第22話 夕月拉致事件

 夕月は、キャンパスの門の前に立っていた。

 手には白いトートバッグ、いつものカーディガンを着て、翔吾が出てくるのを待っていた。

 手持ち無沙汰にスマホを見たり、周囲を眺めていると、2人組の男たちが、薄笑いを浮かべて路地から現れる。

 ひとりがポケットに手を突っ込みながら、揶揄うような声を投げた。


「お、マジでいるんじゃん。夕月チャン」


 その声の濁り。呼び方。違う世界の空気。


「翔吾と付き合ってんでしょ? 俺らにもちょっと味見させてくんないかなーって?」

「あんな奴より楽しませてやるからさぁ」


 踵を返すが、間に合わなかった。

 笑い声と共に腕を引かれて、夕月はとっさに身体を引いた。

 けれど、その下卑た手はしつこく、腰に、肩に、無遠慮に巻き付いた。


「やめ……っ!」


 叫びは、ぶ厚い手に封じられた。

 カーディガンのボタンが千切れて、アスファルトに跳ねた。

 揉み合っている内に、目の前の通りに静かに黒いセダンが横付けられていた。

 後部座席のドアが開かれる。


「っ!!」


 咄嗟に持っていたトートバッグを歩道に投げた。


「夕月!?」


 引き摺り込まれる直前、リカの声が聞こえた。

 猛スピードで窓から見える景色が動き出す。

 ビィーッとガムテープを引き出す音。

 動かなくなっていく手首、足。塞がれる口。


 頭の上では何度も翔吾の名前が飛び交っていた。

 きっとまた彼が傷付く。

 恐怖と同じくらい、それが悲しかった。




 リカは夕月を乗せた車がタイヤを鳴らして走り去ったのを見た。

 駆け寄って夕月のトートバッグを拾い上げると、スマホが入っていた。

 一瞬震えて、画面が明るくなる。

 メッセージアプリの通知だった。


『翔吾』

『今終わったけど、いつものとこにいる?』


「夕月、ごめん……!」


 勝手に開ける事をスマホの主に詫びてから、通知をタップする。

 互いに教え合っているロックナンバーを入力し、開いた先の画面からすぐに通話ボタンを押した。


『もしもーし、夕月?』


 間延びした声が電話に出た。

 知っている名前と顔のイメージと合わなかったが、そんな事を考えている場合ではなかった。


「翔吾ってあの翔吾……!?」

『えっ、誰!?』


 声の主がぴりっと警戒したのがわかったが、丁寧な自己紹介から入る心の余裕はこちらにもなかった。


「私リカ! 夕月が……! 夕月が誘拐された!」




 スマホからリカの叫びが聞こえた瞬間、頭に血が上ったのがわかった。

 落ち着け、と何度も自分に言い聞かせながら通話を続けた。


「リカちゃん、落ち着いて。今どこ?」

『東門のとこ』


 ひがし、と聞いた瞬間身体が駆け出していた。

 階段を2歩で駆け降りる。やたらと広いキャンパスにもどかしく苛立ちを感じた。


「リカちゃん!」


 リカは夕月のトートバッグを持って泣きそうな顔で門の近くに立っていた。

 呼びかけた翔吾を見て目を見開いた。


「やっぱり、翔吾!」

「誘拐ってどういう事!?」

「そこで夕月が、男2人に捕まってて、そしたら後ろから車が来て……、そうだ、黒。黒のセダン!」


 リカは何度も大きく息を吸って、懸命に説明した。


「黒の、セダン? ……だせぇファイヤパターンついてなかった?」


 リカが何度も頷く。

 そのセダンと持ち主の顔が閃いた。


 ──夕月は餌だ。俺を釣るための。


 のぼせていた頭が、冷たく澄んでいった。

 翔吾は震えているリカの肩に一度だけ手を添えた。


「ありがとう。犯人わかったから、大丈夫。あんまり息吸わないで、ゆっくり吐いて。……それと、夕月のバッグ、そのまま預かってて貰っていい?」


 リカが頷いて、息を吐いたのを確認して、スマホだけ受け取る。

 大股で駐輪場に向かいながら、翔吾は獰猛に呟いた。


「……ぶっ殺す」




 砂埃に満ちたコンクリートの床に、夕月は転がされていた。

 口を覆っていたテープは剥がされていたが、夕月は一言も喋らなかった。

 どこかの廃倉庫。

 煙草とアルコール、それに正体のわからない嫌な臭い。

 荒んだ目をした男たち。

 最も夕月の近くに立つ2人は、夕月より歳下のようだった。多分、高校生くらい。

 夕月の服の上からべたべた無遠慮に手を這わせてきて、不快だった。


「あの翔吾さんがハマるんだから、よっぽどイイ女なんだろうな。」

「翔吾さんの女とか、箔がつくよなぁ。仲間に入れて貰えっかなぁ。」

「こんなチビだと3人くらいで死んじゃうんじゃね?埋めんの面倒くせぇなぁ。」

「でも、ちょっとかわいくね? もったいねー」


