Episode 15 / 優しい魔法と私
日が暮れてきても、ジェスターは帰ってこなかった。私はマルと遊んで、気を紛らわせていた。
猫に表情なんて無いものだと勝手に思っていたけれど、そんなことはなかった。おもちゃを少し遠くに置いてそっぽを向くだけで、どことなく哀愁を帯びた目でじっと見つめてくる。そのたびに、仕方ないな、とまた遊ぶ。これの繰り返し。けれど退屈ではなかった。ひとりきりではなかったからだ。
黒い箱はつけっぱなしにして、音も鳴らしっぱなしにしていた。音のしない時間が、まだ少し怖かった。沢山の声を聞いて分かったことのひとつは、どうやらこれはテレビというらしいこと。
ソファで丸くなって、偶然か誰かの劇が繰り広げられていた。じっと見ていると、いろんなことを考えさせられる。家族愛をテーマにした話だった。父親に反感を覚えて家出した少年が、実は家族に必死に探されていて、どちらも行き過ぎた行動を謝る。後半になるにつれ、心が少しずつ通じ合っていって、暗い展開がゆっくりと減っていく。
私とは無縁の物語のはずなのに、妙に心に残っている。過去に縛られすぎず、それでも背中で背負いながら生きている感じが、ジェスターの姿とどこか響いているのかもしれない。それと、もしかしたら自分は家出でもしたんじゃないかという空想が浮かんだ。それなら、迷子になったことも、今のところは他の何よりも説得力がありそうだ。あの劇のように、嫌気が限界にまで達した自分は、あの危険な四区に入ってしまった。何度も考えるうちに、本当に私がそんなことをするのか怪しくなってきた。そもそも考えうる可能性が多すぎるから、こんな自分の事が嫌いになりそうな予想は、一度頭から振り払うことにした。
お腹が空いてきて、籠に入ったパンを手に取る。それを見た瞬間、あの金属の道具を思い出した。意外と軽くて、音だけは大きい。金網がガシャンと鳴る。仕組みは本当に単純で、あの火を入れておくスペースがあるだけ。
指を振ったり、手を思い切り広げたり、「点いて!」とお願いするみたいに持ち上げたり。火を想像しながらやっているはずなのに、やっぱりうまくいかない。肩を落として、冷たくて噛み心地の悪いまま、ちょっとずつ食べた。
秒針の音に合わせるみたいに足を振り子のように動かしながら、どれくらい経っただろう。テレビでは、ずっとよく分からない絵が動いていた。絵なのにちゃんと動いて見える。人に見えるし、喋っている。足音もする。
テレビって、不思議。腕に頭を乗せて、じっと画面を見続けた。
帰ってこない。時計を見る。帰ってこない。窓の外を見る。帰ってこない。
いよいよ街灯が灯り始めている。このまま寝てしまおうか、とさえ思い始めた。
玄関の方で、何かがぶつかる音がした。息を飲んで耳をすます。コツコツとつつく音、軋む音。ドアが開いたと、すぐ分かった。呼吸のリズムがうまく取れなくなってくる。
駆け出していた。それを見て、誰かの帰りを待つ気持ちが、ようやく分かった。背中に積もっていた重荷が、一気に落ちていくような感覚はなんなのだろう。
ジェスターが微笑みながら「ただいま」と言った。
心底、分からない。彼にはあんな過去があるのに、私にはこうしてずっと笑いかけてくれるし、励ましてくれる。テレビからは物騒なニュースが流れていて、それと彼は密接に関わっているみたいなのに。
心配していたし、ひとりは怖くて、退屈で、耐えがたかった。そんな気持ちがごちゃ混ぜになって、私はジェスターに思わず飛びついた。
「おいおい、大丈夫か?」
「こっちの台詞」
ジェスターのコートにうずくまって、こもった声のまま返す。煙草の臭いは、不思議と気にならなかった。
目の辺りが熱くて、自分の顔がどうなっているのか分からない。顔をずっと、彼のコートで隠した。
「……おそいし、暗いし、火使えないし」
「いつも帰りはこれぐらいなんだ。今日は緊急だったけど、いろいろあって……。まあ、よくがんばったな」
ぎゅっと掴んでいたところが、極端に冷たくて硬くなっていると思えば、コートの一部を凍らせていた。こっそりと手ではらっておく。
あまりに泣いてしまうと、またあの恐ろしい氷が出てしまうかもしれない。深呼吸をして、自分を落ち着かせる。顔を上げると、コートに自分の目の位置がくっきり分かるくらいのシミができていた。
「はあ、クタクタだ。飯にしよう。お、テレビ見てたのか。よく分かったな」
ジェスターはキャビネットの隣に荷物を下ろし、肩をぐるりと回しながら部屋の中を歩く。彼がいるだけで、家の雰囲気が模様替えしたみたいになる。暖炉に火を灯すと、部屋の空気が柔らかく変わるのと同じ。
白い縦長の、背伸びをしても届かないくらい高い箱を開け、キッチンに食材を並べ始めた。これはたしか、冷蔵庫。テレビで見た。食べ物がダメにならないように冷やしておく家具だ。
「今日は肉だ。お前も料理やってみるか」
「う、え、うーん。できるのかな。火、出せないよ?」
「いいか、よーく見とけ」
ジェスターが指を鳴らして、小さな火の玉をいとも簡単に出してみせた。あんなに頑張っても出なかったのに。
「よく見てろ。火がどんな感じか覚えるんだ。形、温度、色。これを見て、何を感じる? 何が浮かぶ? 考えながら、よく見るんだ」
「よく、よくね……」
形――松明の先端みたいで、枯葉がいくつも重なってできた玉みたい。
温度――温かい。手に乗せられるくらい。お風呂と同じくらい。からだ中がじんとほぐれる、あの感じ。
色――夕焼け。火といえばベルジも思い出す。部屋の明かりもそうかもしれない。
これを見ると――安心する。そばに誰かがいてくれている気持ちになる。それと、ジェスターの抱えている、かけがえのないもの。消えかけで、雲に邪魔されても、最後まで諦めない太陽。カフェの中の灯りも、きっとこんな色だった。
「綺麗な音なんて出さなくていい。指を鳴らすなんて、正直カッコつけなんだ。握りこぶしを作って」
考えたことを、頭の中で何度も反復しながら、ゆっくりと拳を握る。
「小さな火の玉が自分の手のひらにあるのを想像するんだ。俺から見ても、マルから見ても、お前が火の玉を出してるって分かるくらいな。身の回りのものにお願いしながら、手を広げるんだ」
ジェスターから見ても、マルから見ても?
