第48話・目覚め
——音が、遠い。
何かを呼ぶ声がする。けれど、その意味がわからない。言葉の輪郭だけが届いて、中身が溶けて消えていく。水の中にいるみたいに、すべてが歪んで聞こえる。自分の名前を呼ばれている気もするし、そうでない気もする。ただ、誰かが必死に何かを伝えようとしている——その切迫した響きだけが胸に届いていた。
まぶたの裏に、淡い光が滲む。
オレンジ色とも白ともつかない、曖昧な明るさ。それが波打つように揺れては消え、また滲んでくる。瞼を閉じているのか開いているのかさえ、よくわからなかった。意識の境界線があやふやで、自分がどこにいるのかも、何をしていたのかも、すべてが霧の中に沈んでいる。
息を吸おうとして、胸の奥が痛んだ。あの香りを吸い込んだときと同じように——苦しくて、鈍く、重たい痛み。
まるで、胸の内側から何かに締めつけられているような息苦しさ。空気を取り込もうとするたびに、肺が小さく悲鳴を上げる。その痛みが、少しずつ意識を引き戻してくる。ああ、俺はまだ生きているんだ——そんなことを、ぼんやりと思った。
ゆっくりと目を開けると、白い天井が見えた。
視界が定まらない。輪郭が二重にも三重にも重なって、焦点が合わない。瞬きを繰り返すうちに、少しずつ景色が鮮明になっていく。真っ白な天井。蛍光灯の冷たい光。見覚えのない空間。自分の部屋じゃない。学校でもない。どこか無機質で、静謐な場所——
……ここは、どこだ?
ゆっくりと首を動かす。視線を横にずらすと、透明なチューブが目に入った。腕に刺さった針。点滴のパック。その向こうに並ぶモニター。規則正しく刻まれる電子音。ああ、そうか——ここは病院だ。
頭がぼんやりする。思考が
——そうだ、文化祭。
記憶の断片が、少しずつ繋がり始める。教室の飾り付け。賑やかな笑い声。廊下を歩く人波。そして——
——花音が、泣いていて。
その映像が浮かんだ瞬間、胸が強く締めつけられた。涙を流していた花音の顔。俯いた横顔。震える肩。あのとき、俺は何を言ったんだっけ。何を言おうとしていたんだっけ。思い出そうとすると、頭の中が真っ白になる。
そこまで思い出した瞬間、心臓が跳ねた。
ドクン、と大きく脈打つ。モニターの電子音が、一瞬だけ速くなる。あのあと、何が起こったのか。視界が暗くなって、膝が崩れて——誰かが呼んでいたような気がする。悲鳴のような、それとも叫びのような。必死に何かを訴える声。それが、花音の声だった気もする。でも確信が持てない。記憶が途切れていて、その先が思い出せない。
「……優磨?」
低く落ち着いた声がして、はっとして顔を向ける。
ベッド脇の椅子に、エノキが座っていた。
いつもの飄々とした表情は影を潜めて、どこか疲れたような、それでいて安堵に満ちた顔で、俺を見つめている。
「お前……マジでびびらせんなよ」
その声には、普段の軽妙さはなかった。少しだけ低く、重たく、優しい響きがある。エノキがこんな声を出すのを、俺は初めて聞いた気がする。
「……そーちゃん……? ここ……病院?」
声が掠れる。喉が乾いていて、うまく言葉にならない。混濁した意識の中で、昔の呼び方が無意識に口をついて出た。
エノキの目が、ほんの少しだけ見開かれる。
一瞬の沈黙。そして、小さく息を吐くと、どこか懐かしむような、困惑の笑みを浮かべた。
「そう。倒れて運ばれた」
俺から目を逸らさずに、じっとこちらを見つめている。視線を離したら俺が消えてしまうとでも思っているかのように。
「悪い、迷惑かけた、な……」
そう言うのが精一杯だった。でも、エノキは首を横に振る。
「バカ。謝るな。……無事でよかった」
その言葉のあと、短い沈黙が落ちた。
モニターの電子音が、やけに静かに響く。ピッ、ピッ、ピッ——規則正しいリズムが、この空間の静寂を際立たせている。窓の外からは、遠くで車の走る音がかすかに聞こえる。どれくらい時間が経ったんだろう。空は暗いのか、明るいのか。ここがどこの病院なのかも、まだよくわからない。
「……フチガミさん、泣いてたよ」
エノキが、ぽつりと呟くように言った。
視線は窓の外に向けられている。その横顔は、いつものエノキより少しだけ大人びて見えた。
「お前が運ばれていったあともずっと……声、枯れるくらい泣いてた」
その言葉が、胸に深く刺さる。
思考が空回りして、何を考えればいいのかわからなくなって、息が詰まる。
——花音を泣かせた。
——また、俺のせいで……
「……俺、あのとき……」
声がかすれて続かない。何を言いたいのかも、自分でもよくわからない。ただ、何か言わなきゃいけない気がして、口を開いた。でも言葉が出てこない。喉の奥で引っかかって、音にならない。
そんな俺の手を、エノキが軽く叩いた。
「いいから。今は喋んな」
優しく、でも、それ以上何も言わせないように、きっぱりと。俺は小さく頷いた。
「……うん」
まぶたが、再び重くなる。意識が、遠のいていく。
でも今度は怖くない。エノキがそばにいる。それだけで、少しだけ安心できる。服から、かすかに花の香りが漂っている気がした。金木犀みたいな、甘くて儚い香り。
心の奥で、ただひとつだけ願った。
——もう一度、花音と、ちゃんと話がしたい。
その想いを抱いたまま、意識は静かに沈んでいった。
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