『解毒婚 〜遠水村の誓血契約〜』
青春美化委員
第1話「異常転籍通知」
東京都目黒区。
梅雨が明けきらぬ七月初旬の午後、神楽坂迅は教室の窓際で、ひとつの封筒を開けずに手に取っていた。白地に厚生労働省の印が押されたそれは、どこか湿気を帯び、迅の手の温度と交わることを拒むようだった。
放課後のチャイムが鳴っても、誰も彼に声をかけない。
近寄りがたいとか、そういうタイプではない。けれど、彼にはどこか「触れてはいけないもの」があると、生徒たちは無意識に察していた。
「……おい、神楽坂。あれ、もう読んだか?」
担任の井之上がそっと声をかけてくる。中年で飄々とした物腰の男だが、その眼差しには明らかに気まずさと、そして一抹の“恐れ”が混じっていた。
迅は首を横に振った。
「……まだです」
封を切る。ぴり、と破れる音が、まるで脳髄に直接響くように感じられた。
文面は、思った以上に淡々としていた。
【通知】
神楽坂 迅 様
あなたは「特別医療法 第八章 血縁外生体中和療法」に基づき、
長野県遠水村へ戸籍および居住権を異動する措置が決定されました。
令和〇年7月20日付をもって、東京都からの住民登録は抹消されます。
本措置は、あなたの血液中に確認された“適合特性”に鑑み、
同村における風土病対策上の「優先指定適応者」として指定されたことによるものです。
移動及び医療措置は強制力を持ち、拒否することはできません。
詳細は同封の適合通知および法務省協力課発行のQ&Aを参照のこと。
しばしの沈黙。
「……は?」
反射的に漏れた呟きは、自分の声とは思えなかった。
改めて文面を見直す。どこかのネット小説か都市伝説のような単語が並んでいる。
“適合特性”、
“優先指定適応者”、
“医療措置は強制”……?
「これって、俺が……“病人”ってことですか?」
「正確には、“治療対象者”じゃなく、“治療手段”だ」
思わず振り向いた迅に対し、井之上は苦々しく答えた。
「な、何言って……」
「お前の血液が、村の中で必要とされてるってことだよ。医療的に。だから異動なんだ。これは……前から決まってたことらしい」
「冗談じゃない」
椅子がガタンと鳴る。封筒の中にあったもう一枚の書類を、迅は震える手で取り出した。
【適合率診断結果(抜粋)】
神楽坂 迅 様(16歳)
血液型:O型Rh+(未変異)
内毒性抗体適合反応値:98.2〜100%
※該当地域(長野県遠水村)における特定患者群との生体適合指数:最上位
特記事項:当人は母方を通じて同村出身であり、免疫遺伝子において未発症遺伝子座を保持。
当人の血液を用いた中和試験において、全対象者に顕著な解毒反応を確認。
「……適合指数……? 血が合うってことかよ……?」
「詳しくは分からない。ただ、あの村にしか存在しない特殊な風土病があって、それに対する中和手段が“君の血”だってことらしい」
井之上が重たく息をついた。
「もうすぐ、お前の16歳の誕生日だろ。ちょうどそのタイミングで、“発症”するらしい。……お前自身も」
「……俺も?」
事態は理解を拒んでくる。
だが、確かに迅の中には、ここ数日間、説明のつかないだるさや微熱があった。夜に耳鳴りがし、心臓がやけに早く打つこともあった。
あれが“前兆”だったというのか?
「……それじゃあ、俺があの村に行かなきゃ、死ぬってことかよ」
「行かなきゃいけないのは確かだ。で、そこで“誰かと結婚”させられることになる。そうすれば、症状は治まる……そういう仕組みらしい」
「結婚……は?」
数日後。
警備庁の車両に揺られ、迅は目黒のアパートを後にしていた。父親は顔すら見せなかった。代わりに手紙が一枚、玄関に置かれていた。
「お前の母さんも、あの村の生まれだった。
あれは逃げても逃げきれるものじゃない。
だからせめて、お前だけは――生き延びてくれ。」
――父親の震える筆跡が、今さら胸に刺さる。
車は東京を離れ、中央道をひた走った。諏訪湖を抜け、山の深部へ。分岐のたびに舗装は甘くなり、いつしか道は未舗装に変わる。
午後二時すぎ。標高およそ1100メートル。携帯の電波も途切れ、林道の先に、ひっそりと広がる盆地が現れた。
木造の家々。風に揺れる水車。
澄みきった湧き水が流れ込み、緩やかに光を反射する棚田。
だが――そのどれもが、なぜか“作られた風景”のように感じられる。
まるで、舞台装置のように完璧すぎる自然。
「ここが、遠水村か」
車を降りた迅の鼻腔を、どこか鉄のような匂いがかすめた。湿気と苔と、何かの薬草……そして血のような生臭さ。
村の入口には、一見すると古めかしい鳥居があるが、すぐ隣に設置された小屋には、生体認証付きの自動ゲートが設けられていた。
「……何だよ、これ」
和と現代科学が、無理やり接合されたような違和感。
中に通されると、迅は即座に村の診療所へと連れて行かれた。
そこには、白衣姿の初老の男が待っていた。
医師の名は、石槻誠二。この村で唯一の医師であり、同時に“婚姻管理官”でもあるという。
「ようこそ、遠水村へ。君の来訪は、ずっと待たれていた」
石槻は機械的に迅をベッドへ寝かせ、血液を採取し、検査を行った。冷却遠心分離器の唸る音のなか、彼の口から語られる真実が、迅の人生を覆していく。
「この村では、“16歳の夜”に、必ず風土病が発症する。それは例外のない法則だ」
「……風土病って、何なんですか?」
「体内に棲みついた、内毒菌の活動だ。腸内で静かに発酵し、毒素を肝臓、そして脳にまで回す。“毒眼”と呼ばれる黒い斑点が目に浮かぶころには、死が近い」
「でも……俺には何も……」
「いや、前兆はもう出てるはずだ。微熱、幻聴、動悸。おそらく今夜から、加速度的に症状が出始める」
「……じゃあ、どうすれば……!」
「一つだけ方法がある」
そう言って石槻は、真新しい書類を迅の前に置いた。
「結婚してもらう。すぐにだ」
婚姻契約書。
そこには、迅の名前と共に、数名の“候補者”の名が印刷されていた。
「お前の血は、ここに住む多くの者にとって“命をつなぐ薬”だ。
だから……結婚しなければならない。
それが、ここで生きるということだよ」
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