6 落水

 どれくらいそうしていただろうか。


 いつの間にか閉じていた瞼を開いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。かなり酒が効いているようだ。


 このまま横になり本格的に寝てしまおう、とディーウィットが寝台に寝そべろうとしたその時、コンコンと部屋の扉が叩かれた。


「――殿下、少々よろしいでしょうか」

「なんだ」


 起き上がるのが億劫になり、寝台から答える。


「万が一酔われた場合にと、船員から酔い止めの噛み薬をもらいまして」

「……分かった」


 そんなものがあるなら先に欲しかったな……と思いながら、ディーウィットは一瞬で重くなってしまった身体をゆっくりと起こした。視界は相変わらずグラグラしているが、飲んだのはひと口分だけだからかまだ辛うじて動ける。


 壁に手を突きながら立ち上がると、鍵を開け扉を開いた。


 扉の向こう側に立っていたのは、昼間にディーウィットの腰に手形を付けたいなどとふざけたことを言っていた男だった。雇われ兵士だけあって体格はいいが、いかんせんヘラヘラとして雰囲気が緩い。


 これまでは敬愛などされてはおらずとも王家の一員として最低限の礼節を弁えた騎士としか関わることがなかったディーウィットにとって、民間の雇われ兵士のこの緩さにはどうしても慣れないものがあった。


「わざわざ済まないな」

「いえ、当然のことでございます」


 小袋を手渡されたので即座に受け取った。なのに、すぐに立ち去る筈の兵士が一向に動こうとしない。


「――どうかしたか」


 訝しげに見上げる。どこかギラついたような表情を浮かべた男が、ディーウィットが閉じようとしている扉を押さえ、一歩近付いてきた。


「……殿下、お顔が赤いようですがお加減でも?」

「問題ない。少し酒を飲んだだけだ」


 部屋へ戻れ、と続けるつもりだった。だが次の瞬間、船が大きく傾き、ただでさえ酒で覚束なかったディーウィットの足がふらつく。


「おっと危ない」


 男は逞しい腕でディーウィットの細い二の腕を掴むと、あろうことか男の腕の中にディーウィットの身体を引き寄せてしまったではないか。


「ちょ、」

「ああ殿下……っ、殿下が俺の胸に飛び込んで来てくれるなんて、これは夢でしょうか!」

「は!? な、何を言って……っ」


 抱き竦められてしまったディーウィットは、拘束から逃れようと身体を捻る。だが、男の力の前ではまるきり無意味な行為だった。男はディーウィットの頭に頬擦りをすると、耳朶に息を吹きかける。


「恥ずかしがらずともよいのですよ、殿下。全てを仰らずとも、この俺には殿下の星空のような瞳が熱を持って俺を見ていたことを存じ上げておりますから」

「何を戯言を……っ」


 男はディーウィットの抵抗などないが如く、ディーウィットの頬に唇を押し当ててきた。ディーウィットは懸命に顔を背け、抵抗を示した。


「何をするッ!」

「ああ殿下……! ひと目見た時から殿下を組み敷いて啼かせたいと思っておりました……っ」


 男が語る内容を理解した瞬間、ゾワッと全身に鳥肌が立つ。動物的勘というのだろうか。酒で酩酊しかけていた頭が、警鐘を鳴らし始めた。今逃げなければ貞操の危機が訪れるぞ、と。


 一度身体を許してしまえば、逃げられない船内でのことだ。到着するまで酷い目に遭わせられ続けることは目に見えていた。


「――離せ! この無礼者が!」


 ディーウィットは渾身の力で男の股間に膝蹴りを入れる。これは、いざという時の為にと護身としてアルフォンスが教えてくれたものだ。その時は、まさか役立つ日がくるなど考えもしなかった。「必要ないとは思うが」などと言うディーウィットに「これは必須です!」と半ば強引に教えてきたアルフォンスには、感謝しかない。


「ウガッ!?」


 まさか華奢なディーウィットがこのような抵抗をするとは思ってもみなかったのか、男は驚愕と痛みを堪える表情を浮かべながら床に膝を突く。


 今だ! と部屋の外に飛び出すと、壁に手をつきながら揺れ動く通路を駆けていった。


「く……っ!」


 時折身体を投げ出されそうになり壁に腕をぶつけながらも、歯を食いしばって無言のまま走り続ける。間違っても各々の部屋にいるであろう護衛の兵士らに助けを求めてはならないと、本能が告げていた。


 彼らはディーウィットを敬う気持ちなど持ち合わせていない。仲間のひとりが蛮行に走ったことを、仲間内で庇い立てする可能性は高かった。


 つまり、ディーウィットを脅してでも黙らせようとするのではないか。となると、彼らに見つかる前に安全な場所に逃げなければ、どんな酷い未来が待っていることか分かったものではない。


 ディーウィットは脇目も振らず、軋む階段を必死に駆け上った。向かう先は、甲板を出た先にある操舵室だ。あそこには、あの気の良い船員もいる筈。


 だが、ディーウィットは嵐の海を舐めていた。甲板に出た途端、大揺れする足許と強風に煽られ、すぐさま転倒する。


「わっ!」


 波飛沫が全身に降りかかり、一瞬で方向を見失ってしまった。慌てて周囲を見回す。見える明かりは、操舵室と自分が出てきた船室がある扉から漏れる明かりのみだ。その他は、何もかもが闇に呑まれてしまっている。


 甲板に出たのは拙かったか――。


 恐怖に襲われたディーウィットは、甲板の床に縋りつきながら船室の入口を振り返った。だが、そこに現れた黒い影を見た瞬間、情けない悲鳴が漏れる。


「……ひっ!」


 あの男だ。何かを叫んでいる声が途切れ途切れにだが聞こえる。波と風の音があまりにも暴力的に大きくて、何を叫んでいるかまでは分からない。だが、あそこに戻ったところで、ディーウィットの安全は保証されはしないだろうことだけは分かった。


 慌てて四つん這いになると、必死に操舵室の方へとずり這いで向かっていく。その時、一際大きな揺れが船を襲った。ディーウィットはズルズルと甲板を後方に滑り落ちていく。恐怖と絶望に、意識が呑まれそうになった。


「くそ……っ!」


 次の瞬間。


 突然の大波が上から襲いかかってきた。身体が濁流に呑み込まれ、完全に上下の方向感覚を失ってしまう。


「ガボガボ……ッ!」


 必死で藻掻くが、視界は暗闇に包まれ、自分がどこにいるのかすら最早分からず。


 息苦しさと恐怖のあまり、ディーウィットはそのまま意識を手放したのだった。

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