第7話『家族の定義』
朝の砂は薄い。
倉庫の前に若い男が立っていた。人足通りでよく見る顔だ。肩に縄、指に織り傷。
「紹介された。名はキサラ。縄は任せてくれ」
「日当は三。縄の手入れは自分持ち。事故の時は看板が面倒を見る」
「聞いてる。やる」
キサラは帆の縁を見て、指で押さえた。
「縫い目が甘い。今日中に直す。布は手持ちで足りる」
「助かる。午後は短い便を三つ回す」
ティノが包帯の腕で控えを持ち、うなずく。
「薬師の二便と、書状の一便だね」
準備を始めたところへ、灰の外套の女が入ってきた。
細い笑み。指先の動きが速い。
「砂州回しのメア。仕事を持ってきた」
「聞く」
「箱を一つ。港の外で受け渡し。値は高い。検問は避ける」
ティノが顔を上げる。
「中身は」
「書物。軽い」
メアは肩をすくめる。
「白旗では通らない。別の旗なら通る」
俺は看板を指した。
「うちは白旗に青線で走る。他は使わない」
メアの笑みが薄くなる。
「それじゃ腹はふくれない。人も増えた。縄も要る。風はいつも味方じゃない」
キサラが帆から顔を上げ、短く言う。
「仕事は受けたほうがいい。道具に金がいる」
ティノが控えを握り直す。
「約束が先だよ。昨日の怪我は、約束を守ったからそこで止まった」
キサラの声が少し硬くなる。
「怪我を盾にするな。現実を見ろ」
「決めるのは看板だ」
俺は言った。
「白旗で通らない仕事は受けない。別の旗は死人を呼ぶ」
メアは帽子を直し、短く頷いた。
「気が変わったら裏の桟橋。日暮れまで」
女は去る。
キサラは舌打ちはせず、帆を強く引いた。
「なら縫う。昼までは黙って縫う」
午前の便は静かに終わった。
港の空気は重い。黒の制服が増えている。
公証院から短い紙が届く。
《審問は明日。午の鐘後。副長官代理と対面。負傷記録は受理済み》
ティノが息を吐く。
「明日、言える?」
「言える。紙で言う」
控えを束ねて箱に入れる。
昼。
人足通りで縄を受け取り、戻ると、キサラが倉庫の前で待っていた。
顔が強張っている。
「一つ言う。俺は家族じゃない。雇われだ。金が出なければ、縄は別に回す」
「それでいい。雇いは約束で続く」
「なら、あの女の話を断るのは俺の金に響く。今日だけ受けろ。手は貸す」
ティノが首を振る。
「今日だけが明日を壊す」
キサラは縄を肩にかけ直し、目を細めた。
「夕刻まで待つ。答えが変わらなければ、出る」
午後の便の帰り道、港の北側で旗が二つ交差した。
帝都警護隊の合図。門の規制が強まる。
倉庫に戻ると、掲示板に墨の細い紙。
《今夜、外海門ではなく、乾いた渠。風棚の下。砂は固い。兵は降りない》
差出人はない。
ティノが紙を指で押さえる。
「これ、罠かも」
「罠でも道でも、“風棚”は帳簿の語だ。審問前に動けば、向こうの口が固くなる」
「動く?」
「動かない。今夜は縄を継ぐ」
夕刻。
メアが戻る。
細い箱を一つ、足で押した。
「もう一度だけ。裏の桟橋。報酬は先払い」
俺は首を振る。
「受けない」
メアは表情を変えない。
「そう。じゃ、別の船に行く。明日の審問、面白くなる」
意味のある言葉だけ残し、闇に消えた。
影が伸びる。
キサラが縄をほどきながら言う。
「俺は行く。縄は一本だけ残す。残りは明日返す」
「仕事の自由は奪わない」
「それでいい。なら金の話を先にしろ。理想の前に腹だ」
ティノが口を開く。
「残って」
「頼み方が違う。俺は雇われだ」
キサラは看板を見上げ、短く笑った。
「板は軽い。言葉も軽い。重いのは縄だけだ」
彼は出ていった。
倉庫は静かになる。
帆の影が壁に揺れた。
ティノが包帯を押さえる。
「ごめん」
「謝ることはない。家族は、同じ便を守る人たちだ。雇いは、同じ方向を見られる時だけ家族に近い」
「じゃあ、僕らはまだ家族?」
「最初からそうだ。明日もそうだ」
夜。扉に小さな音。
見ると、灰と白の斜めの細い布が釘で留められていた。
死んだ旗だ。
ティノが顔をしかめる。
「嫌がらせ」
「合図だ。裏の桟橋へ誘っている」
布を外し、火に落とす。
灰は軽い。床の砂に混ざって消えた。
眠りは浅い。
砂の音に、遠い笑いが混じった気がする。
目を閉じると、審問の部屋が浮かぶ。
机。紙。印。
副長官代理の顔。ミルダの鈴。サーシャの肩章。ティノの包帯。
並び順は決まっている。
俺の役は、紙で道を作ることだ。
夜半、気配。
扉の前に砂の跡。
裏口の鍵に細い傷。
キサラの結びではない。
息を整え、箱に手を置く。
幽閉区の控えは中。
明日の言葉は、ここにある。
朝が来る。
看板は残った。
旗は燃え尽きた。
家族の定義は変わらない。
同じ便を守る人たちが家族だ。
今日も、それで行く。
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