写楽は知っている
空木 架
第1話 探偵の憂鬱
(酷い……あまりにも酷すぎる……)
俺、
床に横たわるのは、このたび殺害された被害者、
しかし、俺の心を占めているのは、彼の死を悼む気持ちではない。そんなものは、この際二の次だ。俺の脳内は、ただ一つの感情で満たされていた。
うんざりだ。まず、なんだ、この名前は。比嘉一郎。医者。被害者イチロー……って、ダジャレか? 作者、お前はスランプなのか? それとも、単にふざけているだけなのか? もう少し、こう、リアリティのある名前は思いつかなかったのか。せめて、もう少し捻ってくれ。これでは、まるで三流のコントだ。
いや、名前の問題は被害者に限ったことではない。
何を隠そう、この俺、主人公である探偵の名前が「写楽家逹」。しゃらく 家たち。シャーロック・ホームズ。
……もう少し原型を留めないように偽装する努力をして欲しかった。おかげで俺は自己紹介のたびに、微妙な、そして若干の失笑を含んだ空気を一身に浴びることになるんだ。三十七年間、この名前で生きてきた俺の身にもなってくれ。
そして、これから登場するであろう、いつものあの男。警視庁捜査一課の警部殿。彼の名前は、
俺は物語の登場人物だ。そして、悲しいかな、俺はその事実を知っている。俺の思考、行動、そしてこの世界そのものが、寡黙で、姿を見せず、ただひたすらに物語を紡ぎ続ける「作者」のペンによって生み出されていることを自覚しているのだ。
そして、事件の犯人やトリックなどよりも、この「作者」というのが一番の強敵だ。とんでもない怠け者で、ご都合主義の権化で、安っぽいテレビドラマの脚本家もかくやというほどの陳腐なセンスの持ち主なのだ。トリックは穴だらけ、伏線は投げっぱなし、キャラクターはどこかで見たことのあるような既製品の寄せ集め。
だから、俺の日課は、殺人事件の謎を解くことではない。この物語の矛盾点を指摘し、トリックの穴を埋め、キャラクターに深み(のようなもの)を与え、拙い文章表現を脳内で修正し、物語が破綻しないように軌道修正してやることだ。もはや、俺はこの小説のゴーストライター、いや、共同執筆者、いや、実質的な作者と言っても過言ではなかった。俺がいなければ、この作品はウェブ小説投稿サイトの片隅で、誰にも読まれずに埋もれていく運命だろう。
「写楽君! 来てくれたかね!」
ほら、来た。噂をすれば、だ。ずんぐりむっくりとした体躯に、使い古したトレンチコート。湖望警部、その人だ。手には葉巻……はさすがにない。作者も最低限のオリジナリティは出そうとしたらしい。代わりに、彼はいつもミントタブレットのケースをカチカチと鳴らしている。
「警部。ええ、今来たところです。それで、現場の状況は?」
俺は内心の毒づきを完璧に隠し、クールな探偵の仮面を被って応じた。この役割を演じるのも、もう慣れたものだ。
「うむ。被害者は、この部屋の主、比嘉一郎医師、四十一歳。死因は胸部を刺されたことによる失血死。死亡推定時刻は、昨夜の午後十時から十一時の間だ。第一発見者は、被害者の友人で、約束の時間になっても連絡が取れないことを不審に思い、今日の昼過ぎにここを訪れたそうだ」
警部は手帳をめくりながら、淡々と報告する。その声色には、事件解決への熱意よりも、「あとは写楽君、よろしく」という丸投げの響きが色濃く滲んでいた。
「密室、というわけではなさそうですね。窓も開いていますし、ドアの鍵もテーブルの上に無造作に置かれている」
俺は部屋を見渡し、作者が用意したであろう杜撰な舞台装置を確認する。これ見よがしに置かれた鍵。不自然に開け放たれた窓。まるで、「ここがヒントですよ!」と蛍光ペンでマーキングされているようだ。いや……よく見ると、鍵に蛍光ペンのマーキングがあるではないか。作者め! 安っぽすぎるだろ。
「うむ。物取りの犯行も考えたが、部屋が荒らされた形跡はない。財布も手付かずだ。となると、やはり怨恨の線が強いだろう。そこで、容疑者を三名に絞り込んだ。今から紹介しよう」
湖望警部は、待ってましたとばかりに咳払いをした。さあ、お待ちかねの容疑者紹介タイムだ。どんなステレオタイプな人物が飛び出すか、ある意味、楽しみですらある。
「まず一人目。田中和夫、二十七歳。タクシーの運転手だ」
警部の言葉に、俺の眉がピクリと動く。田中和夫。……普通だ。あまりにも普通すぎる。作者にしては珍しい。何か裏があるのか?
