第三章
07:栄光の先に
合同会社白石誠司事務所が正式に発足し、わたくし、夢野花恩が業務執行社員として出版業界に本格的に乗り出してから、約一年半が経過いたしました。
わたくし花恩が24歳、誠司先生34歳の頃ですわね。
先生の作品は、わたくしが整えた環境と、円滑な対外折衝のおかげで、以前にも増して輝きを放ち、着実に読者の心を掴んでいらっしゃいました。
先生は、執筆に没頭できるようになったことで、以前にも増して充実した日々を送っていらっしゃるご様子で、わたくしはそれが何よりも喜ばしいことでございました。
しかし、同時に、わたくし自身の心の中には、これまで秘書としての献身の陰に隠れていた、ある感情の芽が、日々育っているのを自覚せざるを得ませんでした。
それは、先生への『尊敬』や『使命感』だけでは説明できない、甘く、そして焦がれるような『想い』でございました。
先生のお傍で過ごす時間が長くなればなるほど、わたくしは先生の一挙手一投足に、以前よりも一層、敏感になっていきました。
先生が、わたくしが用意した食事を『美味しいね、夢野君』と、心から嬉しそうに、そしてまるで新たな発見をしたかのように召し上がってくださる。
特に、以前は「空腹を満たすもの」としか考えていらっしゃらなかった先生が、初めて知る食材の組み合わせや、季節の旬の味わいに目を輝かせ『この野菜はこんなに甘いんだね』『魚って焼くとこんなに香ばしいんだ』と、まるで世界が広がったかのように驚かれるお姿を見るたび、わたくしの胸は温かい喜びに満たされました。
先生の舌が、少しずつ彩り豊かな『味』を覚え、食べることに純粋な喜びを見出している。その変化を見るたび、わたくしは、先生の人生に新たな彩りを加えているのだと、密かな充足感を覚えておりました。
執筆に行き詰まり、小さく唸りながらも、わたくしが差し出す淹れたてのコーヒーにほっと息をつかれる時。その微かな安堵の表情を見るたび、わたくしは先生の重圧を少しでも和らげられていることに、密かな幸福を感じました。
ほんの少し寝癖が残った頭を、わたくしが直そうと手を伸ばすと、先生が微かに身を強張らせながらも、じっとわたくしを見つめ返される時。
その戸惑いの混じった、しかし信頼の眼差しは、わたくしの心を静かに揺さぶりました。その視線が、まるでわたくしの心を覗き込むかのように感じられ、わたくしは、隠しきれない自分の感情の波に、ひそかに戸惑いを覚えていたのです。
そして、特に、先生が他の編集者の方々、とりわけ若い女性の担当者と打ち合わせをしている場面を目にすると、わたくしは説明のできないちくりとした痛みを胸に感じることが増えました。
ある日のことでした。新作の打ち合わせで、先生は大手出版社の若手女性編集者の方と、活発に意見を交わしていらっしゃいました。
彼女は、先生の作品について熱心に語り、時折、屈託のない笑顔で先生の顔を覗き込み、身を乗り出すようにして語りかける。
先生もまた、楽しげに笑い、彼女の意見に頷いていらっしゃいました。
その光景を目にした瞬間、わたくしの胸の奥に、嫉妬にも似た焼けるような感情が湧き上がってまいりました。
まるで、わたくしだけが知っていて手入れをしてきた花壇に、別の人間が土足で踏み込もうとしているかのような、言いようのない不快感……。
先生が、その女性編集者に向ける笑顔。
それは、わたくしに向けるそれとは異なる、あくまで仕事上の、社交的な笑顔だと頭では理解していました。しかし、わたくしの心は、それを許容することができませんでした。
『先生にとって、わたくしはただの秘書なのでしょうか。この一年半、先生の全てを支えてきたのは、わたくしだけではなかったのでしょうか』
そんな言葉が、心の奥底で反芻されるのです。
その数週間後、新たな作品の構想を練るために、先生とわたくしは出版社が企画した懇親会に参加いたしました。
煌びやかな会場には、多くの作家や編集者、メディア関係者が集い、熱気に満ちておりました。
先生は、わたくしが選んだ、いつもより少し明るい色のスーツに身を包み、堂々とされておりました。
わたくしは、慣れないパーティードレスに身を包み、先生の隣で秘書として細やかに立ち振る舞っておりました。
しかし、ここでもやはり、先生の周りには多くの人が集まります。
