1. R.Sera

 雨が降っていた。

 六月初めの、しとしと静かに降りそぼる雨だった。


 学校の裏手、小さな山の中腹にある柘榴ざくろ神社。

 その社殿からずっと離れた鎮守の森の奥、首のない地蔵と崩れかけた祠の前で私は傘も刺さずに途方に暮れてたたずんでいた。


 どうすればいいのか、わからなかった。


 私は右手の指に小さな紙切れを摘んでいた。

 ノートを鋏で切り取った真四角の紙片に記された鉛筆書きの四文字。

 私はそれを時折、思い出したように胸の前にかざしてはジッと見つめる。


 ポタリと音を立てて髪から滴った水滴が紙面に落ちる。

 柔らかくなった紙が折れ曲がり、力なく手のひらに貼り付く。

 

 ―――― 不離一体


 人差し指の腹を背にその四文字が私を嘲笑っている。



「あの……」


 背後で不意に響いた問い掛けに私は思わず首をすくめた。同時にその気配に気づき損ねた自分の迂闊さを呪う。そのままみじろぎもせず、からだを強張らせているとまた同じ声が響いた。


「瀬良さん……だよね」


 少し掠れ気味の声変わりしかけた男子の声。私を知っているということは同じ学年の生徒だろう。恐るおそる振り返った私の瞳が樹木の陰から半身を覗かせた気弱そうな男子の姿を捉えた。


 彼のことはよく知っていた。

 二年三組、同学年で隣のクラス。

 名前は相沢雫。

 私と同じく被食者側にいる異分子。

 小柄であどけない少女のような顔立ちをしている。


 黙ったまま動向を警戒していると、相沢くんが硬い表情で訊いてきた。


「傘、持ってないの」


 私は少し間を置いて、微かにうなずいて見せる。


「じゃあ、これ……使って」


 そう言うと彼は通学カバンから折り畳み傘を取り出し、次いでゆっくりとこちらに足を運び始めた。相沢くんが踏んだ枯れ枝がぱきりと音を立てる。その一歩一歩探るような接近に私は背中を丸めてうつむき一歩後退った。すると彼の歩みが止まる気配がした。


「ごめん、怖がらせたね。謝る」


 戸惑いを含んだ声色に思わず顔をあげると数歩先で彼が身を縮めてうつむいていた。そしてその謝罪の言葉に「ああ、彼もまたそうなのだ」と思い当たる。たとえ紛れもない善意から導かれた行動であったとしても、それが他人に受け入れられるかどうか全く自信が持てない。またそういう内気な性格と繊細さが自分をこちら側の人間にしてしまっていることを痛いほどよく理解しているのに、なお性分を改めることができないでいる葛藤と諦め。私が抱えているものとは少し違うけれど、やはり彼は私と同じ被食者側の人間なのだと微かな共感が芽生えた。

 

「……自分が使えばいいのに」


 どこか拗ねたような言葉が口から漏れ出た。すると彼はおもむろに顔を上げてうっすらとはにかむ。


「いや、いいよ。僕はどうせ、もうびしょ濡れだし」


 雨に濡れたあどけない少女のような顔つき。そこに困ったような照れ臭いような表情が浮かんでいるのを目にした私の胸でドキリと鼓動が弾んだ。


「私だってそうだよ」


 上目遣いにそう返すと彼はちょっと寂しそうな顔になって傘を引っ込めた。

 

 楠、欅、楓。


 雨中、息絶えた巨人のように立ち並ぶ樹木たち。

 鎮守の森の分厚い天蓋は、けれど降りしきる雨粒を緩慢に許容し続ける。

 

「あのさ……違ってたらごめん。えっと、もしかしてだけど、その……瀬良さんもあのウワサ……」


 ―――― そうだよね。

 私と相沢くんがこんなところで出会う理由なんてひとつしかない。


 少しためらったけれど、視線を泳がせながらも私は小さくうなずいた。

 すると彼は拳を口もとに当て、わざとらしく咳払いをする。


「そっか、やっぱり」


 その昂ったトーンにひそむ彼の隠し切れない高揚に私は閉口した。

 自分のことを棚に上げて同属、いや同志だなんて思われたのが癪で、けれど私はそんな素振りを見せず、ただ黙ったまま彼の表情を見つめる。


「でもさ、本当なのかな。つまり、その……そこにあるお地蔵さんと祠の言い伝えって」

「さあ、わからない」


 抑揚もなく私がそう答えると相沢くんはスッと目線を上げ、まっすぐにこちらを見据える。その瞳には期待と焦りをないまぜにしたような色が見えた。


「でも、もし本当だったら、僕は――――」

「馬鹿みたい」


 無意識に自分でも驚くほど冷たい響きのある声が口から出ていた。同時に指先にあった紙切れをいつのまにか握りつぶした拳が寒さで小刻みに震えていた。私の言葉に相沢くんが叱られた犬みたいに背筋を丸める。その姿に哀れみを感じた私は声まで震えてしまわないように注意深く唇を開く。


「馬鹿みたいだけど……本当だったらいいと思う、私も」


 きっとそれが私の本心だったのだろう。

 あるいはすでに芽生えていた微かな希望が私にそう言わせたのかもしれない。


 相沢くんがホッとしたようにその頬を緩めた。

 湿気で萎えた髪が額に貼り付いていたけれど、それは嫉妬するほど美しい顔立ちだった。


 ―――― 不離一体


 ふと、そのとき難解なパズルのピースがカチリと収まった音が頭のどこかで響いた。

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