「彼は昨夜、被害者を自宅まで送った最後の人物だ。ドライブレコーダーにも、被害者と口論している音声が残っている。どうやら、料金を巡ってトラブルがあったらしい」
金銭トラブル。なるほど、実にありきたりな動機だ。いかにも作者が考えそうなことだ。
「二人目。佐藤一、五十六歳。被害者が勤務していた病院の院長で、彼の上司にあたる」
佐藤一。これもまた、普通だ。どうした、作者? 今日は随分と守りに入っているじゃないか。
まさか、ここにきて作風を変えようとでもいうのか?
「佐藤院長は、最近、被害者と病院の運営方針を巡って激しく対立していたという証言がある。重要なポストを被害者に奪われることを恐れていた、という噂もある」
権力争いか。これもまた、二時間サスペンスドラマの王道パターンだ。まあ、悪くはない。これなら、俺が後からいくらでも肉付けしてやれる。
俺は内心で頷きながら、警部の次の言葉を待った。三人目の容疑者。物語のセオリーから言えば、三人目が最も怪しいと相場は決まっている。さあ、どんな名前で、どんな設定で来るんだ? 少しは期待させてくれるんだろうな?
警部は、少しだけ間を溜めて、重々しく口を開いた。
「そして、三人目。被害者の古くからの友人で、第一発見者でもある。
その瞬間、俺の脳内に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
(コイツだーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!)
俺は心の中で、全力で、腹の底から絶叫した。膝から崩れ落ちなかった自分を褒めてやりたい。半田任三郎? はんだ、にんざぶろう? 犯人だ三郎? ふざけるのも大概にしろ! これはもう、ヒントとかいうレベルじゃないだろうが! 答えそのものじゃないか!
俺が愕然として硬直していると、脳内に直接、あの寡黙な作者からのメッセージが、まるでテレパシーのようにテキストで流れ込んできた。
『なぜバレたの?』
(名前でバレるわ、このど素人がぁっ!!)
俺は怒りのあまり、天を仰いで再び嘆息した。もう、今日は仕事にならないかもしれない。
「写楽君? どうかしたのかね? 顔色が悪いようだが」
湖望警部が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。無理もない。俺は今、常人には理解しがたい、異次元の存在との熾烈な精神的戦闘を繰り広げているのだから。
(おい、作者! 聞いているのか! 今すぐ名前を変えろ! 半田三郎でも、半田健介でも、何でもいい! もっと普通の、犯人だと推測されにくい名前に変更するんだ!)
俺は内心で、作者に猛烈な抗議を叩きつける。これは単なるツッコミではない。この物語を最低限のミステリーとして成立させるための、共同執筆者としての、いや、もはや編集者としての真っ当な要求だ。
『えー、でも、もう印刷に回しちゃったし……』
脳内に返ってきたのは、そんなメタ的で、ふざけきった言い訳だった。印刷? この世界は活字でできているとでも言うのか。いや、まあ、ある意味ではそうなのだが、そういう問題じゃない!
(いいから変えろ! ここで変えなければ、読者は最初の十ページで犯人を当てて、この本を閉じるぞ! それでいいのか!)
