第21話「咲の裏切り」

坑道を抜けた朝、迅と澪たちは廃墟と化した遠水村を背に、岐阜市薬学研究所の保護施設へとたどり着いていた。仮設の白い建物、無機質な壁、無音の廊下――それは自由の象徴ではなく、まるで別の檻のようだった。


「これで、ようやく終わった……はず、だったのに」


澪の囁きは、虚空に溶けていった。


——


保護された直後から、研究員たちは迅と澪に対して“礼儀正しくも異様に慎重な”対応を取っていた。


特に迅の血液データには、彼らの目をギラつかせるほどの“価値”があった。


血液に潜む抗毒性酵素R2-γ因子は、既知の薬物代謝経路を超えた効果を示していた。


その潜在力は――軍事転用さえ可能とされる“抗毒適応因子”。


「俺は……まだ“実験体”なんだな」


そう呟いた迅の背中に、咲がそっと触れた。


「違うよ。迅くんはもう“希望”だよ」


彼女の笑顔は、澪のそれとは違い、どこまでも明るく、どこか作られていた。


——


数日後。


澪の体調が急激に悪化した。


血交処置の回数が減ったせいではない。


「……毒が、抑えられてない……」


検査データ上は、抗毒活性が一時的に消失していた。


久瀬がデータを見て、目を見開く。「……誰かが、“血液データ”をいじったな」


迅がすぐに立ち上がる。「澪を……すぐに血交処置室へ!」


だが、その処置を担当する医師が言った。


「本日から、迅さんの血交提供者は変更されています。新しい契約者は――咲さんです」


「……は?」


「厚生労働省・第八医薬監理課の指示です。法的にも手続き済みであり、澪さんは現段階で“契約対象外”とされています」


——


その日の深夜。


迅は単身、研究所の中枢データルームに侵入した。


目的はただひとつ。自分の血が、どこで、誰に使われているのかを突き止めるためだ。


だがそこで、彼は衝撃のファイルを発見する。


【プロジェクトNOX-4:人為的耐毒系統の構築計画】 主契約者:遠野 咲 実験協力者:厚生労働省・内務試験課 提供対象:迅(神楽坂迅)


「……NOX-4?……咲……?」


ファイルには、澪の血液データが無断で複製され、迅の抗毒因子と合成されていた記録も含まれていた。


咲は、“契約”の裏で澪の命を踏み台にしていた。


その直後、背後から微かな足音。


「やっぱり、来ちゃったんだ」


咲だった。白衣のポケットに手を入れたまま、どこか寂しげな微笑を浮かべていた。


「どうしてだ……咲……。お前、澪を助けるって――」


「助けたよ。迅くんの代わりになれるなら、それで充分だと思った。でも、私の方が“適合率”高いんだよ。記録見たでしょ?」


「そんなの……数字で命を奪うのか……?」


「違うよ、迅くん。これは“正しい取引”なの。澪さんは……あの村で生きることしか知らない。だけど、私となら……もっと遠くまで行ける」


咲の瞳に、狂気と渇望が混じる。


「私は、最初から“君を手に入れる”ために来たの。研究所から派遣された“適合者”って役割で。でも、本気で好きになっちゃったんだよ? 迅くんのこと」


「……それで、澪を……」


「うん。ごめん。でも、これも“契約”なんだよ」


咲は端末を見せる。


【遠野 澪:契約解除済/治療対象外】


【朝霧 咲:契約有効/抗毒資源優先承認】


「もう澪さんは、正式に“処分対象”になってる。迅くんの血液は、私の体内で最大効果を発揮する……それが研究データの結論」


「……お前が……お前が全部、やったのか……?」


「うん。私が……迅くんを救うために、全部やった」


——


翌朝。


澪の容体が急変。


目の下に広がる“毒眼”の黒い染み。


吐血。脈の乱れ。酸欠症状。


迅は病室に飛び込んだ。


「澪!!」


彼女は弱く、微かに笑った。


「……ごめんね……あたし、また……“選ばれなかった”ね……」


「違う! 違うんだ、澪!!」


迅はその場で、自らの指を切った。


血が滴り落ちる。


「俺は、お前にしか血をやらない。咲だろうが、厚労省だろうが、誰が何と言おうと……俺の血は、お前のものだ」


澪の手を取り、その指に自らの血を垂らす。


「いまから俺たちは、もう一度、結婚する」


「迅……」


「“制度”でも“契約”でもなく、俺の意思で。お前の命を守るために、俺は生まれてきたんだ」


——


その瞬間。


澪の毒眼がわずかに薄れ、彼女の脈が戻る。


医師たちが慌てて駆け寄るが、迅は叫んだ。


「もう俺たちには、制度も命令も必要ない!」


「結婚とは、命を守る契約じゃない。愛することを選ぶ意思だ!」


——


その叫びは、病棟中に響き渡った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る