37. R.Sakuma

 鬱蒼とした樹間を抜けていく細い小径。

 見上げれば概ね葉っぱを落とした木の枝がほのかに水色をした空に無数のひびを描くように伸びている。


 瀬良凛と相沢雫もおそらく二人してこの場所を通ったはずだ。

 そのとき彼らはどんな会話を交わしたのだろうか。

 心中は自分たちを虐げる者たちへの恨みで満たされていただろうか。

 それともまた別の自分には計り知れない感情と恨みがないまぜになった状態だったのだろうか。


 時折、吹き抜けていく冷たい風にハーフコートの襟を立てながら、礼香は心のうちでこう思った。


 そのときの彼らに会いたかった。

 自分は教師ではないが警察官として、いや、一人の大人、人間として彼らの話を聞いてあげたかった。そして彼らを守ってあげたかった。なんでもいい、彼らを苦しみから解放する手助けをしてあげたかった。


 仮にこの気持ちを面と向かって話したら彼らはどんな顔をするだろうか。

 赤の他人が烏滸がましいと突っぱねられるだろうか。

 それとも懐疑の目で見つめ、なにも言わずに去ってしまうだろうか。

 あるいはジッと耳を傾け、本音を明かして答えてくれるだろうか。



 小径にはところどころ張り過ぎた樹木の根が段差を作っているところがある。ずっと履いていないスニーカーを靴箱から引っ張り出してきた甲斐があったと礼香はその段を踏みしめながら微かに頷いた。



 女子生徒がインタビューで答えた内容において瀬良凛や相沢雫に対するいじめ案件や彼らの学校生活におけるバックグラウンドなど、それらは逐一特捜で得た情報となんら矛盾するところはなかった。つまり彼女の口から語られた話は現時点においては真実であると認識していいだろう。

 礼香の鼓膜の奥で駿河真希の言葉が何度もリフレインされる。


 ―――――― この世の者ではない常識では考えられない存在による犯行


 一警察官としてはあるまじきことかもしれないが、率直にその通りだと思ってしまった。到底、人間業とは思えなかったあの惨殺劇は『この世の者ではない』怪異だからこそ成し得た所業であり、その化け物とは五十センチ以上の粘液を滴らせる大きな足とナイフのように鋭い鉤爪が伸びる指を備え、なおかつ人間の腕や脚、そして首を簡単にちぎり取ることができる怪力の持ち主なのだ。

 

 頭に浮かんだ結論に礼香は喉元に込み上げてくる自嘲をなんとか抑え込んだ。

 誰が聞いてもこの上なく非現実的で荒唐無稽な推論である。けれどその常識をあえて無視して考えなければあの事件の真相には決してたどり着くことができない。


 この常識ではあり得ない類推が正しいならば、あれは瀬良凛と相沢雫という二人の中学生が受けていた酷いいじめに端を発したその結末だったのだと礼香は考えている。彼らが何らかの方法で怪物を呼び起こし、それが十一人の生徒の命を奪ったのだ。


 二人の怯えと絶望と狂気があの残忍な報復を引き起こした。


 誰かがその悲劇につながる糸を断ち切る必要があった。

 誰でもいい。どんな方法でもいい。必ず手立てはあったはずだ。

 それができなかったのは彼らをちゃんと見ている人間がいなかったからかもしれない。きちんと彼らに目を向けて寄り添おうとする者は誰もいなかったのだろうか。

 彼らは誰からも見放されていた。

 あるいは誰にも縋ろうとしなかった。

 だから最終的にこんなにも悍ましい何かに頼るしかなかった。

 愚かで哀しすぎる最悪の選択肢を選ぶしかなかった。



 頭上から降りそそぐ木漏れ日が足もとを陽炎のように揺らめかせる。

 私はその光の粒をひとつひとつ自分の覚悟を確かめるように踏んでいく。


 

 あのインタビュー録音を聴いた次の日から、終始何者かの視線を感じるようになった。おそらくは雑音が言葉として聞き取れてしまった時点で瀬良凛は自分を次のターゲットとして定めた、そういうことだったのだろうと思う。

 