『うーん、でも、今更キャラクターの名前を変えるのは、設定の整合性が……』
あくまでも渋る作者。この朴念仁め。お前の書く物語に、整合性なんてものが最初から存在したためしがあっただろうか。いつも俺が、その場その場で辻褄を合わせるために、どれだけ苦労していると思っているんだ。
「写楽君? 大丈夫かね? もしかして、何か閃いたのか!」
警部の期待に満ちた目が、キラキラと輝いている。違う、警部。俺は閃いたんじゃない。呆れているんだ。この世界の創造主の、底抜けの安直さに。
俺は深呼吸を一つして、クールな探偵の仮面を貼り付け直した。ここで作者と喧嘩していても埒が明かない。このどうしようもない設定を前提として、物語を再構築するしかないのだ。
「……いえ、警部。少し考え事をしていただけです。容疑者の名前が、少々、個性的だと思いましてね」
俺は精一杯の皮肉を込めて言ったが、警部には通じなかったようだ。「そうかね? どこにでもいそうな名前だと思うがね」と、彼は心底不思議そうな顔で首を傾げた。そうだろうな。あんたの名前も大概だからな。
(分かった。もういい。名前の件は、もういい)
俺は作者に、白旗を揚げた。
(だが、その代わり、約束しろ。俺がここから、この絶望的な状況から、話をきれいにまとめてみせる。だからお前は、絶対に、絶対に、余計なことを書くな。いいな? キーボードに触るんじゃないぞ。ただ黙って見ていろ)
『……わかった』
不承不満といった様子の返事が、脳内に響く。本当に分かっているのか怪しいものだが、今は信じるしかない。
俺は気を取り直し、捜査を開始することにした。まずは、いかにも怪しい「犯人だ三郎」からではなく、他の容疑者から話を聞くのが定石だろう。読者(と警部)の目を、少しでも彼から逸らさなければならない。
「警部、まずはタクシー運転手の田中和夫氏と、院長の佐藤一氏から話を聞きましょう。動機としては、どちらも十分に考えられます」
「うむ、それがよかろう。二人には、別の部屋で待機してもらっている」
警部に案内され、俺たちはまず、田中和夫が待つ一室へと向かった。若いタクシー運転手は、パイプ椅子に座り、貧乏ゆすりをしながら、不安げな表情で床の一点を見つめていた。典型的な「容疑者A」の風情だ。
「田中さん、ですね。昨夜、比嘉医師を乗せた時の状況を、もう一度詳しく聞かせていただけますか」
俺が穏やかに問いかけると、田中はびくりと肩を震わせ、おずおずと顔を上げた。
「……だから、何度も言ってるじゃないですか。酔っぱらってて、態度が悪かったんですよ。料金を払う段になって、一万円札しかないって言うから、お釣りがないって言ったら、いきなり怒鳴りだして……。『お前みたいな下等な人間に触られた金は受け取れん』とか、酷いことを言われました。だから、俺もカッとなって、『だったら歩いて帰れ!』って言い返したんです。そしたら、金を叩きつけて降りていきました。それだけですよ! 俺は殺してなんかいません!」
なるほど。被害者はかなり傲慢な性格だったようだ。作者がキャラクターに深みを持たせようとすると、大抵こういう分かりやすい「嫌な奴」が出来上がる。まあ、殺される動機としては十分だが、あまりにストレートすぎる。
次に、佐藤院長の部屋へ向かった。恰幅のいい、いかにも院長といった風貌の男は、腕を組んで、ふんぞり返るように椅子に座っていた。
「佐藤院長。あなたと比嘉医師は、病院内で対立していたそうですね」
「対立? 人聞きの悪いことを言わないでいただきたい。あれは、健全な意見の衝突というものです。比嘉君は優秀な外科医でしたが、いささか理想に走りすぎるきらいがあった。最新の医療機器の導入を巡って、私と意見が食い違ったのは事実です。しかし、それだけのことですよ」
佐藤は、あくまでも冷静さを装っている。だが、その目には隠しきれない野心と、比嘉医師への嫉妬の色が浮かんでいるように見えた。これもまた、実に分かりやすい。
二人の話を聞き終え、俺は現場のリビングに戻った。湖望警部が、期待に満ちた眼差しで俺を見ている。
「どうだね、写楽君。何か分かったかね?」
「ええ、少しだけ。田中氏の動機は突発的すぎる。佐藤院長の動機は根深いですが、彼ほどの地位の人間が、自らの手を汚すとは思えない。やはり、一番不可解なのは……」
俺は言葉を切り、部屋の中央で仁王立ちする男に視線を向けた。被害者の友人で、第一発見者。そして、その名前があまりにも致命的な男。
半田任三郎。
彼は、まるで舞台役者のように、悲劇の友人を演じていた。時折、ハンカチで目元を押さえたりして。そのわざとらしさが、逆に彼の胡散臭さを際立たせている。
(さて、どうしたものか……)
名前という決定的な証拠(?)はある。しかし、物語としては、それだけでは終われない。動機は? トリックは? 作者が用意したであろう、穴だらけのプロットを、俺がどうにかして、もっともらしく見せなければならないのだ。
俺は部屋をゆっくりと歩き回り、現場の状況を再確認した。テーブルの上の鍵。開け放たれた窓。そして、ペルシャ絨毯の上に広がる、不自然なほど鮮やかな血だまり。
(ん?)
