『お父様、違いますわ!』結婚したい相手を間違えられた侯爵令嬢は、離婚したいに決まってる
栗皮ゆくり
第1話 巻き戻った時間
「新婦ユージェニー・サレットは、新郎……を生涯の伴侶として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
(司祭様、ごめんなさい。ぜんっぜん頭に入ってきませんわ! だって……誰ですの? この男は!)
「新婦ユージェニー・サレット……? どうされましたか? あのっ、あっ、ちょっとユージェニー嬢?」
呆然と新郎の顔を見つめている私に、戸惑い気味の司祭様が小さな声で囁き続けている。
(司祭様が戸惑うのも分かりますわ。でも、私だって何がなんだか。このピンクの髪色、どこかで見たような……)
こちらも小さな声で司祭様に確認する。
「あのぅ、司祭様、新郎ですが……本当にこの方で合ってます?」
「はっ? ユージェニー嬢、どういうことです?」
突然止まった宣誓に、周囲がざわつき始めた。
隣に立つ、どこの馬の骨……コホンッ、この謎の男は整えられたピンクの髪を崩すようにかき上げ、楽しむような目で私と司祭様を見ている。
(これじゃあ、埒が明かないわ!)
バッと振り返って、お父様の姿を探す。
『これはどういう状況?』と視線で訴えると、お父様の口元が声を出さず大きく動く。
(えっ? なんて仰って……ア・ベ・ル・ブ・ル・ボ・ン・と・幸・せ・に・な)
お父様が満足そうに満面の笑みで口を閉じた。
(お父様ぁぁぁ……)
ブツンッ。
私の神経が一本どころか無数に切れる音がした。
そして、私は心の中で力いっぱい叫んだ。
『お父様、違いますわ!』
私が結婚したかった男性は……ロベル・ダルボン卿ですわ!
ピンク髪の男が口元をピクピクさせて笑いを堪えながら、私の耳元に顔を寄せた。
「あのー、ユージェニー嬢、『誓います』と答えて下さらないと……この式、いつまでも終わらないのでは?」
(結婚式を中止にすれば、宰相であるお父様の顔に泥を塗ってしまう)
「分かっています! 言えばいいんでしょ、ああ、もうっ……ち、誓いますわ!」
「ハハハ、良かった! もう少しで僕の心がズタズタになるところでしたよ」
私は天を仰いで、再び心の中で叫んだ。
(ああ、せっかく時間が巻き戻ったのに!)
◇
このハチャメチャな結婚式を挙げる、数ヶ月前のこと。
私は目を覚ますと、一度目の結婚式を挙げる前の19歳に戻っていた。
それも一度目の人生で――夫だったジョセフ・ドット公爵に殺された記憶を抱えたまま。
「お嬢様! ユージェニーお嬢様!」
揺り起こされる手を払い除けるようにして、私は叫んだ。
「やめて! お願い……お願い……キャーッ!」
荒い息遣いと悲鳴を上げて目を覚ました場所は、寒々とした夫婦の寝室ではなく、慣れ親しんだサレット侯爵家の私の部屋。
「お嬢様! どうなさいました! お顔色が……どこか具合でも?」
侍女のニナが寝間着姿で、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「ニナ! あなた、どうしてここに? ここは……私の部屋?」
「そうですわ、ここはお嬢様のお部屋ですよ。ネグリジェが汗で濡れて……お可哀想に、悪夢にうなされたのですね」
ニナは優しく手を添えて、私の背中を支えながら起こしてくれた。
少しフラつく頭に手をやり、掠れた声でニナに尋ねた。
「あ、ありがとう。ねぇ、ニナ、私……どうやってサレット侯爵家に戻って来たの? 夫の……ジョセフに刺されたはずなのに」
「何を仰って……ご結婚もまだですのに。その……夫とは?」
「結婚していない? 私は20歳の時に結婚して、今は23歳よ」
「本当にどうされたのでしょう……お嬢様は19歳ですわ」
混乱した様子の私にニナが戸惑っている。
(19歳? ジョセフと結婚する一年前じゃない!)
