虛界少女

鴉齋

第1話 刺殺

  朝、早朝


  街には通勤ラッシュの人混みが溢れていた。始業時間の近づき、人々は皆足早に歩を進める。もしもぶつかりあっても、軽く会釈を交わすだけで、服を整えながらまた急いで歩き出す。


  そんな慌ただしい人混みの中で、ただ一人ゆっくりと歩く少女がいた。その流れに逆らうような歩みは、周囲の空気とはどこか調和していない。


  少女の名は遠山凛(とおやま・りん)。彼女は熊本の地元から東京の女子高へ進学したばかりで、ある程度の時間をこの大都会で過ごしていたが、依然として都会のすべてに新鮮な興味を抱いていた。


  今、彼女は商店のショーウィンドウの前で立ち止まり、中の商品に見入っていた。そんな彼女の姿に気付き、店員が興味を示しながら近づいてきた。


  「こんにちは、何かご購入されますか?」と店員が尋ねる。


  遠山凛は答えず、首を横に振るだけだった。


  しかし店員の顔には落胆の色は浮かばない。彼女がウィンドウショッピングをしているだけだと察したのだろう、サービス精神で声をかけただけだった。


  その後、彼女は書店の前へと向かった。ショーウィンドウに並ぶ数々の本に惹きつけられる。


  と、ふと高校時代に熱中していた漫画のことを思い出す。スマホを取り出し、画面を軽くタップした。まだスマートフォンを手にしたばかりで、操作は慎重そのもの。ツイッターを開き、「怪盗少女クロイ」という漫画の公式アカウントを探す。これはかつて彼女がこよなく愛読した作品で、悪の街で正義の味方として犯罪と戦うマスク姿の少女を描いた物語だった。「最新巻好評発売中」という文字が公式アカウントに表示されているのを見て、凛の顔から安堵の表情がこぼれる。


  だがこの漫画の作者は体調不良により頻繁に休載を繰り返し、いつ連載終了してもおかしくない状況だった。


  「よかった、作者はまだあきらめてなかったんだ。今度最新巻を買わなきゃ。」そう独りごち、凛はスマホの画面を消した。


  そんな喜びに浸っていた彼女の耳に、突然奇妙な音が飛び込んできた。周囲を見渡すと、音の出所は目の前の路地からだった。


  路地の中を覗き込むと、両側には古びたアパートのひび割れた壁が聳え、細い通路は遠くの高層ビルによって陽射しを遮られていた。午前八時半頃の明るい通りとは対照的に、この路地の中は暗く、まるで二つの世界が存在するかのようだ。


  路地口に積まれた段ボール箱が奇妙に揺れている。この不気味な環境と相まって、恐怖をかき立てられるような雰囲気を漂わせていた。


  ササ…ササ…


  段ボールから響く音は、まるでマムシの尾を振る音のように聞こえ、次の瞬間、蛇が飛び出してくるのではないかと思わせる。


  凛の心臓も緊張し始めるが、恐怖より好奇心が勝り、彼女は段ボールの動きを静かに見守った。


  突然、段ボールの山から何かの姿が飛び出した。素早い動きに驚き、凛は思わず数歩後退してしまった。転びかけたほどだ。


  心の鼓動を落ち着け、よく目を凝らすと、そこには一匹の白猫がいた。猫は凛に向かって歩み寄り、短く切羽詰まった鳴き声を上げていて、まるで何かを訴えかけているようだった。


  まだびくびくしていたが、猫を驚かせまいと、凛はそっとしゃがみ込み、手を差し出した。


  白猫は彼女の善意を感じ取ったのか、少しずつ近づいてくる。彼女の手の匂いを嗅いだ後、警戒心を解き、手のひらに顔をすり寄せた。まるで先ほどの驚かせたことを詫びるように。


  再び短く鳴き、急ぐように促す。


  「どうしたの?」凛が心配そうに尋ねる。


  すると白猫は人の言葉を理解するかのようにうなずき、数歩進んだ後、振り返って彼女を促した。


  暗い路地を前に、漠然とした不安を感じるが、白猫の切迫した鳴き声に後押しされ、凛は決心する。好奇心が勝ったのだ。


  白猫の後を追うように路地へ入ると、明るい外から暗闇へと移動したため、目が慣れるまで慎重に足を進める。緊張のあまり、凛は無意識に手を握りしめて胸に当てていた。これは彼女の癖で、不安な時に自分を奮い立たせる仕草だった。


