Episode 17 / 広がり

 ジェスターは今日も仕事に出かけた。昨日みたいな物騒なこともなく、街の見回りをするようだった。私は彼に渡された手帳に、黙々とこれまでのことを書いていた。紙をペンが擦る音も心地よくて好きだ。見返した時も絶対見るであろうところは、文字が太くなっている。魔法ってよく分からない。あの病院の先生にもっと教えてもらえばよかった。この手帳持ってまたいろいろ聞いてみたい。


 鳥のさえずりや、外で誰かが花に水をやる音が聞こえる昼間。明るい日差しで部屋が温まっていた。そこに、玄関のドアを叩く音がコンコンと鳴った。羽根ペンをそっと置き、息をためる。窓を見に行く。車は無い。音もしなかった。ジェスターじゃない。私がここは迎えるしかないのか。ぜんぜん知らない人だったら……分かりませんとだけ言えばなんとかなりそうだ。


 髪をとかしながら、ゆっくりと玄関に向かう。何回もノックしている。その度自分の喉が上がってくる。下唇を噛みながら、長く見える廊下を進んでいると、外にいる誰かが喋った。

「すみません誰かいませんかー」

 すこし鼻にかかったような男の子の声だ。こもっているが、私にはベルジの聲の形にしか聞こえず。途端に足の枷が外れたように体が軽くなった気がした。玄関のドアノブに手を当てて開く。三段ある石の階段の下に、小さく見えるのはやはりベルジだった。

「ベルジくん……?」

「や、やあアヴァ。……どう?調子」

「調子って――良い?良くない?うーん、普通?」

「そ、そうか、それは、うん、良かった」

 昨日に比べたらまだ今日は寂しくなかった。ジェスターも四区には今日は出向かないと言っていた。でも完全に寂しさは消えていなかったのだろう、彼が来てくれて私は何かしてあげたいと思った。カフェでも全然話せなかった。せっかく話せる人なんだから、と私は思うままに言葉を投げてみる。

「あの、ベルジくん、紅茶どうかな?」

「え、ああ、いいのか?……ジェスターに教えられたのか?ははは」

 ベルジは鼻をいじりながらそう言って、階段を笑みを浮かべながら上がってきた。彼が入れるようにドアをめいっぱい開けたが、足が玄関にさしかかろうとした瞬間、勢いよく音を立ててドアが閉まってしまった。

「え!?待って私じゃないの、ごめん!あれ?ちょっと……」

「いつもなんだよ、俺が入ろうとするとさ」

「嫌われてる……の?」

「いいから説得してくれよー」

「そんなこと言われても……ねえお願い入れてあげて?」

 ドアにおでこを当てて手で擦りながら、私はお願いした。すると、渋々従うかのように動き出す。外の光がまた入ってくる。本当に生きているみたいだ。

「アヴァはこんなことなかったのか?」

「私は……無かったけど」

「そうなんだ?……あ」

 ドアはまた音を立てて締まった。


 その後数回、同じようにお願いをし続けると、ベルジはやっと家に入ることが出来た。彼が玄関に足を踏み入れた瞬間、廊下のランプが威嚇するように点滅した。この家全体が彼を睨みつけている。

「ベルジくん、大丈夫?」

「なにが?」

「なにって、ベルジくんが来てから家がおかしいの」

「俺いろいろやんちゃしたからかな昔」

「やんちゃ……?」

 まあまあ、と誤魔化すように笑いながら彼は靴を整えて立ち上がった。相変わらず目を合わせないままに、一緒にリビングに向かった。彼は「お邪魔しまーす」と言いながら、部屋を見渡していた。紅茶はどう、とか咄嗟に思い付きで言ってみたものの、私はおいしい紅茶を自分で煎れたことがないことに、ずらりと並んだ瓶を見てふしふしと嫌になってきた。ただでさえ歓迎されていないような彼に、今度はひどい味の紅茶を出してしまうなんて。


