第31話 追いかけろ!

 その瞬間、パッと視界が開けた。


 早朝にカーテンを開けたときのような温かい光が、いっぱいに広がる。


 気付くと、私はあおに押し倒されていた。


「も、戻った!」


 意識が鮮明に転がる。詰まっていたものが取り除かれたみたいに爽快だ。


 四肢も思うように動く。


「蒼! あんたやるじゃない!」


 私は蒼を抱きしめると、その頭を撫でてやった。


「ちょっ、わしゃわしゃしないでください」

「いいじゃないの! 私、あのままじゃ本当に猫になっちゃうところだったもの」


 今だから分かるけど、あれは本当にギリギリだった。あと数分。……いや、数秒遅かったら私の意識は底のない沼へ永遠に沈んでしまっていたに違いない。


「ちょっと、なんで逃げるのよ。よしよししてあげるから、その首私によこしなさい!」

「戦国武将みたいなこと言わないでください。いいから、離れてっ――」


 ベットの上で取っ組み合って、私たちはゴロゴロと床に転がり落ちる。


「ぐへえ!」


 背中を打った。


 猫と違って人間の身体は柔軟性がなさすぎる。


「って、アカネは!」


 なんとか人間に戻ってさあ安心、とはいかない。またアカネが、いつ私に悪さするのか分からない。


 私がさっきまでいたタワーの方に振り返ると、アカネは「うー」と呻りながら私たちを睨んでいた。


「ふふん! 残念だったわねアカネ! 蒼はあんたより、私のほうがいいみたいね!」

「あの、そこまでは言ってないんですけど」


 勝ち誇っている私を、恨めしそうに見るアカネ。


 このままひっ捕まえて、どんなお仕置きをしてやろうかと考えていたその瞬間!


 アカネがぴょんっと跳ねると僅かな窓の隙間に身体をくぐらせて外に飛び出してしまった!


「あ、アカネ!?」

「うわ! 外に逃げた1 どうすんのよあれ!」

「追い掛けるに決まってるじゃないですか! アカネ! アカネ!」


 蒼が慌てて部屋を出て、転がり落ちるみたいに階段を降りていく。その背中を私も追い掛けた。


 玄関で靴を履く。……あ! アカネのやつ、今日サンダルで来てるじゃない! もう!


「で、アカネはどこに行ったのよ!」

「知りません! でも追い掛けないと! このあたりは車の通りも多いですし……!」


 蒼の心配も分かる。以前もアカネは勝手に外に出て、あっちこっち歩き回っていたことがあったのだ。


「ちょっと待ってよ! 私、サンダルで……それに、三日ぶりに人間に戻ったばっかりなのよ!? もうちょっと余韻とか、あるでしょう!?」


 せっかく人間に戻って奇跡の復活を果たしたのに、蒼の矢印はもうアカネの方に向いてしまっている。


「愛しの先輩が戻ってきたのよ!? おかえりとか、会いたかったとかそういうのないの!?」

「そんなこと言ってる場合じゃないです! というか先輩、今すぐアカネと入れ替わってくださいよ! そうすれば見つけられるじゃないですか!」

「簡単に言わないでよ! 今回みたいにまた戻れなくなっちゃったらどうすればいいのよ!」


 そもそも、入れ替わりは私の意思ではコントロールできない。すべてはアカネの意思で入れ替わりが起きていた。


 そして、今はこうして人間のままでいられているということは、もうアカネからは入れ替わりを起こせないということになる。少なくとも、今は。


 十分くらい走り続けただろうか。下手な練習よりも全力で走った。


 さすがの蒼も疲れたのか、一度足を止め、呼吸を整えてから辺りを見渡した。


「アカネ! アカネー!」


 ここは、アカネが前回脱走したときに来た場所だ。


「ここにいないなら、もう……」


 手がかりもなにもない。こんな入り組んだ街の中を走り回る猫が、簡単に見つかるわけもなかった。


 蒼も行く当てがないのか、二の足を踏んでいた。


 アカネはいったい、どこに行ってしまったのだろう。ただ遊びに出たのとは訳が違う。さっき窓から逃げていったアカネは、どこか取り乱しているようではあった。ううん、どちらかというと、自暴自棄? 


 最近、失恋したばかりの私も、味わった感覚。


 人生の目的というものがすっかり欠け落ちて、目に映るすべてのものが灰色に見える。そんな感覚は、どこかへ逃げてしまいたいという衝動を呼び起こす。


 早く見つけないと、アカネが危ない……!