  白猫は数歩ごとに立ち止まり、彼女を待ってくれる。幸いなことに白猫だからこそ、暗闇の中でその姿が見える。黒猫なら見失っていたかもしれない。


  やがて彼らは、飲食店の裏手にあるゴミ置き場にたどり着く。腐敗臭と油煙の混ざり合った空気で、凛は鼻を鳴らす。


  白猫は下水道の蓋の前で立ち止まった。中から弱々しく、彷徨うような声が聞こえる。静寂の路地に、孤独に反響するその声。


  蓋の隙間から覗くと、一匹の子猫が泣き叫んでいるのが見える。どうやら白猫は子猫と共に餌を求めてきたが、蓋の隙間から子猫が落ちてしまったらしい。


  だが自分一人では助けられない。助けを求めるため、外へ出て人を探していたのだ。何度も失敗を繰り返し、ようやく凛と出会えたというわけだ。


  「あなたは自分の子を助けたかったんだね。」


  凛は白猫の頭を撫でて勇気を送る。その愛撫を受けた白猫は子猫に声をかけ、力を温存するように促す。子猫も母親の言葉を理解し、鳴き声を潜めた。


  田舎で育った凛は、友人とさまざまな活動をし、学校でも体育の成績は常にトップクラス。今回もスポーツ特待生として都内の高校に合格したのだ。


  自身の体力には自信がある。彼女は蓋の隙間に手をかけ、力を込めると簡単に開けた。中を覗くと、びくつく子猫がいる。突然の出来事に驚き、毛を逆立てて身構える。


  「大丈夫よ。」


  凛が優しく語りかけると、不思議と子猫の心に温かな安らぎが広がり、鳴きやんだ。


  慎重に抱き上げ、白猫のそばに戻す。白猫は凛の足元をすり寄り、感謝を示すようにすり寄ってから、子猫と共に去ろうとする。


  「ちょっと待って。」


  凛が何かを思いつき、母子を呼び止めた。白猫が振り返る。彼女はバッグからパンを取り出し、包装を丁寧に開ける。


  「きっとお腹が空いてるでしょう。これをあげるね。」


  子猫が軽く鳴くと、白猫は匂いをかいでからパンをくわえ、子猫と共に暗闇の中に消えていく。


  「次はちゃんと子供を守ってあげてね。」


  白猫の背中を見送りながら、凛は胸の温かさを感じた。無力な母親の子猫を救えたことに満足し、自分を頼らずには助からなかったのだろうとも思う。


  時計を確認すると九時三十分。登校の時間にはまだ余裕がある。


  その時、急な足音が静寂を破る。数人の影が路地の奥から飛び出し、前方の素早い影を追い詰めている。追われているのは、黒い服にマスク姿の少女。明らかに訓練された身のこなしは、凛が愛読していた『怪盗少女クロイ』の主人公クロイそっくりだった。


  突然の事態に凛は硬直し、体が動かない。反射的に身を守ろうとするも、なぜかその場に立ち尽くし、思考も停止した。


  間もなく少女は迫る。小麦色の肌、黒いマスク。凛が愛読していたクロイそのものだ。


  「邪魔するな!」マスクの少女は息を切らしながら叫ぶ。


  だが凛はパニック状態。動こうとするも、体は言うことを聞かない。


  「邪魔するな!」少女は苛立ちながら再び叫ぶ。


  走り続けた少女は、間もなく衝突しそうになる。その刹那、彼女は冷静に判断し、手にしたナイフを閃かせる。混乱した少女の腹に、鋭く突き刺さる。


  「プチュッ」


  冷たい刃が凛の体を貫く。激痛に彼女は信じられない思いで、血に染まる服を見つめる。


  「恨まないで。」


  それが少女の最後の言葉。凛の耳に残った最後の音だった。


  追いかける者たちと共に少女の足音が遠ざかる。血を流しながら、凛の体は崩れ落ちる。今日が入学初日だというのに、やりたいこと、会いたい友達が山ほどあるというのに、命は刻一刻と失われていく。


  この暗い路地に、助けてくれる人なんているのだろうか。そう考えた瞬間、凛の心は深い悲しみに包まれた。


  血を流しながら、意識は薄れ、体温は失われていく。視界はぼやけ、五感も徐々に失われていく。そんな中、彼女の目に映ったのは、隅に立つ黒衣の人物だった。


  彼女に気づいたのか、黒衣の人物は静かに見つめている。


  助けを求めようとするも、声は出ず。次の瞬間、その人物は消え、視界は完全に暗闇に包まれた。


  どれほどの時が流れたか。遠くから声が聞こえてくる。


  「見て、人が倒れている!」


  「すぐに病院へ送れ!」


  どうやら自分の存在に気づいてくれたようだ。通りすがりの人々が助けようと奔走している。だが彼女の意識はもう最後の瞬間。救急車の音も、人の声も、もう返すことはできない。


  「私はもう駄目なのかもしれない」


  そんな絶望が心をかすめ、意識は完全に闇の中に沈んでいく。

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