俺は、ある違和感に気づき、足を止めた。血だまりの形が、妙に整いすぎている。まるで、誰かが意図的に広げたかのような……。
そして、窓の外に目をやった。ここはマンションの十階だ。窓の外には、小さなバルコニーがある。そのバルコニーの隅に、何か小さなものが落ちているのが見えた。
(あれは……なんだ?)
俺がバルコニーに出て、それを拾い上げると、それは鳥の羽根だった。それも、一枚や二枚ではない。数枚の、白い鳩の羽根だ。
(鳩……? なぜ、こんなところに鳩の羽根が……?)
その瞬間、俺の背筋に、ぞわりと悪寒が走った。嫌な予感がする。これは、作者が仕込んだ、安直で、ご都合主義的な「伏線」の匂いがする。
(おい、作者……。まさかとは思うが……。お前、トリックに鳩を使うつもりじゃないだろうな……?)
脳内に問いかける。しかし、返事はない。ただ、沈黙が、何よりも雄弁に、俺の最悪の予感が的中していることを物語っていた。
俺は再び、天を仰いだ。今日の仕事は、いつも以上に骨が折れそうだ。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」
俺は、リビングに集められた三人の容疑者と湖望警部を前に、静かに切り出した。いよいよ、推理ショーの始まりだ。俺が脚本を書き、演出し、主演を務める、たった一人の舞台。観客は、この物語の読者と、そして、寡黙なる作者、ただ一人。
「これから、この事件の真相について、私の推理をお話しさせていただきたいと思います」
俺は、まず田中和夫に向き直った。
「田中さん。あなたは確かに、昨夜、被害者と口論になりました。しかし、あなたは犯人ではありません。あなたのタクシーのドライブレコーダーには、あなたが被害者を降ろした後の、あなたの独り言が記録されていました。『とんでもない客だったな、ちくしょう。塩でも撒いとくか』とね。本気で殺意を抱いた人間の言葉にしては、あまりに小市民的だ。あなたは、カッとなっただけ。犯行は不可能です」
田中は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。よし、まずは一人クリアだ。次に、佐藤院長に視線を移す。
「佐藤院長。あなたにも、比嘉医師を殺害する動機はあったかもしれない。しかし、あなたには完璧なアリバイがあります。犯行時刻、あなたは病院の自室で、オンラインの医学会に参加していました。そのログイン記録が、あなたの無実を証明しています」
これも、先ほど警部にこっそり確認させた、後付けのアリバイだ。作者は、そんな細かい設定まで考えているはずがない。俺が言えば、それが真実になる。この世界では、そういうルールなのだ。
佐藤は、ふんと鼻を鳴らし、「当然だ」という顔で腕を組んだ。これで、残る容疑者はただ一人。
俺はゆっくりと、部屋の中央に立つ男に向き直った。
「犯人は……あなたしかいない。半田任三郎さん」
俺がそう告げると、半田は、待ってましたとばかりに大げさに肩を震わせた。
「な、何を言うんだ! 探偵さん! 僕が……一郎の親友の僕が、あいつを殺すなんて、そんな馬鹿な!」
その芝居がかった台詞、実に結構。ミステリーのお約束というやつだ。
「証拠はあるのかね、写楽君!」と、湖望警部も絶妙なタイミングで合いの手を入れてくる。
「ええ、もちろん。警部、この事件は一見、物取りや怨恨による単純な犯行に見えます。しかし、その実態は、巧妙に仕組まれたトリックなのです」
俺は、わざとらしく間を溜めて、一同の視線が自分に集まるのを確認した。さあ、ここからが本番だ。作者が用意したであろう、鳩を使った荒唐無稽なトリックを、いかにしてそれらしく見せるか。俺の腕の見せ所だ。
