第16話 相合わぬ傘

 梅雨が明けたというのに、午後になるとふたたび土砂降りの雨模様となった。


 校内でのトレーニングを終えて、それぞれが下校するなか、階段の踊り場であおの背中を見つけて声をかける。


「うわ、なにその荷物」


 蒼は両手にいっぱいの紙袋や手提げ袋を抱えていた。


「美術の課題品と、溜まったプリント類、それから持って帰り忘れた体操服とグローブとスパイクとバットです」

「あんたね、終業式帰りの小学生じゃないんだから」


 蒼は今にも倒れそうなくらいグラついていた。


「そうだ、蒼。あんたにプレゼントがあるわ」

「プレゼント?」


 肩にかけたエナメルバッグをギチギチと鳴らしながら、蒼が振り返る。


「同じクラスの友達からなんだけどね。これ」


 『ニャルベロスの冒険 ピーナッツ島の呪い』を見せると、蒼は目をビー玉みたいに丸くした。


「これ、絶版の……」

「友達も、たまたま手に入れたんだって。でも、ニャルベロスの冒険を好きな後輩がいるって話したら、あんたにあげるって言ってくれたの。超絶レアな本だって分かっていながら譲ってくれたんだから。あとで連絡先教えるから、ちゃんと感謝しておきなさい」

「します、感謝します。します」


 蒼は珍しく素直に頷いた。……十回くらい頷いた。


 本を紙袋にしまって、蒼のどの部分に放り込もうか考えた。しかし、蒼は歴戦の戦士みたいに、持てるものを全部持っているせいで、紙袋をかける場所すらなかった。あいにく、私のカバンも今日は埋まってしまっている。


 手提げ袋の隙間に入れるのも手だけど、これは翠からの大切な贈り物なのだ。折れてしまっては申し訳がない。


「しょうがない。途中まで持ってあげるから」

「雨、降ってます」

「傘さすから」

「絶対、濡らさないでください」

「分かってるって」


 玄関まで向かう途中、蒼はずっとそわそわとしていた。早足で私を置いていったかと思うと、バッとこちらを振り返ってその場で足踏みをする。


 蒼は傘を器用に首で挟んでさしていた。片方の肩が濡れてしまっているので私のさしている傘の面積を半分貸すと「私のことはいいのでニャルちゃんを守ってください」と怒られた。ニャルちゃんて。


「シャンプーのお礼、ですか?」


 傘に守られている紙袋を見ながら、蒼がそんなことを言う。


「あのね、さっきも言ったけどこれは翠っていう友達からあんたへのプレゼントってことで譲り受けたものなの。人からもらったものでお礼なんてするわけないでしょ」

「よく、私が『ニャルベロスの冒険』を好きなこと知っていましたね」

「ま、前に見たのよ。本棚にあるの」

「泊まったときにですか? 普通そこまで覚えていますかね」


 蒼の疑惑の視線が突き刺さる。ま、まずい……!


「あんたがどういう本持ってるか気になって、あの夜ずっと見ていたの!」

「……いやらしい」

「だ、だから違うって言ってるでしょ!? だいたい、私はあんたがどんなエロ本を持ってようと――!」


 自分で言っておいて失言だとすぐに気付いた。墓穴を掘りに掘ってトンネルが開通しそうだ。


 しかし、慌てて言い直そうとしたそのとき一台の車が私たちの横を通り抜けていって、水溜まりを思い切りはねたのだ!


「危ない!」


 避けられない。そう思った次の瞬間、蒼が私の前に立ちはだかって、はねられた水を全身で受け止めた。


 蒼の髪からはポタポタと水滴が垂れ、シャツは下着が透けるほどずぶ濡れになっていた。


 蒼……あんた、私を庇って……!


「ニャルちゃんは!?」


 ですよね!?


 知ってた、知ってたわよ。


「大丈夫、濡れてないわ」


 シミ一つ付いていない紙袋を見せると、蒼はホッと息を吐いた。


 反対に、蒼の持っていた手提げや、美術の授業で作ったという品は完全に濡れてしまっていた。靴にも水が浸水したようで、蒼が足踏みするたびにグッチャグッチャと音が鳴る。


 そうだあの車!


 ばっと振り返るも、すでに車は走り去ってしまっていた。


「ニャルちゃんが無事ならそれでいいです」


 蒼は自分が濡れたことなんか少しも気にしていなかった。


 本人がいいのなら、それでいい。なんて言えるほど、私は白状ではない。


 そもそも、私がちゃんと避けられていればこんなことにはならなかった。それに、間接的にとはいえ、私が蒼に守ってもらったことには変わらないのだ。


「あんた、今日早く帰らなきゃいけない用事とかある?」

「いえ、ないですけど」

「なら、うちに寄っていきなさい。帰り道でしょう?」

「そうですけど。まさか、よからぬことを考えているんじゃ……」

「ばか、そんなに濡れたら風邪引くでしょ? 着替え貸してあげるから、せめてシャワー浴びてから帰りなさい。それに荷物も多過ぎ。明日取りに来ていいから、ちょっとは置いていきなさいよ」

「別に、先輩にそこまでしてもらうわけには……」


 そういって蒼が歩き出す。靴がびちゃあっと嫌な音を立てる。


 眉間にシワを寄せた蒼が、じっと自分のつま先を見つめてから、心底嫌そうに私に視線を移した。


「……タオルだけ借ります」

「ええ、お風呂ならすぐ沸くから安心しなさい」

「人の話聞いてるんですか? だからタオルだけ――」


 話している間にも、車は私たちの横をどんどん通り過ぎていく。


 いつまた水をぶっかけられても分からないこの状況で、蒼は私の持つ紙袋、翠からもらった『ニャルベロスの冒険 ピーナッツ島の呪い』を見つめて、深く息を吐く。


「分かりました。お願いします」

「とりあえず、まだちょっと歩くから。傘さしなさい」


 落ちていた傘を拾って、蒼の首に添える。蒼はそれを、挟むように首を傾げた。


 家に向かって歩き出すと、ばっしゃばっしゃという足音が遅れて付いてくる。


 そんなわけで、蒼を私の家まで連れて行くこてにした。


 けど、私は忘れていたのだ。


 ここのところ、ずっと気になっていた、あの違和感を。

     

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