幕 間 神風の一騎




 時は少し遡る……。




 ******




「なぜだ! どうして、こうなる! わからぬ!」



 関ヶ原の北西、笹尾山では、この戦いのもう一人の主人公『石田三成』の慟哭が何度も響き渡っていた。


 早朝に戦端が開かれてから半日が経過する。

 戦況は一進一退を繰り返しており、三成が属する西軍は、徳川家康率いる東軍に比べて兵力で劣るものの、地の利を生かして善戦していた。


 しかし、本来ならばもっと楽に戦えたはずだった。その思いが、彼の胸を締めつける。



「私が嫌われ者なのは百も承知だ!

 だが……。それでも! 秀吉様への恩義を捨てるほどの理由があるというのか!」



 石田三成は能吏である。

 それも、当代一と評して差し支えないほどの才覚を持つ。


 だが、軍才は乏しい。

 軍略は学び、個人的な武も日々鍛えてはいるが、人並み程度に過ぎない。

 かつて、武名を求めすぎたあまり、尊敬する豊臣秀吉の作戦を真似て大失敗したこともあった。


 そのため、絶対に負けられぬこの戦いに臨むにあたり、三成は莫逆の友『大谷吉継』の知恵を頼った。


 かくして、勝利を確信する。

 さすがは、秀吉に『百万の兵を与えて存分に指揮させたい』と言わしめた天才軍師だ、と。



「それでも、毛利はまだ理解できる!

 肝心の輝元殿がおらず、お家大事で日和見を決め込んでいるのだろう!」



 ところが、作戦の要である南宮山の毛利家の軍勢と、松尾山の小早川秀秋の軍勢が動こうとしない。


 参戦要請の狼煙はすでに何度も上げた。

 使者も二度、三度と派遣したが、それでも動かない。


 毛利家の中核を担う『毛利秀元』から返ってきたのは、あまりにもふざけた言い訳だった。



 『足軽たちが食事中だ。腹が減っては戦はできぬ』



 開戦前ならまだしも、雄叫びと剣戟に満ちた戦場で聞くには、あまりにも無責任な答えであった。



「しかし……。しかし、何故なのです! 秀秋様!

