第4章 血の契約者たち

 翌朝、ベイカー街221Bの扉を開けたとき、私はすでに覚悟を決めていた。

 これまで何度も死と対峙してきたが、今回は違う。

 我々の敵は、“この世の理”を踏み越えてくる者だった。


 「まずは聖油を」

 グレゴリー神父が言った。「正統なる契約破壊の儀式に必要な最初の要素です。サウスウォークの廃教会に保管されている“聖なるアブラ”――かつて異端審問で使われた品です」


 ワトソンと私は黒のコートに身を包み、冷たい風のなか、石畳を踏みしめた。



 サウスウォーク廃教会は、煉瓦と苔に覆われた忘れられた場所だった。

 塔は崩れ、ステンドグラスは砕けている。それでも、祭壇の奥には封印された地下貯蔵庫が残されていた。


 神父が十字を切り、古びた鍵を挿す。

 ドアが軋みを上げて開くと、内側には黒く粘るような風が漏れ出た。


 「ここに入るのは……30年ぶりです」


 内部には、聖遺物とともに、数十の骨壺が並んでいた。

 その中央、銀の容器に収められたのが、“聖なるアブラ”だった。

 まるで燃えることを望んでいるかのような、深い金色の液体――


 「一つ目は、揃ったな」

 私は容器を布で包み、懐に収めた。



 二つ目の要素、“血の誓約”。

 これは儀式に際し、自らの意志を記した“言葉と血”で書かれた契約書を要する。


 そのために我々が訪れたのは、バルモラル神学校の地下書庫だった。

 そこには、異端者たちが遺した血の契約書の写本が残されているという。


 警備は厳重だったが、神父の手配で秘密裏に通された。

 黒いローブの司書が静かに棚を開く。


 「こちらが、1623年に記された“血の誓約”の原書です。触れる際は、皮手袋を」


 私はページをめくる。

 その紙は厚く、かすかに生温かかった。インクに混じったもの――それは“処刑された異端者”の血。


 ワトソンが呟いた。

 「……こんなものが、ロンドンの地下に保管されていたとはな」


 私は小さく笑った。

 「ロンドンとは、文明と狂気のちょうど真ん中にある街だからね」



 そして最後の要素、“死者の名”。


 これは、冥界と人界を繋ぐ“鍵”のようなもの。

 ただ名を知るだけでは不十分で、その者の遺骸に直接触れ、契約を上書きする必要がある。


 我々は〈灰の塔〉跡地に向かった。

 そこには、かつてセヴラン卿と共に研究を行っていた助手、“ロイス・エイブリー”の墓があった。


 「彼は、門を開く前に殺された。つまり、“契約に耐えきれなかった者”です」

 神父が言った。「だからこそ、彼の名は儀式に必要なのです」


 月の明かりの下、静かに墓を掘る。

 土の匂い、朽ちた棺の音。


 私はその骸の骨に触れた――すると、背筋に冷たいものが走った。


 「……来るぞ」


 闇が震えた。

 どこからともなく響く低い唸り声。

 周囲の空気が重くなり、霧が膨らむように立ち上った。


 現れたのは、“使い魔”だった。


 骨と煤で編まれたような体躯に、蛇のような舌、血に濡れた目。

 ハデスの“犬”が、我々の行動を阻止しに来たのだ。


 「ワトソン、右を!」


 私は叫ぶと同時に、懐の小型爆裂弾を投げた。

 衝撃波で地面が砕け、使い魔は一度、姿を溶かした。


 神父が聖印を掲げ、ラテン語で叫ぶ。

 「Exorcizo te――!」


 次の瞬間、使い魔は断末魔の悲鳴をあげ、霧とともに消えた。


 ……だが、私は知っていた。


 これは“警告”だ。



 帰路の途中、私は言った。


 「これで、三つの要素は揃った」


 ワトソンはうなずきながらも、顔色を変えた。


 「だが奴らも、我々が準備を進めていることに気づいた……次に来るのは、“あの本体”かもしれん」

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