無意識にジョセフに剣で刺された心臓の辺りをさすった。
(傷が無い……。どういうこと? まさか、あの時の……『ラピスラズリの杯』と関係しているの?)
ハッ!
「お父様? お父様は!」
慌ててベッドから降りるとネグリジェ姿のまま廊下に飛び出した。
執務室まで脇目も振らず全速力で走り、勢いよく扉を開けると――その先に見えたのは、変わらぬ様子で机に向かうお父様の姿だった。
「ユージェニー? こんな夜更けにどうしたんだ? しかもそんな格好で……」
「お父様!」
話も聞かずに駆け寄り、しがみついて泣きじゃくる私にお父様は驚いてペンを落としてしまった。
「一体、どうしたのだ?」
優しく問いかける声に安堵と嬉しさで涙が止まらない。
暫くして落ち着きを取り戻した私は、お父様の首の辺りを確かめた。
「刺されてないわ……」
「本当にどうしたんだ、ユージェニー。顔色も悪いな、すぐに主治医を呼ぼう。ダン!」
すぐ側に控えていた執事のダンも心配そうに頷いた。
まだ若いにもかかわらずダンは有能な執事で、ニナ曰く、侯爵家の若い侍女たちの憧れの的らしい。
「かしこまりました、旦那様。まずは、私がお嬢様をお部屋までお連れいたします」
「ダン、ありがとう。だけど、お医者様は必要ないわ。自分の足で歩けるもの」
ダンは微笑み、ひょいと私を抱き上げた。
「あっ、待って! 部屋へ戻る前に確認したいことがあるの」
「お嬢様、それより……」
「今すぐ確認したいの。『瑠璃の間』へ行きたいわ。お父様、お願い、お願いよ!」
「まったく、お前の頑固さは誰に似たのか……私が一緒に行くとしよう。ダン、ユージェニーを」
今度はお父様に抱き上げられて、『瑠璃の間』へ二人で向かった。
当主のみが入ることのできる部屋、『瑠璃の間』。
そこには、サレット侯爵家の家宝『ラピスラズリの杯』が保管されている。
部屋の中はひんやりとした冷たい空気が漂い、凛とした静寂さが混乱した頭には心地良い。
「お父様、『ラピスラズリの杯』は……傷ひとつ無いなんて」
頑丈なケースに入った『ラピスラズリの杯』は、相変わらず満天の星空のような美しさを誇っている。
「当たり前じゃないか、厳重に保管しているんだぞ。わが家の家宝だからね」
「お父様、『ラピスラズリの杯』は何か隠された力があるのでしょう? 例えば、どんな願いも叶えてくれるとか……」
「ハハハハハ、ユージェニーはまだまだ子供だな。そんなお伽話を信じているのか? この神秘的な美しさのせいか、そんな夢物語を信じていた先祖もいたようだが」
「それは夢物語でしかないと?」
(お父様、私は夢物語でないと知ってしまったの。過去の結婚でね。お父様は本当に知らないのかしら? それとも隠しているの?)
「分かっているだろうが、この部屋を開けることも、『ラピスラズリの杯』を手にできるのも当主だけだ。いずれ、ユージェニーの夫となる男だ」
「夫……」
(娘が当主を継承できることは稀ですものね)
急に黙り込んだ私を窺うように、お父様は言葉を続けた。
「ユージェニーは、ジョセフ・ドット公爵を慕っているのか?」
「ジョセフ……いいえ、慕っていませんわ!」
「しかし、先日の舞踏会でもドット公爵とダンスしたがっていたではないか?」
(ええ、過去の私はそうだったわ。でも、もう今は……)
大きく息を吸って、お父様に声高らかに宣言した。
「お父様、私は新しい恋がしたいのです!」
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