03:生活の調律者

 先生の体調が回復してくるにつれて、わたくしが次に気になり始めたのは、先生の「身だしなみ」でございました。


 朝の講義で、相変わらず寝癖がボサボサであったり、着ているシャツがヨレヨレであったりするのを目にするたび、わたくしの心は疼きました。

 せっかく素晴らしい才能をお持ちなのに、もう少し身なりに気を遣われれば、もっと多くの方に先生の魅力が伝わるはずなのに、と。


 何度か、「先生、お洋服、皺が寄っていますわよ」とか、「髪、もう少し整えられた方がよろしいかと」と、それとなくお伝えしてみたのですが、先生は「ああ、そうですね」と曖昧な返事をされるばかりで、一向に改善される気配がございませんでした。


 わたくしは、次第に我慢ができなくなってまいりました。

 ある日、いつものように講義後に先生の荷物をお持ちしている時でした。わたくしは、意を決して、先生の日常生活について問い詰めました。


「先生、恐れ入りますが、先生の普段の生活は、一体どうなってらっしゃるのですか?お食事もそうですけれど、お洗濯やお掃除なども、きちんとされていらっしゃるのでしょうか?」


 わたくしの問いかけに、先生は一瞬言葉に詰まられ、バツの悪そうな顔をされました。


「うーん、まあ、その、洗濯はまとめてするし、掃除は……気が向いた時に、ね。原稿に集中すると、どうしても他のことがおろそかに……」


 先生の歯切れの悪いお返事に、わたくしの想像は最悪のシナリオを描き出しました。きっと、とんでもないことになっているに違いない、と。


「……承知いたしました。では、今度、わたくしがお掃除とお洗濯に伺います!」


 わたくしは、思わず強い口調になっておりました。

 先生の困り果てた生活を想像すると、どうしても抑えきれない使命感がこみ上げてきたのです。

 先生は、わたくしの迫力に、完全に気圧されてしまったようでした。


「え、あ、いや、そんな……。学生の君に、そんなことをさせるわけには……。それに、僕の部屋、かなり散らかっているから、見られるのはちょっと……」


 先生は必死に抵抗されましたが、わたくしの決意は固く、その場から一歩も引くつもりはございませんでした。


「いいえ!わたくしは先生の健康と、そして先生の才能が存分に発揮される環境のために、何でもいたします。わたくしにお任せください!」


 わたくしの強い眼差しに、先生は観念されたようでした。そして、しぶしぶといった様子で、ご自身のマンションの住所を教えてくださいました。


「……はぁ。そこまで言われると、断るのも気が引けますね。分かりました。そこまで言うなら、試しに……アルバイトとして、手伝ってもらおうかな。ただし、学業に支障が出ない程度に、ですよ?」

