第7話「2002年7月27日」
彩道の中学生最初の夏休みは、ひとりぼっちの冒険から始まった。
今日は鳴門駅から汽車に乗って、徳島駅で降りる。それから、楽器屋を営む伯父の悠太郎に会いに行く予定だ。きっと、悠太郎はのんきにギターを弾いているに違いない。
彩道は生まれて初めてひとりで汽車に乗った。びっくりするほど誰もいなかった。彩道は座席に腰掛け、物思いにふけながら車窓からの景色を眺めた。
1学期、彩道は晴仁といとしのおかげで毎日が楽しかった。互いの故郷について話し合ったり、一緒に歌を歌いながら帰ったり、MDを交換して大好きな音楽を共有したり、三人だからこそできることをして友情を深めた。涙が出るほど笑い合うたびに、この友情をいつまでも守ってゆきたいと思った。
そういえば、彩道が「汽車」と口にするたびに、晴仁といとしは首を傾げていた。
「あや。あなたさっきからずっと汽車って言うとるけど……電車って言わんのかね?」
「うん。まず、徳島は電車が走っとらん。徳島県内の鉄道は電化されとらんから、燃料で走っとるんよ。せやから、徳島県民は鉄道のことを『汽車』って言うわけ」
「なるほど!」
彩道と晴仁が鉄道の話題で盛り上がっている様子をいとしは羨望の眼差しで見ていた。
「汽車、電車……沖縄には鉄道さえもない……はっさもー、めっちゃいんちきやしー! いんちきかんちきシーチキン!」
「……は?」
いとしの奇妙奇天烈な発言のせいで謎の沈黙が続いた。この間は一体何なんだろうか。
彩道は片眉を上げつつ、いとしに問いかけた。
「いとしー。今、いんちきって言うた? オレらは何も悪いことしとらんよ?」
「はっ、待って。内地では、いんちきって悪い意味なわけ? はっしゃびよー……沖縄では、いんちきって羨ましいと思った時に使うから、つい……」
「はっ! 意味真逆やん!」
「あと、いんちきかんちきシーチキンって、何?」
「あいっ! 内地では言わないば?」
「言わんわ!」
彩道と晴仁の息の合ったツッコミの後、再び謎の沈黙が続いた。改めて、この間は一体何なんだろう。
三人は段々と可笑しくなってきて、思わず吹き出してしまった。何かを話そうとすればするほど、笑いが込み上げてくる。
「あかん、笑い止まらん、お腹痛い」
「広島も、徳島も、沖縄も、同じ日本なのに、鉄道も、言葉も、何もかもが違くて、全然話が進まん」
「だー、しに面白い。大変なってるねー。僕、何の話しとったか、忘れた」
「オレも忘れた。あー、しんだい」
「わしもじゃ。何の話しとったか、忘れてしもうた。ああ、くたびれた」
「やしが、でーじ楽しいさー」
夏の夕焼け空に三人の笑い声が響き渡った。
それでもやっぱり、彩道は晴仁といとしのことを知るたびに恐くなった。それは、晴仁も、いとしも同じだった。互いを思い合うたびに、何故か胸が苦しかった。
失いたくない。
傷つけたくない。
辛い思いをさせたくない。
大切な人を思うたびに、不安と恐怖が募ってしまう。
どうして大切なお友だちと過ごす時間を素直に喜べないのだろうか。受け止めきれないほど、幸せを感じているはずなのに。
彩道は晴仁といとしと何度かぶつかり合った。誰も悪くない。おそらく、互いに自分よりも相手を思うことができるからこそ、衝突してしまった。
5月の放課後。彩道と晴仁は甚だしくぶつかり合った。
その日は夏かと思うほど暑かった。いとしは古本屋の手伝いがあるため、先に帰った。いつの間にか、教室は彩道と晴仁の二人だけの世界になっていた。
「はる、ぼちぼち帰る?」
「……うん、帰ろう」
「……どしたん? 今日、ずっと苦しそうやけど……」
「……大丈夫じゃ。考え事しとるだけ」
「ほら、またそうやってひとりで抱え込もうとする」
晴仁は俯いたまま、低い声で彩道を突き放した。
「……ごめん。悪いけど、今はひとりにして」
晴仁は立ち上がり、彩道から距離を取ろうとした。
「はる、待って!」
「ついてくなや!」
「嫌や!」
彩道は晴仁の腕を掴んだ。晴仁の背中がとにかく苦しそうで、放っておけなかった。たとえ、晴仁の怒鳴り声に怯みそうになっても。
