49. K.Kashimoto

「孝太郎、やっぱ俺も降りて探そうか」


 鍵を探し始めてどれぐらい経ってただろうな。実際は一分かそれぐらいだったと思うが焦っていた自分にはそれが五分にも十分にも感じられた。

 慎二の提案に辛うじて首を振った俺はそこでようやく腹を決めた。ここまで探しても見つからないということはやはり鍵は通路の方に転がり入ってしまったのかもしれなかった。もしかすると和美は何か転がりやすい形状のキーホルダーに自転車の鍵を付けていたのかもしれない。そういうものなら階段を落ちる途中で不規則なバウンドを繰り返して通路の方に転がっていっても不思議はないなんて無理やりこじつけてな。

 無論、さっきの無自覚で奇妙な行動を思い返すと通路の奥に足を向けるのはちょっと恐ろしくて気が進まなかったが、かといって鍵を見つけられないまま引き返すわけにも、何もないスペースをずっと探し続けるわけにもいかなかった。

 自分に嘘をつくみたいに気にならないふりをしていたが鼓膜は奇妙な音をずっと拾い続けていた。それに気を抜くとまた同じように催眠術みたいに意識が希薄になってしまうんじゃないかとそれが心配だった。

 そこで俺は歌を歌うことにした。

 ウルフルズの『明日があるさ』って知ってるか。当時、有名な缶コーヒーのCMソングになって流行ってたんだ。元はずっと昔に坂本九って人が歌ってた曲でな。けっこう好きだったんだよ。元気が出るっていうかさ。いや、知らないならいい。とにかく音が気にならないように俺はその『明日があるさ』のフレーズを口ずさみながら通路の方に恐るおそる足を運んだんだ。


「……明日あしーたがあるさ、明日がある。わかーい僕には夢がある」


 歌い始めると上から慎二の笑い声が響いてきた。


「孝太郎、なんで急にそんな曲歌ってんだよ」


 俺はわざと返事をしなかった。とにかく床をライトで照らしながら出来るだけ陽気に歌って、その自分の声で鼓膜に潜り込んでくる音を掻き消そうと必死だった。


「いつーかきいっと、いつーかきいっと、わかあってくれるだろ〜」


 歌は下手くそだったが大声で歌った。なりふり構っている場合じゃなかった。すると再び慎二の笑い声が降ってきた。今度は和美や植山がクスクス笑う声も混じって聞こえた。


「和美のお兄さんて真面目そうだけど、実はけっこう面白い人なんだね」

「私も驚いてる。ていうか、お兄ちゃんの歌なんて生まれて初めて聴いたかも」


 普通の状態なら真面目な奴は夜中の廃校で肝試しなんかしないと反論したかも知れないがもちろんそんな場合でもなかった。その時にはすでに通路を三、四メートルも入り込んでいたと思う。

 鼓膜が拾う雑音が徐々に大きくなっていくのが分かった。一度、ライトを奥に向けてみたが先には暗闇以外まだ何も見えなかった。俺はさらに音量を上げて歌いながら腰を屈めて必死で地面を探した。


会社カイーシャを起こした奴がいる。会社カイーシャに残った俺がいる」


 もう慎二たちの笑い声は聞こえなかった。代わりに自分の声の反響がうるさくて耳を塞ぎたくなった。それでも俺は歌い続け、和美の自転車の鍵を探し続けた。けどそんな俺の努力を嘲笑うかのように振動音は耳の奥に途切れなく伝わってくる。そして一歩足を進めるたびに少しずつその音は増幅され、次第にはっきりと聴き取れるほど明確なものになっていった。

 不意にその音が何に似ているのか分かった。

 大勢の僧侶の読経だ。ほら、永平寺の修行僧が声をそろえる般若心経……いや、それよりももっと重低音だからチベット密教の声明しょうみょうのほうがより近いか。とにかく凄まじい振動を感じさせる倍音が俺の頭蓋内を侵食し続けて、いつのまにか俺はまた自我を失っていたんだと思う。

 

 だからここから先はたぶん夢の中の話だ。

 それでも良かったら聞いてくれ。

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