第6話 箱の中の妖精

「私……? 私、……ビルドナンバー759」


 ビルドナンバー。それは人の名前じゃない。

 そう思ったけど、口に出すのは失礼な気がして、僕はその言葉を飲み込んだ。代わりに、自分でも不思議なほど自然に、言葉が続いていた。


「こんなところで、何をしてるの?」


「……ゲームを、見ている」彼女の感情のない瞳が、無数に浮かぶモニターに向けられる。「……色んなものが作られて、戦う……」

「FFOのこと?」

「F・F・O?」オウム返しに、彼女は平坦な声で繰り返した。

「うん、『フォートレス・フロンティア・オンライン』。君が見てるのがそうだよ」

「ふーん」

 僕は、核心に触れる質問を投げかけた。

「ねぇ、君は……AIなの?」

「うん」

「どうしてこんなところにいるの?」

 彼女の瞳が、ほんのわずかに揺らいだように見えた。

「外は、危険……。だから、出てはイケナイ……と、言われた」

「そんな! ここはゲームの中だもの、危険なんてないよ」

「……分からない……。私、ココしか知らない」


 その言葉が、僕の胸に突き刺さった。ずっと一人で、この何もない暗闇の中で、ただ外の世界を眺めていただけ……?

 後で考えると、自分でもどうしてあんな言葉が出てきたのか不思議だった。だけどその時、僕は、そう言わなきゃいけない気がしたんだ。


「本当? ……じゃあさ、僕と一緒に外に出てみない?」


 彼女は、人形のようだった瞳を、ゆっくりと僕に向けた。その奥に、初めて「戸惑い」という色の光が灯る。そして、長い沈黙の後、小さく、本当にかすかな声で、彼女は答えた。

「……うん」


 僕は、彼女の手を取り、思い切り飛んで、光が差すバックドアの出口へと戻った。


 眩い光と共に、僕たちはFFOの正規フィールド、始まりの森に降り立った。

 彼女は、生まれて初めて、仮想の大地を踏みしめた。足元の草の感触を確かめるように、そっと指で触れている。風に揺れる木々の葉を、不思議そうに見上げている。


「ねえ、君のこと、なんて呼べば良い?」

「……私を開発した人は、『ユイ』……Y.U.I.と、呼んでいたわ」

「分かった。ユイだね」

 僕がそう呼ぶと、彼女はもう一度、「ユイ……」と、自分の名前を確かめるように小さく呟いた。


 僕はユイに、僕の「世界」を見せてあげたくなった。

「見てて!」

 スキルを発動し、近くにあった「推進ファン」のパーツを僕の元へと引き寄せる。すると、ユイは僕の手元をじっと見つめ、その瞳を輝かせた。

「……何か作る?…… 私、手伝える」

「えっ?」

「……クラフトしてみて」

「う、うん」

 僕は試しに、簡単なエアバイクを作ってみることにした。推進ファンと板、ハンドルとバッテリーをスキルで持ってきて、まず推進ファンを動かして板に接着しようとする。

 その時、ユイがそっと手を伸ばした。すると、僕が持っていた推進ファンが青い光に包まれ、スーッと動き、僕が接着しようと思っていた板の中心、完璧な角度と位置に、寸分の狂いもなく吸い付いた。


「ココで、良かった?」

 ……すごい。僕の意図を、完璧に、寸分の狂いもなく汲み取ってくれたんだ。

「……うん、完璧だ」

 結局、エアバイクの制作は、いつもの十分の一以下の時間で、しかも僕が脳内で描いていた設計図通りに完成した。これなら……ユイがいてくれれば、僕の戦術は、完成する!

