どちらいか 平成14年
さながわゆきの
第1話「2002年1月5日」
涙色の夢に深く溺れていた。
気付けばここにいる。これで何回目だろう。
生きることがこんなに辛くて、悲しくて、苦しいなんて。
いつまで経っても、心の傷が癒えることはなく、何度でもよみがえってしまう。
運命は大切な人を奪い去ってゆく。
神様は優しい人から連れ去ってゆく。
大好きな人のぬくもりはいつか飛び去ってゆく。
どうして大切な人は遠くへ行ってしまうのだろう。
会いたいと望めば望むほど、大切な人と離ればなれになってしまう。
それでも、会いたい。1時間でも、1分でも、1秒でも構わないから。
突然、呼吸が苦しくなった。
この夢のすべての苦しみが襲いかかる。
頭が、首が、胸が、手が、足が、痛い。
あまりの痛さに悲鳴を上げた。
けれども、必死に手を伸ばした。
助けて。
離さないで。
どこにも行かないで。
ひとりぼっちにしないで。
お願いだから。
「……はっ!」
彩道は夢から覚め、ベッドから飛び起きた。未だに息苦しく、痛い。涙と汗が交錯した液体が頬を伝う。喘ぎながら胸に手を当て、救いを求めるように天井を見上げた。
「……お父ちゃん」
1995年1月17日。
彩道は最愛の父である一朗を亡くした。
あの時、彩道と一朗は建物の下敷きになってしまった。一朗は両足が瓦礫で圧迫され、生死の境をさまよっていた。それでも、恐怖のあまり涙と震えが止まらない彩道を胸に抱きしめ、彼の命を守り通した。
「生きて。どんなに辛くて悲しいことがあっても」
それが一朗の最期の言葉だった。
一朗の声が聞きたい。
一緒にあくびをして「おはよう」と言ってくれた。
玄関のドアの前で必ず「いってきます」と手を振ってくれた。
疲れているはずなのに、いつも笑顔で「ただいま」と無事に帰ってきたことを知らせてくれた。
「おいで」と両手を広げて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
頬を撫でながら「おやすみ」とそばに寄り添って寝てくれた。
目と目が合えば「あや」と愛おしそうに名前を呼んでくれた。
真っ直ぐで、朗らかで、どこか寂しそうだった、一朗の声。
彩道は生まれた時からずっと、一朗のことが大好きだった。大好きだからこそ、生きていてほしかった。
彩道はイヤホンを装着したまま寝ていた。MDウォークマンはドビュッシーの『夢想』を彩道の左耳に届けている。彩道はMDウォークマンを自らの胸に閉じ込めて、大好きな一朗の声を思い出す。涙を止めることさえできない脆弱な自分を許したい時、何故かクラシック音楽を聴きたくなる。
彩道はため息をつきながらベッドに寝転がり、再び枕を濡らした。そして、夢で一朗に会えることを願いながら目を閉じた。
数時間後、彩道は目を覚ました。一朗には会えなかった。
カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。彩道はゆっくりと起き上がり、カーテンを開け、純白の暖かい光を全身に浴びる。
今日を懸命に生きる態勢を整えないと。
彩道は大きく深呼吸した後、あくびをしながら洗面所へ向かった。顔を洗い、歯を磨き、髪をくしで梳かしていく。傷だらけで生きているはずなのに、身長と髪と爪は気味が悪いほど伸び続けている。
気晴らしに窓を開けたら、冷たい風が彩道の身体を守るように包み込んだ。
雪が降っている。まるで自由な風に根を張る花みたい。
彩道はこの世界に降り注ぐ雪に恍惚とした。
ただ雪が降っているだけ。それでも、彩道は命を宿すように、決して忘れないように、雪を両手で受け止めていく。
そんな彩道の背中を、母であるさやかが静かに見守っていた。
「あや、おはよう」
彩道はさやかに背を向けたまま「おはよう」とぶっきらぼうに応えた。今日も泣いてしまったことがばれないように。
「あや、誕生日おめでとう」
今日は1月5日、彩道の誕生日だ。彩道は12歳になった。
「……ありがとう」
さやかは彩道の成長がとても嬉しくて、この上なく切なかった。
無邪気で、寂しがり屋で、甘えん坊だったはずの声は、徐々に色気が増している。その声に一朗の魂が宿っているような気がする。
麗らかでつぶらな瞳は、最近遠くを見るようになった。何を見ているのか尋ねると、いつも「何やろうな」と力なく笑っている。
真面目な話をする時、まず咳払いをしてから話すところ。
考え事をしている時、つい頭の後ろで両手を組んでしまうところ。
疑念を抱いた時、思わず片眉が上がってしまうところ。
さやかは彩道の一つひとつの仕草が一朗と瓜二つであることに、喜びと悲しみを感じていた。
一朗は彩道と共に生きている。けれども、一朗という存在に触れることは二度とできない。
妙に立ち回りが上手い彩道を守ろうとするたびに、そんなことを考えてしまう。
「あや。そのままでええから、お母ちゃんの話、聞いてくれへん?」