「はい!ありがとうございます、先生!」


 わたくしの心は、歓喜に震えました。

 ついに、先生の生活環境に、直接関わることができる!先生の生活を、より良いものへと導くことができる!その思いが、わたくしの胸をいっぱいにしましたわ。


 そして、約束の初日。

 わたくしが駅に降り立つと、先生はすでに待っていてくださいました。

 ホームでお待ちになっていた先生と車内のわたくしの目が合います。


 扉が開き、車内から白いワンピースを纏ったわたくしが現れた時、先生は一瞬、息を呑んだように見えました。

 柔らかな陽光が、わたくしの髪をきらきらと輝かせ、先生の瞳が、その輝きを捉えているのを感じました。


「夢野君、わざわざありがとう」


 先生が声をかけてくださると、わたくしはにこやかに微笑み、そして、心に強く感じていた言葉を、そのまま口にいたしました。


「いいえ、先生のお世話をするのは、もはや運命なのです。わたくしが先生のそばにいるのは、当然のことでございます。」


 わたくし自身は、それを至極当然のこととして口にしましたが、先生は、その言葉に少しばかり驚かれたような、不思議な表情をされましたわ。

 先生は、わたくしのような家の者が、ご自身の世話を焼くことが、いかに「もったいない」か、心からそう思っていらっしゃるようでした。


「は、はあ……。そ、そうですか。では、ええと、早速ですが、僕のマンションはすぐそこなので、案内しますね。」


 先生は、どこか居心地が悪そうに、しかし気を遣ってくださるようにそうおっしゃいました。


 駅前から先生のマンションまでは、本当にすぐの距離でした。

 道中、先生は少しばかり緊張されているようでしたが、わたくしは先生の隣を歩けることが嬉しくて、自然と会話を弾ませておりました。


「この辺りは、とても静かで良い場所ですわね。先生の創作活動には、ぴったりの環境でございます。」

「そうかな?まあ、人通りも少ないし、集中はできるんだけど……。でも、まさか君が家に来てくれるなんて、夢にも思わなかったよ。」


 先生の言葉に、わたくしの胸はキュンと高鳴りました。

 先生にとって、わたくしがご自宅に伺うことが、どれほど特別なことなのか、その言葉の端々から伝わってきましたわ。


 そして、いよいよマンションのエントランスが見えてまいりました。

 オートロックの扉を先生が開け、二人で中へと入っていきます。エレベーターで目的の階に上がり、先生は少し重そうな足取りで、ご自身の部屋の扉の前に立たれました。


「あーいちおうね、その、君が来てくれるってことで、あの、僕なりに掃除したんだよ?ほんとだよ?」


 先生は、扉を開ける直前、少しばかり慌てたように、しかし必死に言い訳をするようにそうおっしゃいました。その言葉の響きから、先生がどれほど頑張ってくださったか、わたくしにはすぐに分かりましたわ。


 ギィ、と控えめな音を立てて扉が開き、先生はわたくしを中に招き入れてくださいました。一歩足を踏み入れた瞬間……。


 わたくしは、思わず口をぽかんと開けたまま、その場で固まってしまいました。先生は「僕なりに掃除した」と仰いましたが、そこにあったのは、わたくしの想像をはるかに超えた「混沌」でございました。


 床には読みかけの本や資料が山と積まれ、埃を被った食器がテーブルの上に放置され、ソファには脱ぎ散らかされたであろう衣類が散乱しておりました。

 窓から差し込む陽光が、室内の埃をキラキラと照らし出しているのが、妙に幻想的でございましたわ。


 正直なところ、わたくしは「これは、料理をするどころではない」と直感いたしました。まず、この部屋を人が生活できる状態にすることが、さしせまった課題だと。

 しかし、その衝撃と同時に、わたくしの心には、ある確信が芽生えたのです。


『ああ、やはり、わたくしが先生のそばにいなければ。』


 この光景こそが、わたくしが先生の秘書になることを、決定付けた瞬間でした。先生の才能を守るためにも、この環境を立て直すことが、わたくしの使命だと。そう強く、心に誓ったのでございます。


「せ、先生……。これは……。」


 わたくしが呆然とした声で呟くと、先生はバツが悪そうに、顔を背けられました。


「あー、その……見苦しいところを見せてしまって、申し訳ない。その、僕なりに頑張ったんだけど……。」


「いえ、先生。お気持ちは大変よく分かります。ですが、これでは先生が創作活動に集中されるどころか、まともに生活もできない状態ではないでしょうか?わたくしが、この部屋をきちんと整えさせていただきますわ。」


 わたくしは、すぐに気持ちを切り替え、メイドさんたちから教わった整理整頓と掃除の知識をフル活用しようと心に決めました。

 まず、部屋全体を見渡し、どこから手をつけるべきか、頭の中でシミュレーションを開始いたしました。


「まずは、散乱している資料や本を種類ごとにまとめ、衣類は洗濯籠へ。そして、食器は台所へ運びましょう。それから、掃除機をかけ、埃を拭き取ります。」


 わたくしは、先生に指示を出すように、きっぱりと申し上げました。先生は、わたくしのそのテキパキとした態度に、目を丸くされていましたわ。


「え、ああ、はい……。分かりました。手伝います。」


 先生は、戸惑いながらも、わたくしの指示に従ってくださろうとされました。


「……」


 わたくしが資料整理の手順を説明すると、先生は真面目な顔で資料をまとめようとされましたが、重ねるたびに崩れたり、そもそもどう分類すべきかわからなくなったりと、悪戦苦闘されているご様子でした。わたくしは思わず微笑んでしまいました。先生の頭の中では、物語の構造は完璧でも、現実世界の物の構造は、少々苦手でいらっしゃるのですね。