 居酒屋でそう勘づいた時はさすがに動揺した。

 また駿河真希の死を目の当たりにしてその予感が正しいと証明されたことで止めどなく恐怖が募り、再びパニック障害の症状に苛まれた。


 傷病休暇をもらい、ベッドに寝転んで天井を見つめながら考えたのは自分がなぜ警察官を志したのかというそもそもの動機についてだった。


 礼香には三つ年が離れた姉がいる。

 彼女は高校三年生の時、当時付き合っていた彼氏からレイプ被害を受けた。姉は泣きながら両親にその事実を告げ、両親は思い悩んだ末に警察に相談した。けれど警察は動いてくれなかった。それどころか対応した女性警察官は「相手が彼氏ならそれはレイプではない」とか「そもそも油断があるからそういうことになる」などと言ってまともに取り合ってもくれなかったらしい。

 結局、泣き寝入りになった。

 姉は今も元気に過ごしているがそれ以来、一度も男性と交際していないと聞く。

 

 あのとき自分は姉を守ってあげられなかった。

 なんの力もなく、ただ憔悴して過ごす姉をそばで見守ることしかできなかった。

 そんな自分に無性に腹が立ち、自分がもし警察官ならと何度も歯噛みをした。


 弱者を守ってあげられる存在でありたい。


 それが礼香が警察官になった理由であり、職務についてから片時も忘れたことのない矜持でもある。


 ぼんやりそんなことを考えたあと、ふと気づいた。


 ―――――― でも、もしかすると自分はまだ、誰かを守れる存在であり続けられるかもしれない。


 そして気がつくと礼香は無意識のうちにベッドから身を起こしていた。


 

 地蔵は想像よりもずっと背が低く、ほぼ全面が苔むしていた。また首から上がないので一見するとただの緑がかった小さな岩にしか見えない。そのそばに建つ祠はやや傾き、片側の屋根の板が剥がれかけていた。周囲には濡れて黒ずんだ落ち葉が堆く積もり、近寄るとグズリと嫌な音を立ててスニーカーが沈み込んだ。


 湿った土の濃い匂いが鼻腔にねっとりと潜り込む。

 吹き抜けていく風にそよがれた樹葉がさわさわと頭上で音を立てている。

 振り返ると下り降りる斜面のずっと向こう、樹々の隙間にうっすらと変わった形の屋根が覗き見えた。そういえば南黒森中学校にあった図書館だけが残されたと聞いた記憶があった。確か古い建築物で文化財保護目的のためだったと思う。

 礼香はいつのまにか拳を強く握り締めてしまっていた。

 あの図書館の床に開けられていた真四角の大きな穴。いくら捜査してもあのような穴がどうやって開けられ、どうして犯人がそこに潜んでいたのか、全くの不明だったが今なら分かる。

 怪物はきっとあそこから生まれたのだ。

 そして怪物は瀬良凛と相沢雫というか弱い中学生二人が募らせた恨みと執念によって産み出されたものだった。


 礼香はやりきれない想いをため息にしてフッと吐いた。


 ざっと見積もってこの場所と図書館の直線距離はおそらく百メートルにも満たない。もしかすると双方の場所には人智を超えた不可思議なつながりがあるのかもしれない。


 瀬良凛と相沢雫。

 二人はいったいどこへ消えてしまったのだろうか。


 ――――――― でも、もしこの場所にいるのなら。


 礼香はその場に跪き、両手を組んで胸に当てた。

 そしてうつむき目を閉じて一心に祈る。



 瀬良凛さん、私、あなたに会いにきたの。

 でも見逃して欲しいなんて、そんなつもりじゃない。


 あなたと話をしたいの。

 いまさらかもしれないけれど、あなたを助けてあげたい。


 

 だから、お願い。

 ほんの少しでいい。

 

 姿を見せてくれないかな?


 

 不意に樹々の葉擦れが聞こえなくなった。

 次いで目蓋の裏側がぼんやりと明るくなった気がしておもむろに目を開けるとそこはぽっかりとした穴のような真っ白でなにもない空間だった。


「ずいぶんとおせっかいな人なのね、あなた」


 背後から聞こえた声にゆっくりと振り返るとそこにひとりの小柄な少女が立っていた。

 ショートボブの髪に整った顔立ち。

 そして南黒森中学校指定のセーラー服。


「……瀬良凛さん」

「そうよ。初めまして、刑事さん」


 そういって黒目がちな瞳で軽く目礼した彼女はやわらかな微笑みをたたえていた。

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