シャーロック・ホームズの異界録 IV:地獄の構造
S.HAYA
第1章 招かれざる依頼
霧の濃い晩だった。
ベイカー街221Bにて私はチェスを指していた。対戦相手は、ジョン・H・ワトソン――ではない。黒のビショップを動かしているのは、私自身だった。
ワトソンは昨夜より患者の往診に出払っており、未だ戻ってこない。無理もない、最近は疫病めいた熱病がイーストエンドを中心に流行しているらしい。
私は、駒を動かす手を止め、暖炉の炎を見つめた。
そのときだった。
カタン――と、ドアの郵便受けが音を立てた。
私は立ち上がり、厚手の封筒を拾い上げる。ロウで封をされた古風な手紙。それも、灰色の蝋印に、見慣れぬ錬金術記号が刻まれている。
差出人の名に、私は眉をひそめた。
> セヴラン卿
かつて政府から異端の研究者として追放された、ある種の錬金術師。死んだはずではなかったか――。
私は封を切り、中身を読む。簡潔にして、奇怪な文面だった。
拝啓 シャーロック・ホームズ殿
私の死後、屋敷に残された装置が予期せぬ動作を始めました。
止める術がなく、屋敷内に異常な現象が続いております。
訪れていただければ、全容をご説明いたします。
追伸:これは遺言ではなく、“依頼”です。
セヴラン
私はその場で外套を手に取り、ステッキを握った。
「妙だな。死者からの依頼か……」
すでに興味は尽きていた。
セヴラン卿の屋敷は、グレイフィア通りの奥にある古びた煉瓦造りの邸宅だった。
到着した私は、念のためリボルバーを懐に忍ばせたまま、門をくぐる。
ベルを鳴らしても、応答はない。だが、扉は開いていた。
鍵のかかっていない貴族邸ほど、不穏なものはない。
屋敷内は静まり返り、空気は重苦しい――否、湿っていた。
私は懐中電灯を灯し、廊下を進む。
そして、最奥の研究室。
そこに“それ”はあった。
部屋の中央に、奇怪な機械が鎮座していた。
無数のパイプとコイル、回転する輪と煙突、内部から周期的に“心音”のような音が響いている。
装置の側面には、こう記されていた。
> INFERNO ENGINE - Version 2.1
> 開発者:セヴラン・グリムフェルド
私は無意識に後ずさった。
装置の内部――そこに、人の頭部らしきものが、神経組織とともに取り込まれていたのだ。
そしてその瞬間、どこかで警報音が鳴り響いた。
「ホームズ!」
背後で声がする。振り返れば、コート姿のワトソンが息を切らせて立っていた。
「どうして君がここに?」
「依頼主が妙だと聞いて、後を追った。だが――」
そのとき、床が震えた。
装置が唸りを上げ、重低音の咆哮を発する。
「下がれ、ワトソン!」
壁面が崩れ、背後の棚が倒れる。そこから現れたのは――
四つ足の、だが人型に近い何かだった。
黒い角。真紅の眼。硫黄のような匂い。
それは人間ではなかった。
私は理解した。
これは、**“この世のものではない何か”**だと。
私はワトソンとともに部屋を飛び出し、屋敷の外へと逃れた。
「装置が何かを開いていた……あれは――」
「地獄だ、ワトソン」
私は答えた。
「この街に、地獄が口を開いている」
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