EP 2
赤ちゃんライフは屈辱の連続
「おぎゃあっ!おぎゃあっ!」
(うわあああ!マジで赤子になってるじゃねえか!手足は短いし、視界はぼやけてるし、何もかもがデカい!)
内なる絶叫とは裏腹に、クルスの口からほとばしるのは情けない産声だけ。佐々木大輝、享年30。転生後の今は、生後数日の赤ん坊クルス・エルディンとして、ふかふかのベッドに寝かされている。これが現実だった。
「あらあら、どうしたのクルス?お腹が空いたのかしら」
ぼやけた視界の先に、女神のように美しい母親、マーサの顔が近づいてくる。優しい微笑み、慈愛に満ちた眼差し。それは、薄暗い六畳間でモニターの光だけを浴びていた大輝の心には、あまりに眩しすぎた。
「さぁ、クルス。おっぱいですよぉ」
マーサは優雅な仕草で胸元を寛げ、クルスをそっと抱き上げる。そして、その顔の前に、豊満な胸が差し出された。
(なっ……!?ちょ、待て、やめろ!俺は30だぞ!精神年齢は立派な大人なんだ!そんな、そんなことできるわけが…!)
クルス(大輝)のプライドが、猛烈な抵抗を試みる。しかし、生まれたばかりの赤子の身体は、生存本能という絶対的な命令には逆らえない。抗いがたい引力に導かれるように、口が、身体が、勝手に温もりを求めてしまう。
(あああああ!何だよぉっ!元に戻れよぉっ!)
後悔が津波のように押し寄せる。あの時、あの怪しいポップアップの【YES】ボタンを押さなければ。こんな屈辱を味わうこともなかったのに。
母親の温もりと甘い匂いに包まれながら、クルスは人生(一度目)最大の過ちを噛み締めていた。
「あらあら、すごい勢い。元気でよろしい」
そんな息子の内心の葛藤など知る由もなく、マーサは幸せそうに微笑む。
そこに、部屋のドアが開き、父親のマークスが顔を覗かせた。
「お、やってるなマーサ。どうだクルス、母ちゃんの乳は美味いか!」
「もう、あなた。そんな下品な言い方はよしなさい」
「ははは、悪い悪い。よしよし、たくさん飲んで、父ちゃんみたいに大きくなれよ、クルス」
「本当に可愛い子……私たちの、宝物よ」
マークスとマーサが、ベッドに寝かされたクルスを愛おしそうに見つめる。その眼差しは、どこまでも温かく、純粋な愛情に満ちていた。
(こ、こんな……優しい目で見られたのは、いつ以来だろうか……)
大輝の記憶が蘇る。いつからだろう、親と顔を合わせなくなったのは。いつからだろう、誰からも期待されなくなったのは。部屋の扉の前に、無言で食事が置かれるだけの関係。そこには、温もりなんて欠片もなかった。
忘れかけていた感情が胸の奥でチクリと疼き、クルスの目から涙が一筋こぼれた。
「おぎゃあ、おぎゃあ……」
(やめろ……そんな目で見ないでくれ……)
照れ臭さと、どうしようもない羞恥心から、クルスは泣き声で感情をごまかした。
「よぉし、よぉし、泣くな泣くな。じゃあ父さんは道場に行くからな、クルス。マーサ、家のことを頼んだぞ」
「はい。行ってらっしゃい、あなた」
マークスはマーサの額に優しく口づけをし、マーサも自然にそれを受け入れる。目の前で繰り広げられる光景に、クルスは内心で悪態をついた。
(はいはいごちそうさまです!朝から親たちののろけかよ!)
マークスが部屋を出ていくと、マーサは再びクルスに向き直り、にっこりと微笑んだ。
「は〜い、クルスちゃん。お腹もいっぱいになったし、次はおしめを替えましょうねぇ」
その言葉は、クルスにとって死刑宣告にも等しかった。
(お、おしめえええええ!?)
授乳ですら屈辱だったというのに、それ以上の試練が待ち受けていた。30年間守り通した(?)男の尊厳が、今、赤子の無力さの前に木っ端微塵に砕け散ろうとしている。
「おぎゃあああああああああ!」
(うわあああ!それだけは!それだけは勘弁してくれえええええ!)
クルスの魂の絶叫は、これまでで一番大きな泣き声となって、ルネサスの街の青空に響き渡った。
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