二十八睡目 勉強と睡眠と
放課後の教室は、昼間の熱気を少し残しながらも、窓から吹き込む風でほんのり涼しくなっていた。黒板にはまだ数学の公式が残り、白いチョークの粉が淡く宙に舞う。私は机の上に教科書とノートを広げ、ちらりと隣を見た。
「ねえ、鳴古。明日、小テストだよ。」
「……ん。」
いつも通り眠そうに頬杖をつき、目を半分閉じたまま窓の外を眺める鳴古。見慣れた姿に苦笑しつつ、私は少し声を張った。
「一緒に勉強しよ?残ってやろうよ。」
「……真白と?」
「そう。一人だと集中できないし……」
自分が鳴古と並んで勉強したいだけなのを自覚し、頬が熱くなる。鳴古は数秒の沈黙のあと、ゆっくりまばたきをしてこちらを見た。
「……いいよ。」
「よかった。ありがとう。」
簡単なやり取りなのに、胸がふわっと軽くなる。机を寄せ、ノートと参考書を並べる。教室には数人しか残っていないけれど、夕方の光に染まった空間は、私たちだけの小さな勉強部屋のように感じられた。
「じゃあまず、この問題から。二次関数のグラフから。」
「……見てるだけでいい?」
「見てるだけでいいって……手を動かさないと。」
渋い顔をした私の横で、鳴古はノートをめくりもせず、問題を数秒眺めただけでさらさらと答えを書き出す。
「頂点は……ここ。」
「え、もう?」
「……簡単。」
目を疑い、彼女のノートをのぞき込む。解答は正しいどころか、説明まで整っていて模範解答のようだ。
「鳴古って天才だよね。」
「……眠い。」
「眠いのに解けるって、余計すごいんだけど……」
思わず声が大きくなると、隣の席の子がちらりとこちらを見て慌てて目を逸らす。
「……鳴古、ほんとに人間?」
「……たぶん……いや、、まだ人間」
突然の発言に、私は思わず吹き出す。鳴古は微動だにせず、小さく肩をすくめただけだった。
「じゃあ、次の問題は……ちょっと難しいやつ。」
そう言って、私は鳴古の方にページを向ける。
「……」
問題集を指でとんとんと叩く鳴古。ページを数秒眺めただけで、またもや答えを書き出す。
「え、どうしてそんなに早いの……?」
「……見るだけでわかる。」
「見るだけでわかるって……漫画みたいだね。」
「……漫画?」
「うん、『天才がひと目で解く』みたいな……」
「……回りくどい表現……」
鳴古はあくびをかみ殺しながら眠そうに蕩けた声で言う。私はつい笑ってしまう。距離が近くなる。息を止め、髪が頬に触れそうで心臓が落ち着かない。
「えっと……ここは、こうかな?」
鉛筆を走らせるが、途中で計算がこんがらがる。
「……違う。」
「う……やっぱり。」
「……ここの符号……逆。」
鳴古がすっと鉛筆を取り、私のノートに正しい式を追加する。細い字が整っていて、私の書きかけの行が心許なく見えた。
「……ここ、惜しい。」
指先で軽く触れられると、まるで私の文字までも大事にされているように感じる。
「そ、そんな優しく直さなくても……」
「……真白の字……好きだから。」
「えっ……」
胸が跳ね、次の言葉を失う。鳴古は特に表情を変えず、ただノートを返すだけ。私は勝手に鼓動を早める。
「ねえ、この問題も見て。」
「……」
鳴古は指先でページをさらっとなぞり、鉛筆を走らせる。数秒で答えを書き終え、また私のノートに向き直る。
「……ここ……あ、符号逆。」
「えっ、さっきと同じミス……」
「……注意不足。」
「……反省してます。」
鳴古に注意不足と言われるとは思わなかった。その小さなやり取りだけでも、なんだか和やかで、日常の空気に包まれている感じがした。鳴古の天才ぶりは確かにすごいけれど、こうして気軽に会話できるからこそ、ちょっとほっとする。
「でも、鳴古がこうやって解くの、なんだか不思議だね。」
「……不思議?」
「うん。眠そうなのに、全部できちゃうんだもん。」
「……普通。」
「普通って……普通の人間にしては、絶対変だよ。」
「……変なのは真白。」
鳴古のさらっとしたツッコミに、私はまた笑ってしまった。机をはさんで向き合いながら、日常の何気ないやり取りが、勉強の緊張をやわらげてくれる。
しばらく問題を解いていると、窓の外の光がゆるやかにオレンジに変わっていく。教室には数人しか残っておらず、鉛筆のカリカリという音と遠くの運動部の掛け声だけが響いている。
「鳴古、眠そう。」
「……ん。」
机に肘をついたまま、まぶたが少し下がっている。鉛筆を動かす手は止まらないが、見ている私の方が心配になる。
「無理しないでよ。疲れたら休んで。」
「……真白が隣にいると、普段より眠くならない。」
「……え?」
鉛筆の先が紙をかすめる音だけが続く。鳴古は何気なく言っただけで、私の心臓だけが跳ねる。
結局、鳴古は私より早く問題を片付け、私は何度もつまずきながら横から助けてもらう。
「やっぱり鳴古に教わるとわかりやすいなあ。」
「……真白の説明の方が、わかりやすい。」
「だから……!」
もう反応するのも悔しくて、頬を膨らませた。鳴古は特に気にせず、窓の外を見てあくびを噛み殺す。その姿が自然で、思わず笑えてしまった。
やがて採集下校時刻を告げるチャイムが鳴り、校舎に残る生徒たちも荷物をまとめる。私たちもノートを閉じ、鞄にしまった。
「……また一緒に。」
「うん。また勉強会しよ。」
廊下を歩きながら、肩がほんの少し触れるたびに小さな波紋が広がる。
「ねえ、帰り道どうする?」
「……一緒に歩く。」
「うん、じゃあいつもの道で。」
外に出ると、夏の夕方の風が涼しく頬を撫でる。校庭からは遠くで蝉の声がまだ響き、空は少しずつ赤みを帯びていた。二人で歩く道沿いの小さな商店や自販機、子どもたちの笑い声、全てが日常の景色なのに、特別に見える。
「……真白……二次関数の頂点の公式、覚えてる?」
「えっと……x は −𝑏/2𝑎−b/2a で、y は…」
「……正解」
何気ない会話も、並んで歩くことで特別な時間に変わる。手を振ったり、ちょっとぶつかり合ったり、そんな小さな距離感が嬉しい。
「明日も頑張ろうね。」
「……ん。真白がいるなら。」
微かに目が合い、私はにっこり笑う。夕暮れの街に溶ける二人の影が、長い影のようにゆったりと伸びていく。
ありふれた放課後が、鳴古と一緒なら特別になる――そんな幸せを噛み締めながら、二人で歩く。
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