「みゃーお!」


 すると、近くで猫の声がした。一瞬アカネかと思って振り返るも、そこにいたのは太った黒猫だった。


「ぶみゃーお!」

「んみゃあ」

「うわ、いっぱい出てきた!」


 そして、黒猫が引き連れるかのように、計五匹の猫たちが私の足元に集まってくる。


「先輩、マタタビでも付けてきたんですか?」

「んなわけないでしょ……」


 でも、どうして急に猫が私のとこに集まり出したのだろう。


 って、あ!


 こいつら、私がアカネと入れ替わってるときボコボコに返り討ちにしてやった、あのヤンキー猫じゃない!


「あんたたち、私のことが分かるの?」

「ぶみ」


 ボスらしき黒猫が答える。


 そっか、さっきアカネが言っていた。猫は魂を見るって。


 だからこいつらも、姿は違ったとしても、私があのときの猫だって分かってるんだ。


「蒼! 言い考えがあるわ」

「なんですか? まさかその猫たちを引き連れてアカネを探すとても?」

「その通りよ! 蒼、アカネのにおいとか、着いてるものとかない?」

「えっと……」


 蒼がポケットに入れる。けれど、急に言われてそんなものが出てくるわけもない。


 うーんと二人して唸っていると、ちょうど蒼の首筋にアカネの毛がついているのが見えた。


 そっか、さっきアカネが出て行ったとき、蒼の首元を踏んで出て行ったから……!


「蒼、ちょっとそれ貸して!」

「な、なんですか!? あ、ちょっ、先輩! どこ触って……」


 いきなり首筋を触られて、蒼が目を丸くする。 


「さあヤンキーたち! これを嗅いで! このにおいの主を探すのよ!」

「犬じゃないんだし、そんなことできますかね、変態」

「猫って嗅覚がいいのよ。それは私が身を以て分かってる。あと先輩が変態になってるわよ」


 ヤンキー猫たちは私の指先にぞろぞろと集まってきて、鼻先を近づける。


「ぶみゃーお!」


 黒猫がひとたび鳴くと、他のヤンキー猫たちが一斉に散っていった。


「よし、これであいつらがアカネを探してくれるはずよ」


 あとはヤンキー猫たちの進捗を待つしかない。


 蒼と二人で、もう使われていない駐車場のコンクリートに座りこんだ。


 向こうに見える茂みから、ふいに出てこないかしら。蒼も同じことを考えいたようで、茂みをジッと見つめていた。


「あの猫たち、なんなんですか?」

「ああ、あれ? 前に私がアカネと入れ替わってるときにボコボコにしてやったら何故か主従関係ができちゃってたみたい、動物って単純よね」

「もしかして、アカネが脱走したときですか?」

「そうね、右耳だけかじられちゃったけど。アカネには申し訳ないことをしたわ」


 逃げるのが最善だったように思うけど、でも、背中は向けたくなかった。当然だ。なんで私が猫なんかに舐められなきゃならないのよ。


「耳もね、この裏にある川に落ちてたのよ。運良く岩陰に引っかかってたの」

「だからあのとき、あんなにびしょ濡れだったんですね」

「案外川の流れって強いのね。今度から気を付けなくっちゃ」

「まあでも、自分の責任を自分で取れたわけですから、よかったじゃないですか」

「はあ? どういうこと?」

「だって、先輩があんな必死に耳を取りにいったのって、入れ替わってる手前、わざわざ喧嘩して耳をかじられてしまった罪悪感からなんじゃないんですか?」


 呆けたことを蒼が言うものだから、私は大きなため息を吐いてしまった。


「そんなんじゃないわよ」

「じゃあなんで、あんなびしょ濡れになりながら耳を取りにいったんですか? お世辞ですけど、先輩はそういう責任というものに関してはしっかりしているイメージなので」

「はっきりとお世辞ですけどって言うんじゃないわよ。それは、あれよ」


 蒼が隣から、私の顔を覗き込むように見てくる。


 身体を前傾させた拍子に、二の腕同士がぶつかった。蒼と私の体温が、混ざり合うように、ゆるやかに熱くなっていく。


「あんたが、泣いてたから」

「……それだけですか?」


 その熱が、顔の方にまであがってきた、私は蒼から目を逸らした。


 別に、嘘を言っているわけでもなければ、後ろめたいことでもない。それなのに、どうしてこんなにも恥ずかしいのだろう。


 蒼は自分の膝を抱くと、コンクリートのヒビから生えた雑草に視線を落として静かに答えた。


「そうですか」


 膝に顔が埋まっているせいで、表情がよく見えない。


 ちょっとだけ嬉しそうなのは、私の気のせいだろうか……。


「んにゃーあ!」


 そんな話をしていたときだった。


 一匹の猫が、物陰からぴょこっと顔を出して私の前をくるっと回った。


「蒼! アカネ、見つかったって!」

「えっ、なんで普通に猫と会話してるんですか」

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