第4話 ままごとと不用心


 翔吾を連れ帰るようになって、何度目かの朝。

 爆睡した翔吾が気まずそうに部屋を出ていかなくなった頃の事だった。


「翔吾、朝ごはん。何か食べたい物ある?」

「……何だよそれ、都市伝説?」


 夕月がキッチンから尋ねると翔吾はぽかんとしていた。


「あさごはんとか、食った事ねーわ。」

「そんなわけないでしょ。普通にご飯かパンかくらい……。」


 夕月は笑いながら言葉を続けようとしたが、翔吾を見て口を閉ざした。


「……そうだよな。それが『普通』だよな?」


 恐らく笑顔を作ろうとした頬が、不恰好に引きつっている。


「朝飯、まじでほとんど食った事ねぇ。…何が良いとか、聞かれたこともなかった。」

「……お家の人は?」

「お袋、朝は調子悪かったし……、腹減ったとか言ったら普通に殴られた。……まぁ朝じゃなくても、ガキの頃はずっと。」


 翔吾の口にした「普通」が、重く胸に落ちた。


「……じゃあ、これは私と翔吾の普通ってことにしよ。」


 夕月は静かに冷蔵庫を開け、2人分の朝食の支度を初めた。

 




 いつでも寝に来ていいから、ちゃんと声かけて入ってきてね。

 夕月にそう言われて合鍵を貰ったのは、つい先日の事だった。

 素行不良で「目立つ」俺なんかにそんな物を渡して、相変わらず不用心だと思ったけど、口には出せなかった。


「……ただいま。」


 なんとなく気恥ずかしくて、小さな声になった。

 玄関に夕月の靴がきちんと揃えて置かれている。

中敷に『S』と刻まれているのが見えた。

倣ってその横に自分のスニーカーを並べると、夕月の靴はまるでおもちゃの靴のようだった。


「あ、翔吾おかえり。」


 洗濯を畳んでいた夕月が振り返った。


「見て。翔吾の服、超おっきいね」


 Tシャツを持って、楽しそうに2人の服を比べて見せる。


「あ、洗濯……、俺のは自分でやるって。」

「良いよ、お水とか勿体無いし。あ、洗剤の匂い嫌なやつだった?」

「……いや、そんなことねーけど。」


 夕月の部屋に自分の服が干してある。丁寧に畳まれて、重なっている。

 それは勘違いしてしまいそうな温かさで、無性に胸が詰まった。

 母親ってこんな感じなのかも、と微かによぎった気持ちを、頭を掻いて振り払った。




「翔吾、おかえり。……ねぇ、私のマグ知らない?」

 翔吾が夕月の部屋を訪れると、夕月が眉を下げていかにも困った顔をしていた。

 ペットボトルに口をつけている。


 ──…これは、多分怒られる奴だ。


「……あんだろ、あそこに。」

「え、どこ?」


 翔吾は渋い顔で夕月を手招いて指差した。


「なに?冷蔵庫? の、上……。」


 玄関まで来て充分な距離を取ってから見ると、夕月の目にも冷蔵庫の上に花柄のマグカップが置かれているのが見えたようだった。


「……私、あそこ届かないんだけど。」


 夕月の声が一段低くなる。

 届かないどころか、意識していないと視界にも入らないだろう。

 唇を尖らせる夕月の目は翔吾の胸の高さにあった。


「夕月、片付けてくの忘れただろ、だから。…片しといた。」


 くっ、と吹き出しそうになったのを噛み殺して言い訳する。


「それはありがとう! でも、翔吾は毎日来る訳じゃないんだからあれじゃ困るよ!」

「わかってるよ。」


 大股で冷蔵庫まで行ってマグカップを下ろしてやる。

 ついでにボックスティッシュとボールペンと胡椒の瓶も。潰れた煙草の空き箱は、こっそりポケットにしまった。


「あっ、最近物がなくなると思ったら……! そこの吊り戸棚も開けて!」

「あぁ、どうりでここスカスカだと思った。……お前、不便な生活してんのな。」


 語尾が震え出したのに気付いて、夕月の頬がさっと赤くなった。


「笑わない! うちでは高い所禁止なの!」


 小さな家主が高らかに宣言する。

 とうとう堪えきれなくなって、腹を抱えて笑った。

 



