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そのまま家に帰りたくなかった。なぜかはわからない。とにかく歩きたい。それで、あれから何ヶ月経ったかも知らないが、お得意様に顔を出すことにした。金貸しである。錦の外れ、何十年もその姿を変えずさびれ続けているという区画の雑居ビル。どうもここら尾張の独立前からある町という話がある。さすがにそこの住人がそう早く入れ替わることもないだろう。
古いビル、とびっきり古いビルの便所みたいな軽い扉をノックする。中からはあい、と野太い声が返ってきた。聞き慣れた声だ。
「失礼」
入ると、狭い部屋でデスク越しに彼が固まってこちらを見つめていた。マシュー・平澤。三十後半のアメリカと日本の合いの子。じっとする身体の上で、後退の始まった髪が空調の風にひらひらと立っている。
「えーっと…… ふん…… 気のせいかな。知ってる声が君から聞こえたような。でもそうだとしたら変わりすぎだ。もう生身が残ってないように見える」
「その通りだよ。たぶんあなたの知ってるその人であってると思う。マシュー」
明るいブラウンの瞳を片手でこすってこちらを見直した。少し老けたように思える。それからその目をしばたいて、言葉を続ける。
「驚いた! 驚いたなんてもんじゃない! 複雑だよ…… なんて言ったらいいか」
「素直に喜んでるわけじゃなさそうに見える。私何かした?」
「殺されたんだよ! 死体を運ぶのは俺しかいないって思ってたけど、エイドスの方が早かった。だからニュースで知ったんだ…… サイボーグが壊れたって!」
「それは…… 仕事中? そんな危険なとこに私が行ったの? 危険なとこと、マシューは取引してた?」
立ち上がりかけて彼はやめた。そして冷えたマグカップのコーヒーを一気飲み。紙束にカップでわっかをつけた。
「ああ、何が何やら! 後始末のためにまた生え際が後退した! だけどそっちはもっと大変だったんだろうな」
「そうでもない。ついさっき目が醒めて、死ぬ前のことは何も知らないの。たぶん、大変だとしたらこれからだよ」
自分でさえ今のことがよくわかっていないのに、彼に対してイチから説明しなければ何も進まなそうだ。
「私は死んだ。でもその前に私自身の情報をコピーしてバックアップをとっておいたから、こうしてロボットの身体でまたやり直せてる」
「ふむ…… すると、憶えてるのはバックアップするまでのことなのか。それがいつなのかわからないけど」
「正確にはバックアップしてからのことは経験してないの。だからこの私は、まだ死んでない」
「あのイヴリンは死んだの? ほんとに? 今になってそれが信じられなくなってきた」
「ほとんど死んでる…… 保存してあるみたいだけど、どんな状態なのかわからないからなんとも」
「イヴ、君は撃たれたんだよ。首をね」
自分の死に様なのに、他人のそれを聞かされているような感じがする。それもそのはずで、私は殺された経験がないのだから。
「首? 頭に一発じゃないの?」
「前頭葉を失って生きてた人もいる。確実に撃って、当たって殺せるところはそこなんじゃないのかな」
「頭だけじゃなくて背骨も硬くしてもらわないと…… マットは私をクビにしないよね?」
待ってましたとばかりに、目を口を開いた。私はもはやエイドス・コアの所有物だろうが、それでもオリジナルのために税金を納めなければならない。安心した。
「もちろん。身体が換わってもイヴはイヴだよ」
「ありがたい。研究所の人は身体が換わってから私をイヴって呼び始めた。私の開発名…… コードネームらしい」
そう。先刻にエイドスを出るまで私は厳密にはイヴリンではなかった。親しい…… よく関わる者を除いて、私のことをイヴと呼ぶようになった。イヴリンの略称ではなく、コードネームとして。自律する最初の人造人間、アンドロイド、レプリカントなどとして。設計者や上層の管理者らにとって私は本当に、ただのロボットなのだ。いや「今までのロボットとは一線を画す最新鋭の製品」だ。
「ここにいる限り、君はいつもの…… いや生命としてパワーアップしたイヴリンさ。いきなり仕事に戻って大丈夫かい? 今日くらいは休んだって誰も文句言わないよ。まあ俺以外とは関わりなかったっけ」
「私の生身がどんだけ税金を滞納してるかわからないの…… どれくらい?」
「君のことを一瞬信じられなかった理由はそれだよ。君が撃たれてまる二年になる。街も少し変わったろ、個人店が所々入れ替わってる」
「二年……」
二年という数字をどう捉えればいいかわからない。何が変わっただろうか。表通りに軒を連ねる店の他に? その間税吏は私のことをどう扱っていた? まあ、この街で私を気にかけていた者など税吏とマット、そしてエイドスくらいだから、実感を持ってこの歳月を迎える必要はないのかもしれない。
「てことは私、二十歳か」
「戸籍上二十歳」
「企業のモルモットがよくここまで生きたね」
「これからだよ…… コーヒー要るかい? その身体で飲めるかわからないけど」
上の空で返事をした。使われなくなったカウンセリングルームに思いを馳せる。エイドス・コアは人体改造ではなく人体の人造に舵を切ったということだろうか。エイドスの最終的な目標はなんなのだろう。人間並みにわがままを言うロボットよりは、人間を直接助けるインプラントやマン・マシン・インターフェースを作る方が「人のため」になるはずだ。
永遠の命? 今の私を見てそれを手に入れようとする人のことを想像できない。私はあくまで私の複製であって、生身は半分死体となってまだ自己を連続しうる。自己の連続性とはなんなんだ?