「あや、離して!」
「離さへん!」
「なんなんなら! ひとりにしてって言うとるやろうが!」
「そうやって強がるん、ええ加減やめろや!」
「ああ、たいぎい!」
晴仁は彩道の手を乱暴に振り払った。二人はしばらく口をつぐんだ。彩道は咳払いをした後、晴仁のために不器用ながらも言葉を紡いだ。
「……オレ、はるの力になりたい。だって、はるは、オレの大切なお友だちやもん。何の役にも立てへんかもしれんけど……こんなオレでも、話を聞くことならできる。誰にだって、知られたくないことがある。せやけど、これ以上、ひとりで悩まんといて。オレはどんな時も、はるの味方やよ。せめて、それだけは、分かっていてほしい」
晴仁は彩道の言葉に目頭が熱くなった。それから、二人はようやく向き合った。
「……さっきはごめん。怒鳴ってしもうた」
「全然平気」
「……本当にごめんなさい」
「こちらこそ、ごめんね。はるの気持ちを無視して……」
二人は冷静になって、素直に謝った。しかしながら、晴仁はずっと苦しそうだった。
「……はる?」
その時、晴仁が突如咳き込んだ。ただの風邪ではない、激しい咳だった。
「はる!」
彩道は晴仁に駆け寄り、彼の背中をさすった。晴仁は服薬しながら呼吸を整える。死に抗うように喘ぐ晴仁を見て、彩道の胸も苦しくなった。
数分後、晴仁の咳が落ち着いた。とはいえ、彩道は晴仁の背中を撫で続けた。
「……びっくりさせて、ごめんなさい」
ずっと秘密にしておきたかった。
こんなにも弱い姿を見せたくなかった。
けれども、ずっと寄り添ってくれる彩道の優しさに触れ、脆弱な自分を解放しようと思った。
「……わし、喘息なんじゃ。薬を飲んで、酷い時は入院して、ずっとこの病気と闘ってきた。じゃけど、最近、発作が繰り返し起こるようになって……また、入院する羽目になったらどうしようって、想像するだけで辛かった。もし入院することになったら、あやといとしーに会えなくなるかもしれん。二人と離ればなれになってしまうのが、恐くて堪らなかった」
彩道は晴仁の震える手を強く握った。そして、晴仁を安心させるため、麗らかな笑顔を見せた。
「はる。病気のこと、話してくれてありがとう。オレは、何があっても、はるを支える。もし、はるが入院することになったら、毎日お見舞いに行く。オレは絶対に、はるをひとりぼっちにさせへん」
晴仁は彩道に体を預けた。窓から差し込む太陽の光が、残酷なほど眩しかった。
「ねえ、あや。わしの病気……治るかね?」
「治るよ。治るって、信じよう」
6月の帰り道。彩道といとしは思いをぶつけ合った。
その日は雨が降っていた。晴仁は喘息が悪化し、学校を休んでいた。
「いとしー、一緒に帰ろ!」
「うん! 帰ろうねー」
「あら? いとしー、傘は?」
「持ってない。めんどくさい」
「はっ! 風邪引くで?」
「大丈夫。雨に濡れる方が自由で楽しいさー」
彩道は傘を広げた後、くるっと振り返り、いとしを傘の下に手招きした。
「ほら、一緒に入ろう」
いとしは少しはにかんで彩道のもとへ歩き出した。
「……じゃあ、お邪魔します」
「どうぞ」
いとしは彩道の右側に立ち、目を閉じて傘に当たる雨の音に耳を澄ませた。
ぱらぱらぱら、ぱたっ。
優しくて、綺麗で、新鮮な音だった。
「……良い音。だけど……あーやーの声が聞こえにくいかも」
「ほんなら、手話で話そ!」
「うん!」
彩道といとしは傘の持ち手を交代しながら手話で会話した。
『ねえ、いとしー。沖縄の人って、傘差さないん?』
『言われてみれば……傘、差さないね。まず、沖縄の天気予報を信じる人はほとんどいないわけ。沖縄の天候は気まぐれだから、もし那覇が晴れだと発表されても、どこかしら雨は降っていると思った方が無難。けどね、沖縄の雨はすぐに止むから、傘を持ち歩くこと自体が面倒になってくるわけ。だから、僕たちうちなーんちゅは、雨が降っても傘を差さないんだと思う』
『なるほど! ほなけんど、傘は持っとかなあかんで。風邪引くから』
『分かった。お母さんにお願いしてみるね』