「犯人は、被害者を殺害した後、この部屋を密室であるかのように偽装しようとしました。しかし、完全な密室を作り上げることはできなかった。なぜなら、犯人には、ある『共犯者』がいたからです」
「共犯者だと!?」
警部が驚きの声を上げる。いいぞ、そのリアクションだ。
「ええ。その共犯者とは……人間ではありません」
俺は、ポケットから、先ほどバルコニーで拾った鳩の羽根を取り出し、ひらりと指先で弾いてみせた。
「この、鳩です」
シーン、と部屋が静まり返る。全員が、鳩の羽根と俺の顔を、ぽかんとした表情で見比べている。無理もない。殺人事件の謎解きの途中で、いきなり鳩が出てきたのだ。意味が分からないだろう。俺だって意味が分からない。
「は、鳩……? 写楽君、それは一体、どういう……」
警部が困惑した声で尋ねる。俺は内心で舌打ちしながらも、考え得る限り、最ももっともらしい説明を即興で組み立て始めた。
「半田さん、あなたは手品が趣味でしたね? 特に、鳩を使ったマジックを得意としていた」
これは、今、俺が考えた設定だ。作者、いいな? 今から、半田任三郎は鳩使いのマジシャンだ。異論は認めん。
「あなたは、比嘉医師を殺害した後、凶器のナイフを、訓練した鳩の足に結びつけました。そして、開いていたこの窓から、鳩を外に放ったのです! 鳩は、あなたの指示通り、凶器を遠く離れた場所……例えば、川や森に運び、捨て去った。証拠を完全に消し去るための、前代未聞のトリックです!」
どうだ! 我ながら、苦しい、苦しすぎる。だが、もうこれしか思いつかない。ミステリーとしては三流以下だが、ファンタジーだと思えば、あるいは……。
半田は、俺の突拍子もない推理に、一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、すぐに我に返り、激しく首を横に振った。
「ば、馬鹿な! そんなこと、できるわけがない! 鳩がナイフを運ぶなんて、漫画の世界だ!」
その通りだ! 俺もそう思う! だが、そうでも言わないと、この鳩の羽根という作者の置き土産が説明できないだろうが!
俺が内心で叫んだ、その時だった。
脳内に、再び、あの忌まわしい作者からのテキストメッセージが割り込んできた。静かで、それでいて致命的な一撃だった。
『ナイフは死体に刺さってなかったっけ』
俺は、その一文を認識した瞬間、全身の血が逆流するかのような感覚に襲われた。
(……は?)
思考が、完全にフリーズする。
(な……なんだって……?)
俺はゆっくりと、恐る恐る、視線を床の遺体へと向けた。そこには、比嘉一郎が横たわり、その胸には、確かに、柄まで深々と、一本のナイフが突き刺さっている。物語の冒頭で、俺自身が確認した光景だ。『胸に一突きされたナイフが、彼の人生の終焉を雄弁に物語っている』。俺の脳内でその文字がリフレインする。
(……忘れてた……)
全身から、ぶわっと冷や汗が噴き出した。そうだ、ナイフは現場に残されていた。鳩が運び去るも何もない。最初から、ここにあったのだ。
(この……この、クソ作者がああああああっ!!!!)
俺の内心の絶叫は、誰にも届かない。鳩の羽根なんていう余計な伏線を仕込むから、こんなことになるんだ! そして、俺がその無茶苦茶な伏線を必死で回収しようとした、まさにそのクライマックスで、的確すぎるツッコミを入れてくるんじゃねえ! 悪魔か、お前は!
作者からテキストメッセージが流れてくる『でも、忘れてたのは写楽だし』
(くそがーーー!!)