 今、家康に媚びを売ったとしても、いずれ貴方の血に流れる豊臣の家筋が疎まれ、必ず排除される未来が待つだけだというのに、何故それが理解できぬのですか!」



 石田三成がついに堪えきれず、目の端から涙を零したその瞬間。


 徳川家康の本陣から鉄砲隊の一斉射が放たれ、関ヶ原に轟音が響き渡った。

 その直後、後方の伊吹山からは、戦場を揺るがすほどの強烈な追い風が吹き荒れた。



「ぬっ!? ……何のつもりだ?」



 数瞬後、軍才に乏しい石田三成は、ただただ驚きと戸惑いに襲われた。

 鉄砲隊の一斉射で徳川家康の本陣を包んだ煙が晴れても、戦場に起こるべき変化はどこにも見当たらない。


 そして、今吹いた追い風が、西軍にとっての『神風』だったと知る由も、三成にはまだなかった。




 ******




「おのれ! やはり、あの小僧!」



 西軍陣営の中で、異変に最初に気づいたのは『大谷吉継』だった。


 吉継は小早川秀秋に強い猜疑心を抱き、いざという時には石田三成の盾となる覚悟でいた。

 そのため、関ヶ原の西に位置する藤川台から、松尾山に陣取る秀秋を常に警戒しつつ、東軍が京都へ至る中山道を封鎖していたのである。


 そのため、徳川家康の本陣の鉄砲隊が射程を無視した一斉射を松尾山に放った瞬間、吉継は即座にその意図を悟った。


 戦慄する暇もなく、松尾山がにわかに騒がしくなると、吉継はすぐさま激情を露わにする。

 床几を蹴り飛ばして勢いよく立ち上がり、右手に握った軍配を握り締め、奥歯をギリリと噛みしめながら、迫りくる小早川秀秋の軍勢を迎え撃つ覚悟を固めた。



「なんっ……。だとっ!?」



 しかし、松尾山に生い茂る秋色の森から現れた小早川秀秋の馬首は、決して大谷吉継へ向けられてはいなかった。

 赤い陣羽織を翻して疾走する若武者は、大谷吉継どころか、吉継を攻める西軍の兵にも目をくれず、その背を素通りして、徳川家康の本陣へ真っ直ぐに進んでいた。


 しかも、大将自らが先陣を切るという、極めて危険な一騎駆けである。

 大谷吉継は驚愕のあまり言葉を失い、ただ茫然と目を見開くばかりだった。



「ま、まさか、これは……。」



 間もなく、小早川秀秋は徳川家康の本陣へ突入した。

 味方を半ば置き去りにしたこの急襲は、本陣全体を混乱の渦に包み、奇妙な光景を生み出していく。


 起伏の少ない平地での戦いでは、前方しか視界が得られず、指揮が極めて重要となる。

 だが、徳川家康からの命令は届かない。小早川秀秋の突撃があまりにも速く、命令が届く前に彼が目の前に迫ってくるのだ。



『小早川秀秋を止めろ! 馬から引きずり落として討て!』



 そのため、現場の小隊組頭たちは作戦を投げ捨て、ただ目の前の事態に対応することに追われるしかなかった。


 しかし、小早川秀秋は止まらない。止められない。

 槍で敵兵を右へ左へと斬り飛ばし、立ちはだかる約三万人の厚い壁をものともせず、ただひたすら徳川家康を目指して駆けていく。



 その結果、徳川家の足軽たちは槍先を小早川秀秋の背に向けるが、その後ろから、一足遅れて突撃してきた小早川の軍勢に襲われる。

 本陣は稲穂を刈るかのように切り裂かれ、つい先ほどまで大谷吉継に向けられていた整然とした長方形の陣形は、歪な二つの形へと変貌していった。



「掎角の計っ!?」



 今の小早川秀秋を例えるなら、それは放たれた一本の矢の如し。

 大谷吉継は、一騎当千の秀秋の戦ぶりと、あまりにも鮮やかな急襲の手並みに、身体をブルリと震わせながら見惚れた。


 ちなみに、掎角の計とは『三国志』に登場する戦術の一つである。

 簡単に言えば、軍勢を二手に分けて行う挟撃作戦だが、戦いを鹿狩りに例えたこの戦術は、いわゆる敵を前後から挟み撃ちにする一般的な挟撃とは異なる。


 野生の鹿は警戒心が非常に強い。

 身の危険を感じた途端に逃げ出す鹿を生け捕る方法の一つが『掎角』である。

 二人一組で鹿を追い、先行者が鹿の角を掴んで足止めを行い、後続者が鹿の後ろ足を取ることで捕獲する。


 つまり、前後に配置された軍勢は互いに向き合わない。

 まず前軍が敵に突撃し、敢えて突出して後軍との間に隙間を作る。

 その隙間に置き去られた敵を、後軍が攻めることで挟撃が成立する。



「もしや、あの小僧……。

 いや、秀秋様はこれを狙って、今の今まで動かなかったのか!」



 しかし、この戦術『掎角の計』は、目標を完遂するまで突き進むしかない、諸刃の剣である。

 前軍の突撃力が高ければ高いほど、敵陣を割って突き進むことができるが、足をほんの少しでも緩めれば、失敗は確定する。

 前軍も後軍も、突き進んだ分だけ敵中に深く孤立してしまうのだ。


 そのため、前軍の最先端に立つ者こそ、成否の鍵を握る。

 類稀な武才と、どんな敵にも怯まない豪胆さ。この二つが少しでも欠けていれば、そもそも戦術として成立しない。


 実際、前述の『三国志』において、この掎角の計を軍師から提案されたのは、中国史上でも指折りの猛将中の猛将であった。


 だが、その猛将中の猛将ですら、最終的には不安を捨てきれず、掎角の計を実行に移すことはなかった。

 軍略を学ぶ者たちの間で知名度を誇りながらも、幻とも伝説とも言われた戦術。その前方で展開される光景に、大谷吉継はただただ感動していた。



「……はっ!? しまった! 呆けている暇などない!」



 もちろん、これらすべては大谷吉継の勘違いである。


 小早川秀秋は掎角の計を知らず、単に調子に乗って突撃しているだけの無謀な行動である。

 それが偶然にも、奇跡的に掎角の計のような効果を生んでいるに過ぎなかった。



「伝令! すぐに三成のもとへ走り、伝えよ!

 今こそ家康を討つ千載一遇の好機だ! 陣を捨て、全軍で突撃せよ! ……法螺貝を鳴らせ!」



 しかし、大谷吉継の機敏な指揮は、小早川秀秋の調子をまるで大波のように変えてしまった。


 南宮山に陣取る毛利家の軍勢を除き、西軍の全てが突撃を開始する。

 一進一退を繰り返していた戦況は、次第に西軍有利へと大きく傾いていった。



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