011 仔猫のアノス
ここ数日レオンが訪ねてこない。
アノスは魔女nとの会見以来レオンと会うと緊張していた。だからいっそ会いたくないと考えたりした、それでも会えないと不安と思慕が入り交じり寂しくなるのだった。
訓練が終わりいつもの傷の手当、血の配布を受け取り自室へ戻るアノス。
レオンの[
「うっ、だんだんまずくなるな」
何故かアノスは血を受け付けないようになっていった。
鏡を見ながら血の付いた唇を開く、右手の指で上唇を大きく引っ張る、
「やっぱりおかしいんだな、僕は」
右側にしか牙がないのを確認すると、静かに唇を閉じて指先についた血を眺める、そして次には鏡に映る自分の目を睨んだ。
「僕はアルグルだ。モンスター最強のアタナシオス様の[
アノスは残った半分の血を飲み干そうとした。
烈しい吐き気に眩暈がする、呻きながら、それでも一滴も零さず飲み込んだ。すると、
「いつもそのように飲むのか」
背後にレオンが立っていた。
「レオン! あ……さま」
アノスは頭を下げた。
「なるほど、数日会わないと礼儀を覚えるのだな、お前と言う奴は困ったものだ」
レオンは微笑みながらそう言う。
「笑わないで! 僕だって[
とは言っても、明らかに成長の遅延がみられるアノス。
レオンはこの件についてはアノスを甘やかしていた。
きっと人間で言えば15歳程度、まだまだ子供で思想と行動が伴わない、アルグルらしからぬアノスなら仕方のないことだと判断しているのだった。
「個体差があるものを気にする必要はない。それよりもアノス、私の問いに答えていないぞ」
レオンは血の飲み方について心配していた。
あんなに苦し気に血を飲むアルグルを始めて見た、レオンには魔女nが言った『仔猫』という言葉の意味を正確に把握する必要がある。アタナシオスはレオンであれば問題がないと言ったが用心するようにとも言った。あのアルケーの真の始祖がそう言うのだ、用心する必要があることは間違いない。
「いつもじゃないよ、今日は疲れているんだ」
アノスは苦し紛れな返答をする。
「アノス……アルグルであれば疲れていればいるほど血を欲するものだ。私に無意味な言い訳をするな」
レオンはやんわりと伝えた、だが、
「なら僕はなんだ!! あんたが噛んだのにアルグルじゃないと言うの!?」
アノスは興奮した。
アルグルもどき、片牙の半端者、不吉な痴れ者、アノスには様々な蔑視用語が投げられた。その深い意味すら理解できずにいたアノスも今は、とうにその言葉の真意を理解している。会えば笑顔で接してくれる同胞も、上位のアルグルの前では他人のフリだ。目を伏せて赤の他人のフリをする同胞に対してアノスは申し訳なく情けなく思うのだった。
『誰にも迷惑をかけたくない、僕は一人がいい』
いつしかアノスは孤独を住み処とするようになっている。
レオンは間をおいて伝えた。
「アノス、個体差があるのだ、これは事実だ。私の言うことが信じられないのか」
そうは言うものの、レオンには少々の戸惑いがある。
今までのアルグルとは違う変化の過程、片牙という異質な容姿、魔女nが危険と評した存在、レオンにとってもアノスは計り知れない存在であった。
「レオンを信じないだなんて……そんなことはないよ、知ってるじゃないか、僕にはレオンしかいないんだから」
アノスは項垂れて萎れて、このまま消え入りそうな声で言う。
「ならば事実を」
レオンは言葉短く厳しく問う。
「血は……欲しくない。美味しくないとか、そんな生易しい意味じゃなく。本当に……本当は、飲みたくないんだ」
アノスは涙ながらに答える。
レオンは、その姿を自身の変化の最中とリンクさせている。
アタナシオスは優しかった。
その変化の最中のアタナシオスの言動の一部始終が優しさであったと知ったレオン。それは[
脳内、意識、体内から流れてくる[
所詮は獰猛なモンスター、アタナシオスは始祖ゆえに孤独を抱えながら、人間である産みの親への思慕を抱えつつ人ならざる者として誕生し、その宿命を全うしている。モンスターを子としてもつ両親の慈しみと困惑と嘆き……それらを全身で感じ取っていた幼い頃のアタナシオス。愛を注ぐだけで満たされる親子関係ではない年月は、いったいどれほどの不幸を生じ得たか。この親子らに、平穏は在り得なかった……という事実。
レオンは[
「お前が欲しないのであれば……だが」
今、レオンはあるまじき発言の一節を零した。
自覚はある、これはアルグルにとってありえない、あってはならない事態への許しとなるのだから、さすがのレオンの唇も素直にその響きに正しさを表現できない。
「レオン……それは、僕を[
アノスは失意の中でも怒りを覚えた。
レオンは直ちに我に返った、馬鹿げている、始祖の[
「アノス、早まるな。私にそういう意図はない。お前は」
瞬時に蘇るかつての恋人の姿、アンブロシアの姿。
アンブロシアは快活で善良な人であった。
彼女はどんな差も人の個性であると感じ取れる人であった。疫病や奇形児、迫害や薬害の後遺症など、人としての当たり前の容姿や生き方を留めることのできない人間に対して、決して特異な対応をする人ではなかったのだ。
「君の片目がないことで相手が怖がったのでしょ? それは仕方ないじゃない。君だって相手の頭が二つあったらびっくりするでしょう? でもいるのよ、そういう人も」
アンブロシアは、無心に、はきはきとこういったことを相手へ伝えることができた。
そして、アンブロシアは神と言う存在をよく理解していた。
「心次第よ、幸福なんてものは他所にはないのよ。神が何処にもいないように見えるのと同じ。そうよ、何処にもいらっしゃりはしないの、ここに
そう言ってアンブロシアは相手の手を取り相手の胸へ押し当てるのだった。
「お前は……お前でよい。私の[
レオンは真っ直ぐにアノスを見つめて言う。
そこに、アタナシオスとアンブロシアの姿を感じながら。
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