七睡目 夕焼と睡眠と

 ある日の放課後。

 委員会の仕事を終えた私は、教室に戻ってきた。すでにクラスメイトの大半は帰宅していて、賑やかだった昼間の喧噪は嘘のように消え去っている。夕焼け色の光が斜めに差し込む教室は、昼間よりも広く感じられた。机や椅子の影が長く伸びて、見慣れたはずの教室が少し違った場所に思える。


 鳴古は、そんな静まり返った教室の窓際で、ぼんやりと外を眺めていた。

 

 「待たせちゃったね。」

 

 声をかけると、彼女は首だけこちらに向けて、眠たげに笑った。


 少し前、私と鳴古が同じ電車に乗っていることを偶然知った。お互いに驚き合い、せっかくだから今度一緒に帰ってみようという話になったのだ。けれど、今日は委員会の片付けが長引いてしまい、最速の電車を逃してしまった。次の便まで一時間ほど。自然と「じゃあ教室で待とうか」という流れになった。


 人がほとんどいない教室は、不思議と落ち着く。普段はうるさいほどの声で満ちている空間なのに、今はただ夕焼けに包まれているだけだ。


 「夕焼け、きれいだねぇ……」

 

 鳴古が、大きなあくびをひとつ漏らしながら窓の外を眺める。その目は、開いているのか閉じているのか分からないくらいとろんとしていて、まるで夢と現実の境界に立っているようだった。


 彼女が掛けている、細い弦の茶色い丸眼鏡が夕陽を反射して、きらりと光る。授業中はほとんど見ない姿だから、少し新鮮に映った。


 「そういえば、鳴古って目悪いの?」

 

 前から気になっていたことを聞いてみた。


 「ちょっとだけねー……」

 

 相変わらずゆるい声。

 

 「コンタクトだと、起きた時に目に張り付いて痛いし……」


 なるほど。よく眠る彼女にとって、コンタクトは相性が悪いらしい。だからこそ眼鏡を使うのだろう。そういえば、スマホにも落とさないように紐をつけていた気がする。彼女の生活は、眠ることを中心に設計されているのかもしれない。


「そういえば鳴古って、なんでそんなに――」

 

 問いかけかけたその瞬間、がらっと扉が開いた。


 「あれ? 鳴古と真白、まだいたの?」


 小さな声とともに入ってきたのは凛だった。相変わらず小動物のように愛らしい。頬を少し赤らめて、リュックを背負った姿が夕陽に照らされ、ほんのりとした温かさを纏っている。


 「なにやってるの?」

 

 「電車乗り過ごしちゃってさ。鳴古と一緒にお話してたんだよね。」

 

 私は笑って答えた。鳴古は隣でこくりと頷いた――のかと思ったら、そのまま机に突っ伏して寝てしまった。


 凛はくすっと笑う。

 

 「カラオケとか、遊びに行ったりしないの?」

 

 「鳴古、こんなに寝てるのに、どうやって連れていくのさ。」

 

 私が半分呆れながら言うと、凛ちゃんはにやっと口を曲げて、

 

 「去年は怜ちゃんが負ぶって行ってたよ?」

 

 と、意外なことを口にした。


 「……えっ?」

 

 思わず間の抜けた声が出た。

 怜ちゃんが……鳴古を背負って……? あの怜ちゃんが?

 

 「さすがに私は無理だなあ。鳴古より私の方が身長低いし。」

 

 「真白と私だと……どっちも怪しいね。」

 

 凛が笑う。


 そんな取りとめのない会話を交わしているうちに、時計の針は進んでいた。ふと窓の外を見ると、夕焼けはさらに色を濃くしている。茜色から橙色、そして紫へ。移ろう空の色が、刻一刻と教室を染め替えていく。


 「そろそろ時間だね。」

 

 私は鳴古の肩をそっと叩いた。

 

 「鳴古、行くよ」


 ぱちり。


 まるで合図に従うかのように、鳴古は目を開けた。寝起きのくせに不思議と澄んでいて、こちらの心臓を妙にくすぐる。彼女はふらりと立ち上がり、眼鏡を外して胸ポケットにしまった。


 3人で教室を後にし、夕暮れの校舎を歩く。廊下はすでに静まり返り、窓の外から差し込む夕陽だけが足元を照らしていた。


 途中のコンビニに寄り、串団子を3本買った。レジに向かおうとしたとき、凛がさっと財布を取り出して言った。

 

 「ここは私が出すよ。今日はなんとなく、二人に食べさせたい気分だからね。」

 

 「えっ、いいの?」

 

 思わず驚く私に、凛ちゃんは小さく笑ってうなずいた。

 「うん。真白と鳴古と一緒に食べたら、もっとおいしく感じると思うんだ」


 そんなふうに言われてしまうと断れず、ありがたく受け取ることにした。鳴古は相変わらず眠たげに口を半開きにしていて、「ありがとう」と言う代わりに軽く頷いただけだった。


 店を出ると、甘いたれの香りがふわりと漂ってきて、私と凛ちゃんは思わず嬉しそうに目を輝かせる。鳴古は待ちきれないのか、ぼんやりと口を開けたまま。


 「はい、あーん。」

 

 凛ちゃんが冗談交じりに差し出すと、鳴古は抵抗もせず一口かじった。もちもちとした食感とたれの甘さに、彼女の目が少しだけ細くなる。

 

 「……おいしい。」

 

 その一言に、私と凛ちゃんは顔を見合わせて笑った。


  電車のホームに着く頃には、空は群青に染まり、遠くの雲が赤紫に縁取られていた。夕日は沈みかけ、それでも最後の力を振り絞るように空を照らしている。


 「今日の夕焼け、特別きれいだね。」

 

 自然と私の口から言葉がこぼれる。

 鳴古は頷き、凛は「ほんとだね。」と柔らかく笑った。


 こうして三人で並んでいるだけで、不思議と胸が温かくなる。普段は見慣れた帰り道も、今日は少し特別に感じられた。

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