第33話 大切な日


「今日は来てくださって本当にありがとうございました」

「いやいやそんな、あかねちゃんもご苦労様。まだ若いのにしっかりしてて、きっとお母さんも喜んでいると思うよ」

「そう言っていただけると、嬉しいです。道中には気を付けてお帰りください」


 親戚一同の乗ったワゴン車が見えなくなるまで手を振って、最後のお見送りを終える。


 ふう、と息を吐いて、私は家に戻ると仏壇の前に座り、贈られた花を綺麗に揃えてお母さんの遺影に手を合わせた。


 な、なんとか滞りなく終わったわね。


 お母さんの命日には、親戚の人たちや、生前関わってくれた人たちが今でも我が家を訪れては線香を上げに来てくれる。


 それらの対応をしていたら、あっという間に夜になってしまった。


 けれど、まだ終わりじゃない。後片付けをしなくっちゃ。親戚の人たちが食事をしていった客間には、普段使っていない大きなテーブルを用意した。あれは、明日押し入れに放り込むとして、掃除機だけ先にかけちゃおう。


 ケーブルを引っ張って、コンセントを挿す。


 畳の目を縫うように掃除機をかけていると、ああ、本当に全部終わったんだなと思う。


 猫化も終わり、年に一度のお母さんの命日も無事終わらせることができた。安堵と同時にこみ上げてくるのは、ほんの少しの寂寥感。


 騒がしかった家から、だんだんと人がいなくなり、今では私がかけている掃除機の音だけが広い平屋に響いている。


 おばあちゃんは離れで寝ているだろうし、琥珀は何故か今日姿を見ていない。どうやら朝早くからどこかに出かけたようだけど。帰ってきたら怒ってやらないと。こんな大切な日に、いったい何をしてるんだか。


 掃除を終えて、私はその場に座り込んだ。


 ああ、お風呂も掃除しなきゃか。よっこらせと、腰をあげて浴室へ向かおうとした。


 すると、玄関のドアがガラッと開く音がした。


 まだ来客があったのかしら。


 私は慌てて玄関へと向かう。


 しかし、そこにいたのは来客でもなんでもなかった。


「どうも」


 あおだった。


 両手には紙袋を持っている。私服姿の蒼は、珍しくスカートを履いていた。あの、私が畳んであげた白いレースのスカートだ。


「どうしたの? こんな遅くに。あ、もしかして線香あげにきてくれたの?」

「それもありますけど」


 蒼は紙袋の中に手を入れる。


 次の瞬間、パン! と大きな音がして、一瞬ピストルでも撃たれたのかと思い私は後ろに飛び退いた。


「な、なに!?」

「ハッピーバースデー」

「はあ?」


 目の前で、虹色のビニールテープが雪のように降ってくる。


「だから、ハッピーバースデーです。先輩」

「ハッピーバースデーって……」


 一瞬、なんのことか分からなかった。


「先輩が言っていたんじゃないですか。お母さんの命日は、自分の誕生日でもあるって」

「言ったっけ?」

「言いました。大会の日に」

「あんた、記憶力いいのね」

「先輩が忘れっぽいんです」


 本当は、忘れてなどいなかった。けれど、お母さんの命日にはふさわしくない、祝うという文字を土に埋めていたのだ。


「あがってもいいですか?」

「え、ええ」


 蒼が突然私の家を訪れて、誕生日を祝ってくれている。状況を理解してはいても、まだ私は戸惑いを隠せなかった。


 さっきまで食事をしていた客間に案内すると、蒼は紙袋を床に置いて座布団の上にちょこんと正座した。


「手、大丈夫ですか?」

「平気よ。膿むかと思ったけど、もう治りかけてるわ」

「アカネはワクチンも受けていますし、外には滅多に出さないので変な病気とかは持っていないとは思いますが、一応医療機関に――」

「午前のうちに行ってきたわよ。心配しすぎ」

「そうですか」


 蒼は目を丸くしたままこっくりと頷くと、足をそわそわとさせた。それにしても、今日は随分かわいらしい格好をしている。服装もそうだけれど、今日は短い髪を後ろにちょこんと結んでいて、いつもより幼い印象を受ける。