「写楽君……? 急に黙り込んで……。『でも』どうしたんだね?」
湖望警部が、怪訝な顔で俺に問いかけてくる。
なに!? 作者の声の一部が警部に伝わってしまった! まずい。完全に間が空いてしまった。容疑者たちも、俺の次の言葉を待っている。鳩がナイフを運んだという、荒唐無稽な推理の続きを。しかし、その前提が、今、木っ端微塵に砕け散ったのだ。
「あ、いや……その……」
口から、意味のない音しか出てこない。頭の中は、真っ白な灰と、作者への呪詛で満ちている。どうする? どうやってこの状況を切り抜ける?
(落ち着け、俺。冷静になれ、写楽家逹。お前は名探偵なんだろうが!)
俺は必死で自分に言い聞かせ、猛スピードで思考を回転させる。鳩はダメだ。ナイフは現場にある。ならば、この鳩の羽根は何なんだ? そして、本当のトリックは何だ?
「……ふっ」
俺は、突然、乾いた笑いを漏らした。
「くくく……ははははは!」
そうだ、こうなったら、笑ってごまかすしかない。いや、ごまかすんじゃない。これも全て、計算の内だったということにするんだ。
「素晴らしい! いや、素晴らしいですよ、半田さん!」
俺は、高らかに笑いながら、半田を指さした。
「な、なんだ急に……」と戸惑う半田。警部も他の二人も、完全に置いてけぼりだ。それでいい。俺のペースに巻き込んでしまえば、こっちのものだ。
「鳩がナイフを運んだ? ははは! そんな馬鹿げたトリックを、私が本気で披露するとでも思いましたか? これも全て、あなたを試すための、ほんの余興ですよ!」
俺は、さっきまでの推理を、あっさりと自分で否定してみせた。我ながら、見事なまでの開き直りだ。
「私が本当に言いたいのは、そんな子供だましの手品のことではありません。この鳩の羽根は、確かにあなたがここに持ち込んだものだ。しかし、その目的は、ナイフを運ばせるためなどではない!」
やばい。大風呂敷を広げたはいいが、肝心の中身が何もない。どうする、俺。鳩の羽根の、ナイフを運ぶ以外の使い道とは何だ?
俺は必死で、部屋の中を見渡した。何か、何かヒントはないか。テーブルの上の鍵。開け放たれた窓。観葉植物。ペルシャ絨毯の血だまり……血だまり?
(そうだ!)
閃いた。苦し紛れもいいところだが、もうこれしかない。
「あなたは、この鳩の羽根を……血の偽装工作に使ったのです!」
「血の……偽装工作だと?」
湖望警部が、オウムのように俺の言葉を繰り返す。よし、食いついた。
「ええ。半田さん、あなたは比嘉医師を殺害した。しかし、その際、血液が思ったよりも飛び散ってしまった。あなたは自分の衣服に返り血が付いていないか焦ったはずです。そこで、あなたはこのペルシャ絨毯の血だまりを見て、あることを思いついた」
俺は、絨毯の上の血だまりを指さした。
「この血だまり……形が妙に整いすぎていると思いませんか? まるで、誰かが意図的に広げたかのように。そうです。あなたは、自分が浴びた返り血の量を誤魔化すために、現場の血の量を、実際よりも多く見せかけようとしたのです!」
「な、何を言っているんだ……。血を増やすなんて、できるわけが……」
半田が、かろうじて反論する。
「ええ、血そのものを増やすことはできません。ですが、血だまりを『大きく見せる』ことはできる。そのために使ったのが、この鳩の羽根です!」
俺は、手に持っていた白い羽根を、高々と掲げた。
「あなたは、この羽根を刷毛のように使い、絨毯に広がった血を、さらに外側へと塗り広げた! そうすることで、あたかも、もっと大量の出血があったかのように見せかけたのです。捜査員の目を、現場の血の量に向けさせ、犯人が浴びたであろう返り血の量から、犯人像を絞り込ませないようにするためにね!」
……我ながら、何を言っているんだか、さっぱり分からん。血の量を偽装して、一体何の意味があるというんだ。だが、もう後には引けない。この勢いで押し切るしかない。
「そして、その偽装工作に使った血塗れの羽根を、あなたはこのバルコニーから投げ捨てた。しかし、数枚が風に舞い、ここに残ってしまった。それが、あなたの犯行を示す、何よりの証拠です!」
半田の顔が、さっと青ざめる。……え、マジで? こんな無茶苦茶な理屈で、そんな顔出来るの?