手話で楽しくお喋りしていたら、知らぬ間に別れ道に辿り着いた。まだ雨が止む気配はない。せっかくだから、彩道といとしは雨宿りをすることにした。
彩道はいとしの横顔を上目遣いで見つめた。すると、いとしは何故か悲しげな表情をしていた。先ほどの穏やかな笑顔が遠くに行ってしまった。彩道は何となく胸騒ぎがして、いとしの左肩を軽く叩いてみる。
「……いとしー?」
いとしは彩道を潤んだ瞳で見つめ返した。いとしの頬が濡れている理由が雨なのか、それとも、涙なのか、分からなかった。
「……泣いてるん?」
「……ごめんね」
「……え?」
いとしは手話を交えながら彩道に思いをぶつけた。
「ねえ、あーやー。僕と一緒にいて、恥ずかしい思い、したことない?」
「一度もない。嬉しい時も、悲しい時も、いとしーが一緒にいてくれるから、オレ、毎日楽しいよ」
「でも、僕、あーやーに迷惑かけてばかりだよね?」
「そんなこと言わんといて。オレは、いとしーとお友だちになれて、ほんまに嬉しいよ」
「だけど、僕と一緒にいて、大変でしょう?」
「全然。オレ、いとしーと一緒にいるだけで幸せやよ。これからもずっと、オレの大切なお友だちでいてほしい」
彩道の真っ直ぐな思いにいとしは胸がいっぱいになった。とはいえ、彩道の優しさが恐かった。
「どうして、あーやーは……僕のために頑張れるわけ?」
「……どういうこと?」
「あーやーはいつだって、僕のために頑張ってくれている。手話を覚えてくれたり、授業のサポートをしてくれたり、僕に話しかける時は必ず左側にいてくれたり。今日だって、あーやーは僕を傘に入れてくれた。あーやーが頑張っていないところ、僕は一度も見たことない。嬉しくて、幸せで、感謝しても仕切れない。だけど……」
いとしは言葉を詰まらせた。その代わり、目の前にいる彩道の存在を確かめるように、彼を強く抱きしめた。
「い、いとしー?」
彩道は戸惑いながらもいとしの背中をそっと撫でた。しばらくした後、いとしは泣きながら彩道に優しく微笑みかけた。
「あーやー、忘れないで。僕はね、あーやーがそばにいてくれるだけで……心が温まるんだよ。どうか……僕のために頑張り過ぎないで。真っ直ぐで、涙脆くて、朗らかなあーやーのままでいて」
彩道はいとしの言葉を素直に受け止め、彼に麗らかな笑顔を見せた。
「ありがとう、いとしー」
雨が止んで、空に虹がかかった。いとしは晴れ渡る空を見上げながら呟いた。
「実はね、はーるーにも、この思いをぶつけたんだ」
「ほうなんや。はる、どんな反応しとった?」
「怒らせちゃった。『わしを試そうとするんはやめてくれ!』って」
「あら。はるらしいね」
「……はーるーに会いたいな」
「うん、オレもはるに会いたい。ゆっくりでええから、元気になってほしい」
「だからね」
徳島駅に到着した。
彩道はさやかと一緒に歩いた道のりを思い出しながら楽器屋に向かう。楽器屋はとある小さな商店街の片隅にある。道に迷うのではないかとちょっぴり心配したが、意外と滞りなく辿り着いた。
楽器屋の扉を開ければ、悠太郎がギターを弾いていた。悠太郎の演奏が終わった後、彩道は拍手した。
「おお! 誰かと思った。えっとぶりやね、あや」
「えっとぶり、伯父さん」
悠太郎は彩道の顔を懐かしそうにじっと見つめた。
「……伯父さん、オレの顔に何か付いとる?」
「あや」
「ん?」
「一朗……いや、お父ちゃんに似てきたな」
彩道はしんみりと話す悠太郎を初めて見た。いつも明るくて、陽気で、自由奔放な悠太郎が真剣な面持ちで彩道を見つめている。かと思えば、悠太郎はにこやかに笑った。
「あや。今、身長いくつ?」
「158cm。こんまいやろ?」
「大丈夫。あんたのお父ちゃん、180cmもあったんやから。まだまだ、これから」
「……うん、これからやんな」
彩道は遠くを見ながら力なく笑った。彩道のどこか寂しそうな表情を、悠太郎は数えきれないほど見たことがある。昔、一朗も同じような表情をしていたから。
「あや。何かあったんか?」
「……隣、座ってもええ?」
「もちろん」