 顔を掴まれて閉じた唇を割って入ろうとした指に思い切り噛みついた。


「ってぇな! この女……っ!」


 報いは一瞬だった。

 鳩尾にスニーカーの固いつま先が食い込んで息が詰まる。

 身体を丸めて咳き込む夕月の上に無数の笑い声が降った。


「馬鹿だなぁ。噛まれてやがる。」

「まだ壊すんじゃねぇぞ。翔吾がきてからだ。」

「可哀想になぁー? どうせ何十人のうちの1人なのに、これ見よがしに連れ回してさぁ。」


 男達の影の中から、1人の男が近づいてきた。

 高校生っぽい2人組がさっと夕月から離れる。

 屈み込んだその男は、夕月を拉致した1人だった。


「あいつが悪いんだぜ? 俺さ? 前に夕月チャンの事かわいーって褒めたら、翔吾に殴られちゃって? ムカついてんだよな?」


 わざとらしく語尾を跳ね上げる喋り方が、耳に引っかかる。


 ──翔吾は、理由なく人を殴ったりしない。


 夕月は男に答えず、ただ睨みつけた。


「ちっ、生意気だなぁ……。まぁ酒でも飲めよ。」


 ばしゃばしゃと頭からかけられた液体から、臭いだけで酔いそうな、強いアルコール臭が漂う。

 夕月は顔を顰めて、小さく咽せた。


「暴れっと火ぃつけんぞ」


 男が低い声で圧をかけて、見せつけるように煙草を咥える。

 プラスチックのライターの中で透明な液体が揺れるのがやけによく見えた。

 男の手がライターを投げ捨て、夕月を戒めていたガムテープを乱暴に破き始めると、急に周囲の男達のテンションが急に上がり、囃し立て始める。

 学生証は……、アレ持って来いよ……、次ジャンケンな……。

 軽々しく飛び交う言葉は、どれも絶望的に響いた。


「おいおい、震えてんじゃん。楽しもうぜ、」


 笑い声と共に足首を掴まれて、強く目を瞑ったその時、空気が僅かに震えた。


「やっと来たか。」


 聞き慣れたエンジン音と共に眩しいライトが汚い廃倉庫を照らし出した。




 バイクから降り立った翔吾は外したフルフェイスをふりあげて、とりあえず近くにいた男の脳天に叩きつけた。

 ヘルメットが割れようが相手が死のうがどうでも良かった。

 2メートル以上の高さから突然降ってきた塊に、下衆は声もなく沈んだ。

 奥にしゃがみ込んでいた人影が立ち上がる。

 男の後ろに、夕月が倒れているのが見えた。

 次の瞬間には地面を蹴っていた。


「待ってたぜ、翔吾……」


 振り返った男の顔に拳を叩き込んだ。

 覚えているよりもずっと相手は弱かった。

 頭の芯が異様に冷めていて、身体が思ったとおりに動く。

 夕月以外の動くもの全てを殴り、蹴りつけた。

 頬も鼻も紙細工のようで、木偶のようにがらがらと男達は倒れていった。


「翔吾……!」


 夕月が、助けを求めている。




「翔吾……!」


 夕月は叫んだ。言葉もなく荒れ狂う彼を止めたかった。

 その時、視界の端に、白い光が走った。


「馬鹿! やめろ!」


 若い声が誰かに叫んだ。


「翔吾さん、冗談キツいっすよぉ……。」


 冷たい金属の切先が、夕月の頬に押し当てられている。

 さっき夕月を蹴った少年だった。


「マジで……! 俺らなんもしてねぇっスから」


 震える声が、夕月を人質にとりながら懇願する。

 自惚れる訳ではないが、最大の悪手だと、夕月にもわかった。


「そんなに死にてぇのか。」


 振り向いた翔吾の声は恐ろしい程に平坦だった。

 風が鳴った。

 一瞬で肉薄した翔吾が、少年の腕を捻りあげてそのまま押し倒す。

 べきん、と鳥肌が立つような嫌な音がした。

 背中にのしかかられた少年が言葉にならない喚き声をあげる。


「翔吾……!」


 夕月は薄い背中を踏みつける翔吾に飛びついた。


「翔吾!私、大丈夫だから、大怪我させちゃだめ……!」

「……コイツらお前を」

「先生になりたいんでしょ……!?」


 力を込めて腕を引くと、翔吾は我に返った様に力を抜いて、若者の背中から退いた。

 翔吾が離した若者の腕は、べたっと力無く身体の横に落ちた。

 もう廃倉庫に翔吾に向かってくる者は誰もいなかった。


「夕月。俺……、」


 心ここに在らずと言った様子で、翔吾は夕月を呼んだ。


「助けにきてくれて、ありがとう。」

 

 その瞳にゆっくり色が戻っていく。


「夕月、ゆき、ごめん…! 俺のせいだ……!」


 伸びた腕が、恐る恐る夕月を抱き締める。翔吾の息が、震えていた。


「違うよ、翔吾はちゃんと守ってくれた。一緒に、帰ろう。」

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