彩道は黙って頷いた。
「12年前、お母ちゃんがあやを産んだ日、雪が降っとった。綺麗な雪景色やった」
彩道は沈黙を貫く。
「せやけど、お父ちゃんが生まれたばかりのあやを抱っこした時に流した涙が……ほんまに綺麗やった。お父ちゃん、『オレはこの子と出会うために生まれてきた』って……ずっと泣いとったよ」
彩道はようやく振り返った。そして、目に涙を溜めながら、さやかに問いかけた。
「ほんなら、なんで……なんでお父ちゃんは死んだん? 強くて、明るくて、優しいお父ちゃんが……なんで死んでしまったん? あんな死に方……酷過ぎる。代われるもんなら、代わってあげたかった。オレは、今でもずっと後悔しとる」
「あや……」
さやかは彩道の名前を呼ぶことしかできなかった。何と声をかければ良いのか、悔しくなるほど分からなかった。
彩道はトラウマを制御できない自分自身を恨むように絶叫した。
「オレなんか守るよりも、お父ちゃんに生きていてほしかったのに……!」
さやかは彩道をぎゅっと抱きしめた。互いに涙を堪えながら、一朗に思いを馳せていく。
「あや、もうやめなさい。死からは逃れられない。死に方を選ぶこともできない。せやから、お父ちゃんの死に意味を求めても、ただ悲しい気持ちになって、何度も苦しくなるだけやよ」
この世界を生きてゆくのであれば、死と向き合わなければならない時が必ず来てしまう。それでも、大切な人と笑い合って過ごした日々を笑顔で思い出すことができれば、少しずつ死を克服できる。さやかはそう信じ続けていた。
「お父ちゃんはね、あやと一緒にいるだけでほんまに幸せそうやった。お父ちゃんはあやのことが大好きだった。誰よりも何よりも、あやのすべてを愛していた。お父ちゃんはきっと、あやの心の中で生き続けているはずやよ」
「……お母ちゃん」
彩道はさやかの背中に腕を回した。せめて今日だけは、こんな風に甘えてみたかった。
「お母ちゃん……どこにも行かんといて。オレをひとりぼっちにせんといて」
「大丈夫。お母ちゃんはここにおるよ。これからもずっと」
さやかは色とりどりの感情を込めて彩道を強く抱きしめる。さやかにとっての彩道は、一朗がこの世界に遺してくれた麗らかな男の子なのだから。
「忘れないで、あや。あんたはお父ちゃんの生きた証なんやよ」
彩道はさやかの言葉を素直に受け止め、思う存分声を上げて泣いた。さやかは彩道の頭を優しく撫でながら、彼を産んで良かったと痛感した。
太陽がオレンジ色の光を解き放つ頃、彩道は
ベッドに腰掛け、ずっとギターを弾いていた。
このギターはミュージシャンだった一朗の形見。相当疲れていたのか、ギターを抱いたまま「眠い」と寝言を言っていた無防備な一朗を、彩道は微笑みながら思い出す。
何か歌ってみる。最近、彩道は高音を出すことが難しくなってきている。ふと思い立ち、一朗の歌い方を真似してみた。
よし、まだ歌える。
いつの間にか声変わりし始めていたこと、一朗の声に段々と近づいていることに、彩道は一瞬戸惑った。
彩道はギターを抱きしめ、外の世界を忘れるように微睡む。
彩道にとってギターを弾くことは、一朗を笑顔で思い出すことだった。
コードを覚え、弾けるようになるたびに「流石。上手に弾けたね」と褒めてくれた。
弾き語りを披露した時は「いつか、あやと同じ舞台に立って歌いたい」と新しい夢を教えてくれた。
コンサートが始まる前に「今日はあやに向けて弾くから。ちゃんと見ててや」と人目をはばからずに抱き寄せてくれた。
「……幸せ者やわ。オレって」
それでもやっぱり、一粒の涙が彩道の頬を伝って流れてしまった。
午後10時。
彩道は一朗の仏壇の前に立ち、姿勢を正して合掌した。そして、咳払いをした後、ここにいるかもしれない一朗に話しかける。
「お父ちゃん、こんばんは。今日、12歳になりました。もうすぐ小学校を卒業します。4月からは中学生になります。ランドセルを背負う姿、学ランを着ている姿、お父ちゃんに見せたかった。お父ちゃんに見てほしかった……わがまま言って、ごめんなさい」
彩道は一朗がここにいるような気がして、この胸に溢れる思いを真っ直ぐに伝えた。
「ねえ、お父ちゃん。オレは、お父ちゃんからたくさんの贈り物をもらった。かけがえのない命。抱きしめてくれた時のぬくもり。一緒に笑ったり、泣いたりした思い出。音楽の素晴らしさを教えてくれるギター。秘密の小さな海辺。大切な人が無事に帰ってきてくれる喜び。大切な人にもう二度と会えない痛み。辛くて、悲しくて、苦しい時もあるけれど……オレは、お父ちゃんと交わした約束を忘れないように、毎日を大切に生きています」
彩道は一朗がここにいると確信して、直向きな愛の言葉を届けた。
「お父ちゃん。オレ、お父ちゃんの息子で良かった。ありがとう」
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