかった。」


「ま、またそれ……」


 頬に熱が上って、思わず俯く。けれど彼女は変わらず眠そうな声で、ゆっくりと続けた。


「……次も、作って。」


「えっ……!」


 不意打ちに心臓が跳ねる。視線を上げると、彼女は変わらず淡々と、けれど少しだけ口元をほころばせていた。

 そのささやかな笑みに、胸の奥が一層熱くなる。


「……だめ?」


「……だめじゃない、けど……!」


 私が慌てて返すと、鳴古はほっとしたように目を細めた。眠たそうな瞳の奥に、かすかな嬉しさがにじんでいる。

 昼休みのざわめきの中で、その表情は私だけに見せられた秘密のように思えて、胸がきゅっと締めつけられた。

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