特に、華やかなドレスを身につけた女性作家や女性編集者たちが、先生の才能を賞賛し、連絡先を交換しようとする姿を、わたくしは何度も目撃いたしました。
「白石先生、以前からのファンです!ぜひ、今度、ゆっくりお話させていただけませんか?」
「先生の作品、本当に素晴らしいです。もしよろしければ、個人的にアドバイスを頂戴できませんでしょうか?」
そう言って、熱のこもった眼差しで先生を見つめる彼女たちの姿に、わたくしの胸は、静かに、しかし確実に締め付けられていきました。
先生は、戸惑いながらも、社交辞令で笑みを浮かべていらっしゃいましたが、わたくしには、それがまるで、大切なものを奪われそうになっているかのように感じられました。
その時、会場の隅で別の作家が、彼の秘書らしき女性に優しく語りかけているのが目に入りました。
その女性は、秘書という立場でありながらも、作家の隣で、まるでパートナーのように、穏やかな笑顔を浮かべているのです。二人の間には、言葉にはならない、確かな信頼と愛情が流れているように見えました。
その光景を、わたくしはまるで食い入るように見つめました。
「わたくしと先生の関係も、いつか、あのように…?」
そんな思いが、わたくしの胸に、切なく、そして甘く広がっていきました。
懇親会を終え、出版社へ向かう途中、先生がふと、冗談めかしてこうおっしゃいました。
「夢野君も、もうすぐ良い相手が見つかるんじゃないかな。君ほど優秀で、こんなにも人の世話を焼ける女性は、なかなかいないからね。僕のところにいるのは、もったいないくらいだよ。」
先生は、わたくしの将来を案じてくださる、いつもの優しいお言葉でした。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、わたくしの心は、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、凍りつくような感覚に襲われました。
『良い相手』……。
先生のお言葉は、わたくしを『白石誠司先生の秘書』ではない、『一人の女性、夢野花恩』として、先生のお傍から離れていく可能性を、示唆しているように聞こえたのです。
それは、わたくしにとって、想像を絶する、耐えがたい未来でございました。わたくしが心から望む『良い相手』とは、先生、あなた様以外にはありえません。
わたくしが、この一年半、先生のお傍にいるために、どれほどの努力を重ねてきたか。それは、単なる職務への忠実さなどではございませんでした。
わたくしの心は、すでに先生に、とても深く、そして熱烈な『恋慕』を抱いていたのだと、この瞬間に、はっきりと自覚いたしました。
先生の生活を支えることだけが、わたくしの使命ではございません。
先生の心も、そして先生の存在そのものを、わたくしが独り占めしたい。
他の誰にも、先生を渡したくない。この湧き上がる感情は、もはや「母性」や「使命感」などといった生半可なものではございませんでした。それは、他ならない純粋な「愛」だったのです。
――その日の夜、自宅に戻ったわたくしを、お父様が書斎で待ち構えておりました。
お父様は、リビングを通り過ぎて書斎へと向かうわたくしを、普段は厳格な面持ちで、しかしこの日は、いつも以上に有無を言わせぬ雰囲気で待ち構えていらっしゃいました。
お父様の視線は、わたくしをまっすぐ射抜き、その口から放たれた言葉は、わたくしの心臓を鷲掴みにするかのようでした。
「花恩。お前も、もう25歳になる。そろそろ、真剣に見合いの話を進めても良い頃合いではないのか? 私はお前の将来を案じているのだ。」
お父様の言葉は、以前のような『打診』ではなく、決定的な『通告』の響きがございました。
この一年半、先生のお傍にいるために、わたくしはあらゆる見合い話を断り続けてまいりましたが、今回は、その全てを覆すような、有無を言わせぬ圧力を感じたのです。
わたくしの胸の奥で、先生への自覚したばかりの恋心が、激しく波打ちました。
しかし、目の前のお父様の、決して折れない意志を前に、わたくしは、初めて、どうしようもないほどの無力感に苛まれました。
まるで、逃げ場のない現実が、わたくしを包囲したかのように感じられました…。
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