他人から見た私が火の玉を出しているところを、想像すればいいのだろうか。鏡で見た自分の姿を、できるだけはっきり思い出す。
手を前に出して、家そのものにお願いするように、握りこぶしをゆっくりと開いた。
この火は、料理のために使います。まだ私は自信がありません。周りに危害を加えないように、料理をするまではお風呂くらいの温かさを保ってください――。
奇妙な願い事だと思いながらも、私は手のひらを見た。
小さな火の玉が、そこに乗っていた。
あまりにも信じられなくて、このあとどうしたらいいのかが分からなくなる。手の震えと一緒に、網がほどけるみたいに火は消えてしまった。
「消えちゃった……」
「いやいや、すごいことだ。まさかほんとに出るとは思ってなかった」
「何がダメだった?」
「あんまり気をそらしちゃダメだな。火は俺がつける」
ジェスターは、今度は私の顔を見ながら、また火の玉を出してみせた。練習を続けて慣れることが大事なんだと思う。
コンロに火がつき、フライパンの上に肉が乗る。油が地面を叩く雨粒みたいに飛び跳ねる。軽石をめちゃくちゃにかき混ぜているみたいな音にも聞こえるし、叫んでいるようにも聞こえる。でも耳障りではなく、ジェスターが調味料をかけていくたびに、食欲を引き寄せてくる。
食卓は、これまでで一番豪華に見えた。ボウルに盛られたカラフルで宝石箱みたいなサラダと、ちょうどいい焼き加減の肉は、ナイフの刃がスッと沈んで、スポンジから出てくる水みたいに肉汁が溢れた。スパイシーな香りのスープ。それと、いつもの紅茶。テレビでこんな場面を見た気がする。
「野菜いっぱい食べてもいい?」
「おん、どんどん食べな」
たしか野菜は体にいいはずだ。ジェスターより多めにサラダを盛り付ける。鏡を見るたびに気になる肌荒れは、偏った食事とかストレスとか、いろんなものが絡んでいるらしい。しばらくは髪を結べないくらい目立っているけれど、ジェスターに相談することでもない気がしていた。
テレビって本当にすごい。目次や索引から能動的に探ることはできない代わりに、音も画面も一緒にやって来る。その場で経験したみたいな気にもなれる、ちょっと変わった百科事典みたいだ。
「ドレッシングですごい違うね!」
「野菜自体あんま味無いからな?」
「そんなことないよ、ほら、じゃがいもとか……人参とか、ちゃんと味ある」
「キャベツとレタス。何が違うんだっけ?」
「んー……」
「俺もあんま分かってない」
「気になるじゃん……」
「冗談だよ。全然違うぞ?今度買ってくる」
小さく切った肉も、火が通っていてしっかりと焼けていた。柔らかくて、とろける口当たり。今日はお腹いっぱいに食べられそうだ。やっぱり誰かと一緒に食べると、違うものがある。
「実はお前のことも結構やってたんだが――」
サラダを半分食べたところで、ジェスターは気難しそうに言った。
「なにかわかった?」
「まずどこにも、ないんだ。クラリオネっていう家が見つからなかった。だから今度はルネを調査してもらってる。お前はたぶん、ネーベの人間じゃないんだ」
「……え?」
フォークを持った手から力が抜けた。
「つっても、家が無い以上、この街に元から住んでないとしか言いようがない。四区は、何が起きてもおかしくない場所だ。ルネも違ったら……すまないが、もう分からない」
彼は、とても残念そうだった。腕をさすりながら、うつむいている。
よく見ると、袖のあたりの布がひどく破れていて、皮膚の赤い線が覗いていた。朝はそんな傷はなかった。今日の仕事でついたものだろう。
「それ……」
「ああ、これか?気にするな。大したあれじゃない」
また、平気そうな顔をする。
正直に言ってくれてもいいのに。彼が私のために動いてくれるように、私も何かしてあげたい。なのに、ぜんぶ自分だけで背負おうとしている。間違いだとは言わないけれど、私以上に苦しい思いをするのは、違う気がする。
「ね、言いにくいんだけど……」
「どうした?」
「私のこと、もう調べなくていいよっていうか……。お父さんお母さんの方が私より偉いはずだし、迎えに来てくれるの、待ってようかなって、思うんだけど……」
右手で左手の親指をいじりながら、言葉を出した。自分でも何を言っているのか、少し分からなくなる。彼の顔は見られなかった。
