五睡目 電車と睡眠と

 朝。私はいつも通り、眠気を引きずりながら駅の改札をくぐった。


 通学時間の駅は、どこか独特の空気を持っている。大きな時計の針が7時半を指しているのを確認すると、私と同じように制服姿の高校生や、無機質なスーツに身を包んだ社会人たちが次々と改札を抜けていく。急ぎ足の人々が擦れ違うたび、香水や整髪料の匂い、コーヒーの残り香が入り交じって流れていく。


 階段を降り、プラットフォームに立つ。冷えた風と鉄の匂いが漂ってくる。列車が近づくと、重い空気を切り裂くように風が押し寄せてきた。


 やがて電車が滑り込み、ドアが開く。私は人の波に押されるようにして乗り込んだ。


 吊革を握りながらイヤホンを耳に差し込み、音楽を流す。手元には単語帳。毎朝の習慣だ。

 ガタン、ゴトン。車輪の揺れに合わせてページをめくっていく。


 ――そのとき。


 次の駅で乗り込んできた人影に、私は目を奪われた。


 きらきらとした柔らかい金色。


 人混みの中で、ひときわ鮮やかに浮かび上がる髪の色。


「……鳴古?」


 思わず声にならない声を漏らしていた。


 親墨鳴古。私の隣の席の子。教室ではいつも眠っている、不思議な子。


 制服の上から大きな分厚いカーディガンを羽織り、ふらりと電車に乗り込む姿は、他の生徒たちと同じはずなのに――妙に場違いなほど目立っていた。その髪は朝の光を受けて輝き、まるで物語の登場人物のように見える。


 私はそこで、初めて気づいた。鳴古も同じ電車で通学していたのだ、と。


 これまで何度も駅で見かけていたはずなのに、なぜか今日まで気づかなかった。単語帳ばかり眺めていたからだろうか。教室で眠る彼女と同じ子が、こうして日常の通学路にいて、同じ時間を過ごしているなんて……少し驚きと、ほのかな親近感が胸の奥に湧いた。


 鳴古は、車両の奥まで数歩進むと、そのまま空いた座席に腰を下ろした。そして、黒い紐のついたスマートフォンを首から下げたまま、こてんと首を傾けて――眠り始めた。


「えっ……」


 私は呆気にとられた。ここは学校の教室じゃない。知らない大人もたくさんいる通勤電車だ。それなのに、まるで自分の部屋かのように眠り込んでしまうなんて。


 私は不安になって、自然と彼女の方へと足を進めていた。人込みをかき分け、少し離れた位置で彼女を見守る。


 車内のざわめきに混じって、かすかに鳴古の寝息が聞こえる。浅く開いた口元から、ふわりと柔らかな吐息が漏れ、まぶたの端が小刻みに震えている。肩がわずかに揺れ、手先がぴくぴくと動くたびに、彼女がかけた眼鏡のレンズがきらりと光を反射する。膝の上に置かれた大きな鞄が微かに揺れ、指先が無意識に紐を握ったり離したりしている。


「……ふぅ……ん……」


 小さな寝言が漏れる。思わず私は息を飲む。


「……また夢、見てるのかな」


 小声で呟くと、鳴古の指先がふわりと動き、鞄に付けたキーホルダーが軽く触れ合う。まるで私の声に反応したかのようで、胸が少し高鳴った。


 ――危なっかしいなぁ。


 その瞬間、すっと一人の男が鳴古に近づいた。


 中年のサラリーマン風。視線は彼女の膝に置かれた鞄に向かっている。


 胸の奥がざわついた。まさか……。


 彼の手が、するりと鞄の持ち手に伸びた瞬間。


「何やってんの?」


 思わず強い声が出た。周囲の数人がこちらを見る。男がビクリと肩を震わせ、私と目が合った。その一瞬の逡巡のあと、舌打ちしながら後ずさりし、すぐ次の駅で電車を降りていった。


 ……ふう。


 全身にじんわりと嫌な汗がにじんでいるのを感じた。


 鳴古は――まるで何も知らないかのように眠っていた。頬がほんのり赤く、唇がかすかに開き、鼻の穴がわずかに膨らんでは縮んでを繰り返し、呼吸をし続ける。肩の上下運動に合わせて髪がふわりと揺れ、まぶたの震えが小さな夢の余韻を感じさせる。


「……ほんとにもう。」


 私は小さくため息をつき、彼女のすぐ横の座席に座る。すると、ゆるゆると鳴古の手がこちらにもびて来た。そっと指先で彼女の手首に触れてみる。手のひらの温かさと柔らかさに、思わず目を細めた。指先が微かに動き、キーホルダーがまた光を反射する。


「……おはよう、鳴古。」


 小さな声で呼びかけると、彼女の口元がかすかに動き、また小さく寝言のような声を漏らした。


「……ん、んん……」


 その小さな声を聞いて、私は思わず微笑む。夢の中でまどろみながら、こうして無防備に存在してくれることが、少し愛おしく思えた。


 私は単語帳を閉じ、イヤホンから流れる音楽に耳を澄ませながら、彼女の横顔を見つめ続けた。肩の上下、まぶたの震え、指先の微妙な動き……それらの全てが、ゆったりとした朝の時間に溶け込んでいる。


 そして彼女は、またふわりとまぶたを閉じた。軽くくしゃりと口を動かすと、小さく寝言の続きを呟く。


「……んん……まだ……ねむ……」


 その声に、思わず私は小さく笑った。


「……おやすみなさい。」


 ほんとうに自由な子だ。だけど、その自由さに苛立ちはなく、むしろ少しだけあたたかさを感じる朝だった。

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