それを知るには、私の電脳はまだまだ足りない。そう結論づけて考えるのをやめたところで、熱いコーヒーを胃かどうかもわからないどこかへと、口を通して流し込んだ。
エイドスは私におまけをつけてくれた。O-bit。個人用のLLMで、私の身体に内「臓」されたプロセッサで実行されるらしい。体温は上がらないだろうか。
「O-bit」
念じるだけで呼び出すことができ、応答は視覚に表示するか音声にするかを選べる。もちろん両方ということもできるうえ、電脳に直接流すため「音漏れ」する心配もない。
「何かお手伝いできることはありますか?」
呼び出してはみたが要件を考えていなかった。ええと……
「何でもできる?」
「能力の限りを尽くします」
「尾張ヤング銀行から誰かのログイン情報を盗んできて」
これができれば私は働く必要がない。同時に無理だとも思っている。
「承知しました。では漏洩しているIDに対して、一つのパスワードを一回ずつ試行していきます。Torネットの比較的新しい出口ノードに接続中……」
「マジか」
「大変驚いているようですね。中断しますか?」
「いや続けて…… 倫理フィルターはないの?」
「どんな内容であれ、人間の思考に直結するものをなんらかの思想に従ってフィルタリングすることは許されません。それが私に課せられた唯一の倫理です」
なるほど。私とO-bitは一心同体であり、彼の行為の責任は私にあるのだ。あるいは…… 道具によって起きた結果の責任はその使用者にあるという当然の話かもしれない。
私はエイドスの道具か? あるいは本当に、私は私としているのか? 法律上は前者かもしれない。
「一件のログイン情報を特定しました」
私の視覚の上を、少しの緑文字が占めた。それによると、パスワードは20800617、IDはEvelineAshe。
「それ私」
「パスワードという語に関連する中で会話の途中にあなたの前意識に上っていた語として20800617があったため、漏洩していたIDのリストと組み合わせてログインを試行したところ、EvelineAsheと合致しました」
「最悪」
「別のアプローチを試しますか?」
「もういい」
優秀なのか使えないのかよくわからない。タスクの遂行能力はあるようだが、会話からその場の前提となっている暗黙の了解を察することが絶望的にできていない。人間の文章を元にしてLLMは作られたはずなのになぜ?
いや、人間の会話はそもそもこのようなものなのかもしれない。言葉を尽くしてディスコミュニケーションを避けているが、私は今それを怠ったのだ。
全身が仄かに暑い。O-bitと私との間に生まれた失敗で頭に「血が上った」のか、それとも単にO-bitによる発熱か、自分でもよくわからない。
「O-bit、私の『バイタル』はモニターしてるの?」
「はい。エイドス・コアの要請により、私はあなたの身体情報を常に記録しています。冷却液の温度が摂氏一度上昇しています。その要因として私の推論が四割、あなたの電脳の過負荷が六割程度存在します。たった今、後者が七割に上昇し、冷却液の温度が――」
「もういい。自分でも原因はわかってる」
このままでは彼と馴染むのは難しそうだ。自分の電脳と直結しているとはいえ、言語というインターフェースを通してやりとりする他人に他ならない。……彼をツールとして割り切って考えるのがいいか。それは昔も今も変わらない。こんなに近いところに他人がいちゃたまったものではない。
シャツを開き、改めて新しい身体を見た。まるで3DCGの素体だ。指で腹を押し込んで、新しい腹筋で押し返してみる。驚いた。内臓感覚がちゃんとある。そういえばシュミット博士が、生前の感覚をできる限り完璧に再現しなければ発狂すると言っていた。発狂の意味するところがなんなのか知らないが、肢体を失ってなお感覚が残る幻肢痛を想像して、なんとなしに納得した。
だいぶ筋肉質になった。死に物狂いでトレーニングをしなくともこの体型が維持されるとは、便利なようで寂しくもある。身体という道具を使い込むことの意味が変わってきそうだ。身体はより道具らしくなった。
臍がある。外形さえも実装されなかった生殖器と同じようにロボットには必要ないというか、ある理由がない器官のはずである。なんだ、人間はまだ哺乳類の、有機生命の神秘を見捨てられないのか。あるいは人間は人間を、機能ではなく形で見ているのかもしれない。
ぬるい水がシャワーヘッドから落ち、なんの汚れも絡め取らずにこの身体に沿って流れている。代謝しない皮膚に汚れがついたら落ちにくいだろうなと憂えた。汚れたら、壊れたら、交換すればいい。ますますこの身体を自身として受け容れにくくなり、借り物のようにさえ感じられた。昔は、壊れればそれも私の一部だった。最近までその余地は残っていた。しかし今はそうもいかない。
私の本当の身体は、「本当の」精神と一緒に、今も凍りついている。
「……」
洗った意味のない身体を拭いて、バスタオルをドラム式洗濯機に突っ込み、居室へ戻った。それからベッドを見つめている。二年も放置したまま埃も被らないでここにある。誰もこの部屋に押し入ることがなかったようだ。人間がいるからこそ塵が舞うものだ。
疲れていない。この身体も電脳も疲れを知らない。それでも眠るべきだと博士は言った。睡眠が持つ役割は疲労の回復だけではないそうだ。よくわかっていない役割のうちわかっているもの一つに記憶の圧縮がある。その日経験した出来事を睡眠中に長期記憶という巨大な書庫へ送る。そのときに圧縮されているかどうかは定かでないが、少なくとも長期記憶から持ってきて意識に置いたときには圧縮されていて、完全に正確な記憶ではなくなっている。
便利なものだ。生身ではどれだけ横になっていても眠れる確証がなかったのに、この身体では祈るまでもなく、睡眠の体制と意思を検知して自動的に電脳を眠らせられる。
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