「ベ、ベルジくん好きなのあるかな……?」

「え、ああそうだった。紅茶かぁ、俺あんまり飲まないけど、アヴァが煎れてくれるなら」

 どうしよう、どうやって彼の口に合うのを当てればいいんだろう。ジェスターはいつもどれを使ってるんだったか、ああ、もっとわかりやすいようにラベルを色分けとか付箋でもいいから貼っておいて欲しい。

「ねえ、ポノロエの紅茶、どう思う?」

「ポノロエ……ああ、あの変な味の!クセ強いんだよ、紅茶もだけどあの国もね」

「だよね、変な味……!」

 彼も飲んだことがあるみたいで、なぜだか嬉しくなった。私と同じことを経験した人がほかにもいるんだと。周りから驚かれるばかりで、ジェスターやベルジがいたとしても、どこか常にひとりぼっちな感覚があったのだ。はじめて、このネーベという街で私は暮らしているんだと思った。


 それはそうと、選ばないと。彼はずっと待っている。秒針の音の間隔はこれほど速かったか。

「ア、アヴァ?」

「ごめんね……!ごめんね、私、まだ……!」

「あぁ……。じ、じゃあ、ルネの煎れてくれないか。ルネのはおいしいよ」

「ルネ?ル――あった、これね」

 瞬きが止まらない。ラベルの文字も指で追わないと読めなかった。これでいいのか?これでいいんだ。なぜなら彼がそう言ったから。大丈夫だ。何も余計なことを考えないよう、ポットを使って無心でお湯をそそぐ。湯気がかかってきても声を我慢した。二人分そそぐとちょうど、ポットに入れてあった球が震えて、蒸気が小刻みに吹いた。

 スプーンでかき混ぜると、少し渋みも感じるがフルーティーで上品な香りが、ふんわりと漂った。「お、そうそうこれこれ」とベルジが向こうで言っている。その一言が肩を上げていた糸を切った。


 コースターと一緒にテーブルへそっと置くと、はじめて私の目を見て「ありがとう」と言ってくれた。紅茶の香りも相まって、爽やかな気もちだ。あんなにぐだぐだと悩んでいたのが馬鹿みたいで、最初から聞けばよかったじゃないかと思う。彼の隣に私の分を置いて座る。彼はなぜか申し訳なさそうに、椅子を微妙に右へずらしながら、ティーカップを口に運んだ。「あちっ」と彼が小声でつぶやく。「今煎れたんだよ?」と、つい笑いながら私は言った。出会った時はあんなに威勢が良くて頼もしい感じだったのに、紅茶を飲む時は全く違うものだから、それが面白かった。


 ベルジに頼まれて煎れたこの紅茶は、とんでもなく美味しかった。口に含むと濃厚な甘みが広がって、マスカットかブドウか、その類の風味も混じっている。ベルジはいつものジェスターのように、満足げな顔でスッと飲んでいる。私はどんな顔をしているだろう。ホッとしすぎてしょうがない。やっと好きな紅茶を見つけられた。自分一人じゃまだだけれど、彼の好きな味も知れて、これはこれで良かったと思う。お風呂に浸かっている時みたいに温かい。

「ありがとうベルジくん」

「え?なに、俺なにかしたっけ……?」

「紅茶。私まだ美味しいの見つけてなかったの」

「あ、そう、なんだ。よかったな、見つけられて。ルネのは間違いないよ」

「ベルジくんも、紅茶よく飲むの?ジェスターみたいに」

「いや?俺は……そんなに。でも結構飲まされた……。そん中では、ルネが一番だった」

「ふふ、仲良いんだね、やっぱり」

 初めてジェスターと会った時。四区から三区に向かっている最中、彼ら二人が歩きながら話したり、合図をしたりしているのをずっと見ながら感じていた。心の底から二人は信頼しているように見えたのだ。ジェスターはちょっと乱暴なこともあったけれど、それも彼の緊張がほどけているからだろうと思う。ベルジは堅くなっているけれど、顔を見て話していたし、何より流れるように喋っていた。カフェではジェスターはあまり口を挟まなかったが、出た後のやり取りも覚えている。