「じゃあ、先に洗濯物でもまとめようかな……。」


 先生は、そうおっしゃって、床に散らばった衣類をかき集めようとされました。その時、わたくしは思わず口を挟んでしまいました。


「先生、お待ちください!色物の服と白いTシャツを一緒にしてはいけませんわ!色移りしてしまいます。そちらは色物、こちらは白物と分けて、別の洗濯籠へお願いいたします。」


 わたくしは、普段メイドさんたちに言われているのと同じ口調で、つい窘めてしまいましたわ。

 先生は、呆然とした顔でわたくしをご覧になり、それから、困ったようにうなだれてしまいました。


「……本当に僕はダメ人間なのだと自覚した。」


 先生は、まるで打ちひしがれたかのように、小さく呟かれました。

 その後の先生の動きは、どこか遠慮がちに、しかしわたくしの指示に忠実になっていかれました。


 わたくしは、先生の困ったご様子に少しだけ胸を痛めつつも、しかし、この状況を立て直すことへの使命感で満ちておりました。


 わたくしが指示を出すたびに、先生は素直にそれに従い、戸惑いながらも作業を進めてくださいます。確かに、先生は家事に関しては不器用でいらっしゃいますが、わたくしが手本を示し、具体的な指示を出せば、きちんと理解してくださるのです。


 わたくしがテキパキと片付けを進め、洗濯機を回し始めると、先生は感心したように、わたくしの手元をご覧になりました。


「すごい…夢野くんはまるで魔法を使ってるみたいだね…」


 先生の言葉は、わたくしの耳に心地よく響きました。まるで魔法、ですか。先生の頭の中では、わたくしが道具を使わず、一瞬にして部屋を綺麗にしているように見えているのかもしれませんね。


 埃だらけだった床はピカピカになり、散乱していた本や資料はきちんと整理され、洗濯機の優しい音が響く。先生のお部屋は、わたくしに手で、信じられないほどに整っていきました。それは、先生の「掃除した」状態とは、全く異なる、清潔で快適な空間へと変貌していくのです。


 部屋全体がすっかり綺麗になった頃には、すっかりお昼を過ぎておりました。お弁当を作るつもりでしたが、部屋のあまりの状況にまず片付けを優先してしまったのです。


「先生、ひとまずこれで大体の片付けは終わりましたわ。随分と時間がかかってしまいましたね。午後になってしまいましたし、お腹も空かれたのではありませんか?」


 わたくしは、先生にそう尋ねました。部屋は綺麗になったものの、お腹は空くものです。


「ああ、そうだね。もうそんな時間か。お腹空いたなぁ……」


 先生は、心なしか元気を取り戻したように、そうおっしゃいました。


「では、今からスーパーへ食材を買いに行きましょう。今夜は、わたくしが先生のために夕食をお作りいたしますわ。」


 わたくしは、にこやかに提案いたしました。先生は、きっと外食に誘われるおつもりだったのでしょう。わたくしの言葉に、少しばかり驚かれたご様子で、しかし嬉しそうに目を見開かれました。


「えっ、夕食まで…?いや、でも、さすがにそれは……。お礼に外に食べに行こうかと、思っていたんだけど……」


 先生は、どこか遠慮がちにそうおっしゃいました。しかし、わたくしは先生の健康を第一に考えておりましたので、きっぱりと申し上げました。


「いいえ、先生。外食よりも、栄養バランスの取れた温かい家庭料理が、先生の身体には一番でございます。どうぞ、わたくしにお任せくださいませ。」


 わたくしの強い意思に、先生はまたも観念されたようでした。そして、嬉しそうに、しかし少し照れたように、小さく頷かれました。


「……分かった。それじゃあ、お願いしようかな。夢野君の手料理、楽しみだな。」


 その言葉に、わたくしの心は温かい光に包まれました。

 先生のその言葉は、わたくしにとって何よりのご褒美でございました。

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