「今日は誕生日ということで、先輩にプレゼントがあります」


 そう言うと、蒼は紙袋の中をごそごそと漁り始める。


 取り出したのは、赤い……ええと。


「なに? それ」

「ポーチ……のつもりなんですけど」


 取っ手が付いているのは分かるのだけど、その下が毛玉のようになっていてパッと見、犬のリードを収納するホルダーにしか見えなかった。


「もしかして、編んでくれたの?」


 こんな不格好なポーチが売っているはずがない。ということは、お手製ということになる。


「はい。正確には、私と、琥珀こはくで編みました」

「琥珀と?」


 蒼と琥珀が喋っているのは、前に一度見たことがある。だからある程度は仲が良いんだろうなとは思っていたけれど。


 蒼から手編みのポーチを受け取ると、驚くくらい軽かった。しかし、それと同じくらい、温かくもあった。


「琥珀に聞いたんです。お母さんが生前のときは、誕生日になると何か編み物をプレゼントしてくれていたのだと。そして、お母さんは先輩に最後のプレゼントを渡そうとしたけど、間に合わなかったのだとも」


 蒼の言う通りだ。お母さんが亡くなったあと、病室に置きっぱなしだったお母さんの私物が病院から送られてきた。その中には、編んでいる途中の……ああ、そういえばあれも、ポーチだった。


「だから、その作りかけだったポーチをプレゼントしようということになったのですけど、最初は琥珀だけで編む予定でした。でも、琥珀が想像以上に不器用で、針は刺せないわ毛はこんがらがるわで、琥珀の指が串刺しになる前に私も協力することにしたんです」


 そういえば、前に琥珀の指が傷だらけになっていたのを見たことがあった。あれは、今から一週間前くらいのことだったはずだ。そのときにはもう、蒼と琥珀は私へのプレゼントを計画していたということになる。


「といっても、私も編み物は苦手でして。そんな出来映えになってしまいました。すみません」

「謝ることなんかないわよ……」

「ちなみに、色は私が選びました。先輩には、その色が似合うと思って」


 蒼が選んだ色は、赤だった。蒼のお姉さんが使っていたグローブの色と同じ。


「それで、琥珀はどこに?」

「本来は一緒に渡そうということだったんですが、本人がどうしても恥ずかしいというので、私が先に先輩へ渡すことになったんです。琥珀は今、私の家にいて、もうじき来ると思います。実は、そのポーチ……もどきも作るのに結構ギリギリで、今日琥珀と急ピッチで編んで急いで完成させたんです」

「そうだったんだ……」


 だから、琥珀は朝から姿が見えなかったんだ。


「そっか……」


 ポーチをぎゅっと握る。柔らかい。まるで指先を、抱きしめられているかのようだ。


「あんたが、こんなことしてくれるなんてね」


 猫化しているときは、蒼も猫化を止めるためしょうがなく私に協力していた。だから、猫化が終わった今、蒼が私に関与する理由はまったくない。


 それなのに、どうしてこんなことをしてくれるのか分からなかった。


 蒼は、私の顔をジッと見ながら、それから意地の悪い笑みを浮かべる。


「先輩を泣かせたかったんです」

「はあ?」

「先輩、前に言っていましたよね。私が泣いているところを見たと」


 私が蒼の泣き顔を見たのは二回。猫化しているときと、アカネに見せられた夢の中だ。


「私、それがずっと許せなかったんです。なんで私だけ、先輩にそんな恥ずかしいところを見られているんだろうと」

「そ、それはしょうがないでしょう? 不可抗力よ。それに、あんたなんて泣き顔よりももっと恥ずかしいところ見られてるんだから、いいじゃない」

「下着とか、ですか?」


 しまった。自分で蒸し返してしまった。あのことはお互い忘れようって言ったはずなのに。


「ええ、そうですね。けど、あれはもう気にしていません」

「そうなの?」

「私も、先輩の恥ずかしいところはたくさん見ましたから。そう、あのときはここではなく、先輩の部屋でしたっけ」


 蒼に押し倒された、あの日のことを思い出す。確かにあれは、今までの人生で一番恥ずかしい……というか危うい瞬間だった。今になっても、あのときの光景がフラッシュバックすることがある。だって、あんなの……私が止めてなかったら絶対、続きしちゃってたじゃない。それを考えると、心臓がバクバクし始める。危機感と、それに起因する、鼓動を促すなにかが奥歯で弾けるのだ。


「だから、もうおあいこです。お互いに見てしまったのですから。けれど、泣き顔だけは、違います。私、まだ先輩が泣いているところを見たことがありません」

「人の泣き顔が見たいなんて悪趣味ね」

「先輩のだから、見たいんです」


 蒼が、真剣な眼差しで言う。


「以前、琥珀にどうすれば先輩を泣かせられるか聞いたんです。そしたら琥珀が言っていました。あなたは、お母さんが亡くなったあと、一度も泣いていないと。いいえ、お母さんが亡くなったときですら、泣かなかったと」