サラダの苦みが、さっきより増している。舌を口の上につけながら、彼の返事を待つ。時計の進む速さは、こんなに遅かっただろうか。ここまで自分のために尽くしてくれた彼にこんなことを言うのは正しかったのか。
「……子供が一人であそこにいるのはあり得ないんだ。入るには必ず検問所を通らないといけないし」
「そんな……そんな四区ってなんなの?ただ事故が起きた所ってわけじゃないんでしょ」
彼のおでこのしわが上がって固まった。皿に向いた顔をゆっくりこっちへ向けている。
「アヴァ……あれは――」
「怒ってないから」
「待て待て」
「なに?」
「あーっと……。ああ、そうだ。爆発事故なんてもんじゃない」
「嘘はつかないって」
「すまない。お前をこれ以上不安な気持ちにしたくなかったんだ、ただ」
「……私は隠される方が、嫌かも」
スプーンでスープを掬っては落とすのをただ繰り返した。振り子みたいに動かす自分の足が、横にも揺れ始めたのが分かる。私は口を尖らせていた。彼と目も合わせられなかった。一瞬だけどんな顔をしているのかを見てみるが、彼もうつむいていた。
「し、正直に言うと、むかし突然、あんなことになったんだ」
「なにそれ……」
「本当だ。これ以上もこれ以下もない。誰もその瞬間を見てない」
夕陽を一緒に見たあの時よりも弱気な、指輪の奥で聞いたような声だった。まくってあった袖を、まくるフリを続けた。
「テレビで、見たの」
「……はは、そういうことか。参ったな」
「あんなの信じられない。どうなってるの?」
「俺もあんまり分かってない」
「ほんと?」
「本当だ。だから何が起きてもおかしくない場所なんだ。俺たちの直感が、あそこだけ裏切られる。お前だってそうだ。服にあるのが本当にお前の名前かもわからない。正直、手がかりが少なすぎる。親が来るのを待つしかもう手はない。ルネと病院のカルテ、それからも分からないようなら、そう提案するつもりだった」
「う――わ、あたしは、アヴァで、いいんだよね……?」
ジェスターはスプーンで何度もスープをつついていた。アヴァという名前が、服にただ書いてあっただけだということを、彼の言葉で突きつけられた。それしかないのに、それも違うのだとしたら、私がどう動いたって昔のことなんか分かるようになるはずない。
「あ、ああ、お前はアヴァだ。それで生きてる。はあ、俺もよく考えてるけど、分からないんだ。すまない」
私は紅茶のカップを両手で包んで、口元に運んだ。妙に、手を温めたくなったから。
「記憶は記憶だから、何かの拍子にパッと出てくるかもしれない。だから、どんどんインプットしていかないとな。それこそ、街を歩いてみたり」
「うーん。じゃあ、明日、歩き回ってみようかな……。怖いけど」
おとといと昨日に比べて、確実に私は外に興味を持ち始めていた。テレビは知らないことばかり教えてくれて、この目で見てみたいものが山ほどできた。
あのカフェも、選べなかったメニューも、レモンティーも、またちゃんと味わいたい。
その一方で、迷子にならないか、人とどう話せばいいのか、そもそも相手にしてもらえるのか。わくわくするのと同じくらい、胸のあたりがきゅっと苦しくなる。テレビで見たところ、ジェスターもベルジも優しくて良い人だけれど、それとはもう正反対とも言える人もたしかにいる。実際にこの目で見てはいないが、変な恐れだと思う。
「明日も仕事があるからな……。ひとりで行ってみたいなら、道具を用意しておく。迷子にはならない」
「ほんと?」
「ああ。あと、なにか不安とか感じたら家に戻るんだ。お前の魔法は外でぶっぱなすと危ない。約束できるか?」
「わかった」
「よし――おっと、飯まだ残ってるじゃねえか。悪いタイミングで話しちまったな、ははは。テレビで今日、何見たんだ?」
「ん、えっと――」
肉はもう食べきっていてよかった。たぶん今食べていたら、噛みきれないくらい固くなっていた。ジェスターの顔を見て、そう思う。
サラダも、さっきよりひんやりしていてシャーベットみたいだ。
あのドラマや遊園地の映像など、テレビに映っていたものを、覚えている限り彼に話す。ジェスターは、よく頷きながら最後まで聞いてくれた。
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