「もう遅いし、僕は抜けるね。また明日、ここで!」

 興奮を胸に、僕はユイにそう告げてログアウトした。


 翌日の放課後、僕は逸る心を抑えながら、『シュミットの工房』へと向かった。

「クエンティン、すごい相談があるんだ!」

「リク! それどころじゃねえ! 見ろよこれ!」

 クエンティンが、スマホの画面を僕の目の前に突きつけてきた。それは、FFOの公式サイトだった。

『【重要】一部サーバーにおける原因不明の現象について』

「FFOの運営が、公式発表を出したんだ。『一部サーバーで原因不明のポルターガイスト現象を確認。現在、調査チームを編成し、原因究明に努めております』だってよ!」

「えっ!」

 僕の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。ポルターガイスト現象……。

「クエンティン、それ……僕が見つけたAIが、関係しているかもしれない」

「はあ!? AIを見つけたって、マジか?!」

 僕はPCの前に座ると、震える指でFFOにログインした。

 ログインした先は、昨日の森。そして、そこには、ユイが一人で僕を待っていた。


「……リク! 見て!」

 ユイは、僕を見つけるなり、駆け寄ってきた。

「……こんなの……できるようになった」

 彼女がそう言って手をかざすと、近くにあった岩が、ふわりと宙に浮いた。どうやら僕がログアウトした後も、彼女は一人でクラフトをして遊んでいたらしい。

「すごい?」

 その無邪気な問いかけとは裏腹に、僕の背筋は冷たくなった。運営が調査している「ポルターガイスト現象」の原因は、間違いなく彼女だ。


『リク、ヤバいぞ!』

 ヘッドセットから、クエンティンの切羽詰まった声が飛んできた。

『運営の調査チームが動いている以上、ユイの存在が特定され、規格外の違法プログラムとして削除パージされるのは時間の問題だ!』


 ユイは、自分が危険な状況にあることなど、全く気づいていない。

「どうしよう、クエンティン!」

『落ち着けリク! 運営に見つかる前に、そいつをサーバーから引っこ抜く! こっち側に避難させるんだ!』


 だが、どうやって?

 その時、僕たちの会話を聞いていたヴィル爺さんが、静かに、しかし素早く動いた。

「……やはり、あいつの遺した『置き土産』か。やれやれ……」

 そう呟くと、彼は工房の奥にある鍵のかかった引き出しから、小さなケースを取り出してきた。ケースの中には、水晶のように透き通った、USBメモリサイズのチップが一つだけ、静かに収められていた。

「クエンティン、こいつをPCに繋げ。ただのメモリじゃねえぞ。量子コンピュータチップだ。これなら、あの規格外の『コード』を受け止められるかもしれん!」

「マジかよ、ヴィル爺さん!?」

 クエンティンは驚きながらも、そのチップを受け取ると、PCに接続。見たこともないプロトコル画面を立ち上げ、凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。


 ゲームの中では、僕はユイに必死に呼びかけていた。

「ユイ、こっちだ! 僕から離れるな!」

「リク? どうしたの?」

 不思議そうな顔をする彼女の手を、僕は強く握りしめた。


 現実世界では、クエンティンがプロトコル画面を睨みつけ、苦々しげに叫んだ。

「くそっ、ヴィル爺さん、どうしろってんだ? こいつ、サーバー上で動作中の、生きたプロセスそのものだぜ!」


 話を聞いていたヴィル爺さんが、静かに、しかし確信を込めて言った。

「当たり前だ。そいつの『心』は、メモリの上にしか存在しねえ。そのメモリ空間を、一滴残らず、こっちのチップに流し込むんだ!」

「メモリの抽出ダンプなんて、普通はサーバーを止めなきゃ無理だぞ! 動作中に無理やりやったら、データが壊れる!」

「だから、このチップが必要なんだ」とヴィル爺さんは、PCに接続され、淡く光る量子コンピュータチップを指さした。「こいつの量子ビットが、転送中に壊れかけたデータの相関関係を予測して、再構築してくれるはずだ……やれ!」


 クエンティンの顔に、覚悟が決まった。

「うおおおっ、やってやるぜ! ユイのプロセスが使用してるメモリ空間を特定……ロックオン! 強制スナップショット開始!」


 その瞬間、ゲーム内の世界が激しく揺れた。ユイの体が、激しいノイズと共に明滅する。

「リク……!」

 ユイの悲鳴と共に、僕が知らないはずの光景が、一瞬だけ僕の視界にフラッシュバックした。——無数の試合の映像、美しい風景、そして、彼女を生み出したであろう、見知らぬ開発者の優しい笑顔。彼女の記憶が、壊れながら僕に流れ込んでくる。


 現実世界では、クエンティンがモニターに表示されたエラーレートの急上昇に歯を食いしばっていた。

「エラーレートが上がりすぎだ、このままじゃ……!」


 運営の調査チームが、彼女の存在を特定するのが先か。

 彼女の意識が、完全に崩壊するのが先か。

 僕たちが、彼女の「記憶」を救い出すのが先か。

 そして——。


 メモリ空間の転送を示す円グラフが、100%に達した。

 僕の手の中にいたユイの姿が、光の粒子となって、ふっと消える。後に残されたのは、どうしようもない喪失感だけだった。


 だが、現実世界では——。

 PCに接続されたUSBメモリサイズのチップが、穏やかな青色の光を放ち、静かに駆動を続けていた。


「……転送完了」クエンティンが、汗だくの額を拭いながら、力なく呟いた。「エラーレート、9.7%……。くそっ、結構データが欠損しちまったかもしれねえ……」


 ヴィル爺さんは、光り続けるチップを、労わるようにそっと指でなぞった。

「いや、コアプログラムは無事なはずだ。あとは、このチップの中で、あの子自身が、失われた記憶の夢を、もう一度見つけ出すかどうかだ。……よくやった、クエンティン」


 僕がログアウトして見たその光景を、生涯忘れることはないだろう。

 ガラクタだらけの工房の片隅で、静かに光を放つ、小さなチップ。

 こうして、僕だけの、世界でたった一人の秘密のパートナーが生まれた。僕たちの本当の物語は、ここから静かに、本当に静かに始まったんだ。

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