 それは、当然だ。私は琥珀のお姉ちゃんなんだから。私がめそめそしていたら、琥珀が不安になってしまう。琥珀を支えられるのは、もう私しかいないんだ。


「それを聞いたときは、なんて非道な人間なんだろうと思いました。お母さんが亡くなっても泣かないなんて、先輩には感情がないんだと。琥珀とずいぶん、あなたへの悪口で盛り上がりました」

「おいこら」

「でも、今はそうは思いません。先輩」


 蒼は仏壇の方を一瞥してから、私を正面から見据えた。


「本当は、泣きたいんじゃないですか」


 自分で引いた境界線に、土足で踏み込まれる。まるで、皮膜を失った心臓を、鷲づかみにされているような感覚だった。


「そんなことないわ、もちろんお母さんが亡くなったのは悲しいけれど、泣くよりもやるべきことはあるもの。それを優先していただけの話よ」

「分かります。私もお姉ちゃんが亡くなったあと、お姉ちゃんの分までソフトボールを頑張るんだって思って必死になっていました。そのときは、一ミリも涙が出ませんでした。亡霊に取り憑かれている間って、きっと涙は出ないんです」


 そうだ、私たちは、亡霊を追い、そして追われている。猫化を終えたあとでも唯一繋がる共通点は、そこだった。


「先輩は、お母さんが亡くなって、涙が一滴も出ないような人じゃないはずです。我慢しないでいいんです。悲しいときは、泣いていいんです」


 一瞬、目尻の奥に熱い物が通過して、塞ぎ込んでいたものが溢れ出しそうになった。けれど、私は天井からぶらさがる照明をじっと見上げて、網膜を乾燥させた。


「そんな、今さらじゃない? これまでずっと、格好いいお姉ちゃんでやってきたのに。ここで泣いたら、格好悪いじゃない」

「格好悪くなんてありません」

「なに? 格好悪くはないけど無様ではあります、って言いたいの?」

「いいえ」


 蒼はきっぱりと否定する。


「先輩は、格好いいです」


 一瞬、おちょくられているのかと思った。次の瞬間には「あーかっこいいかっこいい」とバカにするような感じで手を叩く蒼が現れると思っていた。


 けれど、そんな蒼はいつまで立っても出てこない。


 じっと私を見て、真剣な眼差しを送ってくるのだ。


「先輩は、琥珀にとっても、自慢のお姉ちゃんだと思います」

「そうかしら、琥珀ったら、いつも私に反抗的で……」

「愛情の裏返しです。それは、あなたも分かっているはずです」

「でも、私、まだまだ、お姉ちゃんとして、未熟だわ。すぐカッってなっちゃうし、喧嘩みたいになっちゃう」

「あ、自覚あったんですね」


 蒼がすっとぼけた顔をするので、思わず立ち上がりそうになる。


「それでも、素敵なお姉ちゃんだと思います」

「あんたに言われてもね……」

「曲がりなりにも、お姉ちゃんがいた私には分かります。断言できます。あなたは、きちんと姉という使命を全うしている。さっき、言いましたね。悲しむよりも優先することがあったから、泣いている暇などないのだと」

「言ったけれど……」

「あなたはもう、お姉ちゃんとしてやることはやったはずです。優先すべきことは、もうありません」

「でも、私は……」

「それに、先輩はひとつ、大切なことを忘れています」

「え?」

「あなたは姉である前に、娘じゃないですか。親が亡くなったら、ちゃんと悲しむ。それが娘として、優先すべきことではないですか」


 ずっと、お姉ちゃんとして私は生きてきた。琥珀のことを面倒みなきゃ、お母さんの代わりにちゃんとしなきゃってそればっかり考えていた。


 けど、そうだ。私は、お姉ちゃんである前に、お母さんの娘なんだ。お母さんに連れて行ってもらった遊園地、食べさせてもらったソフトクリーム、一緒にお風呂に入って、運動会に応援に来てもらって、一緒に制服の採寸にいって、教科書に名前を書いてもらって……。


 いろんな記憶が、噴水のように弾けた。


 土に埋めていたものが、雨によって削られ、露呈し、姿を現す。


「ここには私しかいませんから」


 それは、許しのような言葉だった。


 鎖を繋ぎ止めていた錠に鍵を差し込まれ、いっせいに解ける。


 一文字に閉めていた唇の輪郭が、波打つのが分かった。けれど、それを止めることはできない。


 眉間に熱いものが溜まる。それを自覚したのと同時に、大粒の涙がボロ、と頬を転がり落ちていった。


 悲しい、とは違うかもしれない。ただ、あのとき私の目から出るはずだったものが、埃を被って一斉に飛び出してくる。


 拭っても拭っても、涙は止まらなかった。せめて声は出さないようにと、口元を覆う。


 その間、蒼は何も言わなかった。ただずっと、そこにいてくれた。

 

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