彩道は悠太郎の隣に座り、ため息をついた後、再び遠くを見ながら話し始めた。悠太郎は彩道の横顔に一朗の面影があるように感じた。
「……毎日、怖い夢ばっかり見るんよ」
「夢?」
「深い海の底にいる夢。どんどん呼吸が苦しくなって、痛いって何度も泣き叫んで、必死に手を伸ばしても、空には届かない、涙色の夢。夢から覚めても、涙が止まらなくて、息苦しくて、痛くて堪らない。その夢は、心の底から幸せだと感じた日に見ることが多くて、幸せを感じれば感じるほど、痛い。夢が『お前は死ぬまで幸せになれない。幸せになる資格なんて、お前にはない』と言っているような気がする。ご飯を残さずに食べても、信号を守っても、大切な人に感謝を伝えても、この夢に縛られたまま」
彩道は天井を見上げた。そして、一朗のことを思い出しながら自らの人生を振り返った。不思議と涙が出なかった。
「お父ちゃんが生きとった頃、オレ、お父ちゃんみたいに強くて、明るくて、優しい人になりたいと思った。でも、お父ちゃんは死んでしまった。あんなに素敵な人だったのに。運命は大切な人を奪い去ってゆく。神様は優しい人から連れ去ってゆく。大好きな人のぬくもりはいつか飛び去ってゆく。これが世界の正体かと……絶望した。ほなけんど、お父ちゃんは死ぬ前、オレに『生きて』って……言うてくれた。お父ちゃんの言う通り、懸命に生きようと思った。せやけど、人生は想像以上に辛くて、悲しいことばっかり。大切な人を守りたい。それだけなのに……結局は傷だらけの自分を憎んで、恨んで、涙を流すだけ。救われない、報われない、暗い人生やわ」
淡々と話す彩道の横顔は幸せを諦めていた。悠太郎は彩道の話をただ静かに聞いていた。
「……あー、話し過ぎた。ごめんなさい」
「謝らんといて。話してくれてありがとう」
悠太郎は彩道の肩に手を置いた。悠太郎の大きな手のぬくもりが、彩道の心に安らぎを与えていく。
「あや。あんたは大人やな。こうやって自分の思いをちゃんと言葉にすることができるって、立派なことやよ。せやけど……悲しいな。やっぱり、幼い頃に望まない傷を負ってしまった子どもは、早く大人になるんやな。あんたのお父ちゃんもそうやった」
「……え?」
「お父ちゃんは泣き虫で、暗くて、可哀想な人やった。生きるために、必死に今の生活を守ろうとする、頑張り屋さんやったよ。あら? そういえば、あやは一朗の過去を知っとるんやったっけ?」
「……ううん、何も知らん。家族を亡くして、ずっと孤独やったのは、何となく分かっとった。あ、思い出した……昔、お父ちゃんと一緒にお風呂に入ろうとした時、お父ちゃんの背中に大きな傷跡があって……『これは何? まだ痛い?』って聞いたら、『あやのおかげで、もう痛くないよ』って、抱きしめてくれた。でも、何の傷かは教えてくれんかった。オレ……お父ちゃんのこと、もっと知りたい」
「今は知らん方がええわ。きっと、俺が話したら、夢の中で一朗に『何であやに話したんや!』って怒られるやろうし……さやかに殺される。絶対、ズタボロにされる」
「お母ちゃん、怖過ぎやろ。でも、いつか話してくれるかな? お父ちゃんの過去」
「うん。あやが知りたいと強く思っているなら、さやか……いや、お母ちゃんは話してくれるはずやよ」
悠太郎の言葉に彩道はかすかに笑みを浮かべ、大きく深く頷いた。
「よし。ほんなら、何か美味しいもん、食べに行こうか!」
「はっ! お店は?」
「土曜日は昼までやから、大丈夫」
彩道は店仕舞いをする悠太郎の背中を憧れるように見つめた。
多分、幼い頃の一朗は、この大きな背中に何度も励まされたのだろう。
さらに、あの大きな手が何度も背中を押してくれたからこそ、前に進むことができたのだろう。
もしかして、一朗がミュージシャンを志したきっかけは、悠太郎が作ったのだろうか。
彩道はそんなことをぼんやりと考えていた。
「伯父さん」
「ん?」
「ありがとう」
「いえいえ、どちらいか」
彩道と悠太郎は朗らかに笑い合った。
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