(こいつ……本当にやったのか……? いや、違う。作者が、俺のこの無茶苦茶な推理を「真実」として、今、設定を書き換えたんだ!)
そうだ。俺が口にしたことが、この世界の真実になる。ならば、もう一押しだ。
「そ、そんな証拠がどこにある!」
「証拠ならありますよ。あなたの靴の裏には、この部屋の観葉植物の土と同じ成分の土が、微量ですが付着しているはずです。それに……」
おい! 作者! 何言わせてくれちゃってんの? 観葉植物の土は、今、関係ないだろ!
「……い、いや、靴の土は関係ない! それよりも、この鍵です!」
俺は、慌ててテーブルの上の鍵を指さした。危うく、話を脱線させられるところだった。
「この鍵です。あなたは、被害者を殺した後、部屋の鍵を閉め、その鍵を自分のポケットに入れた。そして、ここに戻ってきた時に、さも最初からここにあったかのように、このテーブルの上に置いた。しかし、あなたは大きなミスを犯した。この鍵には、あなたの指紋が、べったりと残っているはずです。友人の家の鍵を、そんな風に触る必要は、本来ないはずですからね!」
これも全部、今、俺が考えた後付けの証拠と理屈だ。だが、それでいい。ミステリーというのは、最後に探偵がもっともらしい理屈で犯人を追い詰めれば、それで成立するのだ。たとえ、その過程で、探偵が自爆しかけていたとしても。
半田任三郎は、がっくりと膝から崩れ落ちた。「……僕の……僕の研究を、一郎は、横取りしようとしたんだ……。長年の友情も、あいつの野心の前では、無意味だった……」
動機は、研究成果の横取り。実にありきたりで、分かりやすい。作者も、これなら満足だろう。
こうして、事件は解決した。半田は連行され、湖望警部は「いやあ、写楽君、今回もお手柄だった! 鳩の羽根で血を塗り広げるとは、全く思いつかなかったよ!」と、いつものように俺の肩をバンバン叩いてきた。その手には、感謝よりも依存の色が濃く滲んでいる。やめてくれ警部、そのトリックは俺もさっきまで思いついていなかったんだ。
他の警官たちが慌ただしく現場検証の続きをする中、俺は一人、バルコニーに出て、冷たい夜風にあたっていた。疲労困憊だ。犯人を当てることよりも、作者の尻拭いをすることの方が、何倍も精神力を消耗する。もはや、俺は探偵なのか、それとも、出来の悪い新人作家の教育係なのか、自分でも分からなくなってくる。
パトカーのサイレンが、夜の街に溶けるように遠ざかっていく。静寂が戻った頃、俺の脳内に、ぽつりと、最後のテキストメッセージが浮かび上がった。
『今回も助かったよ、写楽。さすがだな。また次も頼むな!』
その、あまりにも悪びれない、能天気な言葉に、俺の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
俺は、東京の夜景に向かって、心の底から、ありったけの感情を込めて、叫んだ。
「もう二度とゴメンだっ!!!!」
もちろん、その叫びが、夜の闇に吸い込まれて消えていくだけで、誰の耳にも届くことはない。
明日になれば、また、新たな事件が起こるだろう。そして、俺はまた、穴だらけのプロットと、安直なネーミングと、ご都合主義の展開に頭を抱えながら、この寡黙で、どうしようもなく手の掛かる「作者」と共に、新たな物語を紡いでいくことになるのだ。
探偵は知っている。この物語に、本当の終わりが訪れることはないということを。そして、自分のこの苦労が、一文字の報酬にもならないということも。
俺は深いため息を一つ吐くと、トレンチコートの襟を立て、夜の街へと歩き出した。まったく、割に合わない仕事だ。
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