「まずいの煎れられたりしなかった?紅茶」

 ベルジはスプーンを触って、暖炉の方を見ながら言った。

「そんなこと、ないよ。自分の好きを見つけていけって言われて、いつも自分で選ぶの。いつも不味いの選んじゃうんだけど、ジェスターもいっしょに飲んでくれる」

「なんだやっぱ女の子にだけは優しいんだなー、あのおじさん。俺いっつもいじられるよ」

 彼は首を傾けて苦笑いしながら一口。

「そうかな?そんなこと、ない気するよ?」

「ほんとに?」

「ジェスターとベルジくん見てるとさ、やっぱり、なんていうの、距離?感じるんだよね……」

「ん?」

 彼は肘をテーブルに乗せて、前かがみになった。椅子を引いた。服の擦れる音が近く聞こえる。一口飲む。少しだけ渋みが増したような。舌で味を転がしながら、何と言えばいいか言葉を探す。

「ジェスターは優しいよ、とってもいい人。だけど、うん。あんまり本音で話せそうにないって言うか?なんだろうね」

 ジェスターは嘘はつかないと言ってくれた。でも決定的に隠していることは実際にあった。あの指輪に触れて見えてしまったものが本当かは分からないが、彼に家族のことや昔のことを聞くと顔つきが変わるのだ。眉間にしわを寄せて、口を閉じて、いつもため息をする。 比べてベルジを前にした今、この話しやすさが奇妙に感じている。

「ここにいんのキツイってこと?」

「ちがうちがう、そういうことじゃない。……ベルジくんに話す感じで、話せないだけ」

「い、いや、なんだよそれ、褒めてる?」

「私褒めた?」

「……ま、まあ、俺も似たこと思ってる……。アヴァみたいに話せる人、いないんだ。面白いって言ってくれたの、うれしかった。あぁ、何言ってんだ?俺。ごめん、変なこと言った」

 私はそれを聞いて、なんだか可笑しくて笑ってしまった。本当に、出会った時の彼とは大違いすぎて。たまらなく面白かった。

「ふふ、ベルジくん初めて会った時、すっごい怖かったのに。似合ってないこと言うね」

「いやあれは、あれは、違うんだ聞いてよ、訳があって……」

「いいの、聞きたくない」

「え……」

「どうせ良くないことでしょ?今は嫌」

「あぁ、そう……」

 二人揃って紅茶を飲み干して、「ふう」と息を吐きながら椅子にもたれかかった。ベルジは力を抜いてどんどん沈んでいく。彼はどこか疲れているようだった。

「ベルジくん、どうしてここ来たの?」

「え?ええーっと、ジェスターさんに、言いたいことあったんだけど、アヴァしかいなかったっていうか――」

 また鼻筋をいじりながら彼はそう言った。お昼を食べたら今日はひとりで家の周りを歩き回ってみようと考えていたが、彼は来てくれるだろうか。ジェスターに用があるみたいだけど、今日も夕方まで帰らないようだった。朝に渡されたコンパスも、ちゃんと動いてくれるのか心配だ。

「今日ね、外歩いてみようかなって考えてたんだけど……ベルジくんもどう?」

「え、いいのか?いいのか……?ううん、行くよ俺も」

 彼の反応はあのドアくらい明らかだった。そして、たったひとりで動くことがこんなにも難しいということを実感した。頼れる誰かがそばにいると、つい声をかけて、どうにかしようとしてしまう。これも、"分かっていること"が増えたら変われるだろうか。ベルジはひとりで歩くのは、どうして怖くないのだろう。いや、あの時の彼は――怖がっていた?やっぱりみんな、ひとりは怖い?どうあるべきなのか、私にはまだ全然分からない。

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