その日は満月で、カーテンの隙間からほの白い光が差していた。

 夕月に声を掛けられて、時々眠りに来るだけだった部屋に、いつのまにか毎日帰るようになっていた。


「……んだよ、今からすんのかよ……」


 それはただの反射だった。 不意に近づいた熱を、夢うつつに掴んで引き寄せようとして、気づいた。

 薄い毛布を持った夕月の目が、目の前で驚きに見開かれている。


「し、翔吾……、ごめん、寒いかと思って……、びっくりした?」

「あー……、わり。寝ぼけた。」


 今まで他の女にしてきたように触れてしまった首筋に温かい脈を感じて、慌てて逃げ出した。


「……煙草吸ってくる。」


 ベランダに出ると、冷たい夜風が頭を冷やしてくれた。


「なにやってんだ、俺……。」


 背中に夕月の視線を感じた。

 ベランダの柵に肘をついて、煙草をただ咥えていた。

 火はつけたが、いつものようには吸いこめなかった。

 煙草に火をつけた手のひらに、まだ触れた肌の感触が残っているようで、慣れた煙に咽せてしまいそうだった。

 夕月の顔が、頭の中で何度も揺れる。

 驚いた目。少し震えて、結局自分を気づかった唇。

 夕月が差し出してくれた信頼を裏切った。

 そして何より自分を許せないのは、ほんの一瞬頭によぎった事。


 ──このまま何かしても、悪いのは夕月なんじゃねぇの。男と女が一緒にいて、何もない方がおかしいよな。


「……最低だな、俺。」


 不思議と、夕月をそんな目で見る事に強い抵抗があった。

 長いままの煙草を灰皿に押しつける音が、夜の静けさにやけに響いた。

 




「……煙草吸ってくる。」


 そう言ってベランダに出て行った背中が、落ち込んだように丸まっていくのをただ見ていた。


 『今からすんのかよ』 それは明らかに夕月に向けられた言葉ではなかった。

 気付かないふりで、驚いたふりで誤魔化した。

 でも、彼がそういう事をしてきた人なんだと、気付いてしまった。

 男の大きな手に掴まれた手首が、重さのある体温を感じた首筋が、じわじわと疼いていた。


 ただの友だちと毎日一緒に寝たりしない。家族でもない。

 でも、翔吾とはなんとなくそういう風にならない気がしてた。


「じゃあ、私は翔吾をなんだと思ってたの……?」


 こぼれた呟きは、彼が気に入っているラグに落ちて吸い込まれて行った。



 次の日の夜。

 彼はいつものラグに寝転がって、毛足の向きを変えて遊んでいた。


「それ何、ハート?猫?」

「別に、何でもねぇ。」


 ベッドを整えながら夕月が聞くと、さっさとラグを撫でて消してしまった。


「あ、いまちょっと可愛かったのに。」

 

 翔吾は黙って何か考えているようだった。

 時計の針は、もう深夜と呼ばれる時刻を指している。


「翔吾……、明日早めに出たいから、もう電気消していい?」

「あぁ、俺、もう少しここで起きてっから、先寝てろよ。……何もしねぇから。」


 付け足された言葉に胸が締め付けられる思いがした。

 夕月ももうわかっていた。自分から招き入れた以上何かされても文句は言えないのだと。

 それでも彼は自分を責めていた。


「私、翔吾のこと恐いと思ったことないよ。」

「……別に。これ、ふわふわしてて気持ちいいし。」


 ラグをまた撫でる彼の側に、夕月は黙ってブランケットを置いた。

 

 

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