第34話 擬貌君臨
――敵は、必ず俺たちを分断してくる。
その時、指示役は姿を現す。
シオンの言葉を胸に、シルフィは暗がりを歩き続けていた。
建物の影を抜け、人の消えた街路を慎重に進む。
潜む月光が、路面の雑草を淡く照らす。
吐息を殺すたび、鼓動だけがやけに大きく響いた。
(……無事かな)
去り際、シオンの顔には確かな覚悟が宿っていた。
けれど、その奥に潜んでいたのは――危うさ。
それはシルフィにも見覚えがあった。
一昨日、依頼を断られたときに見た、あの揺らぐ決意と同じ。
記憶が頭を掠めた、その瞬間。
「意外だな」
肩越しに、冷たい声音が響く。
ジルは足を止めて、ゆっくりとこちらを見つめていた。
「何のこと?」
「シルフィ殿が――あの場に残らなかったことだ」
その声に、いつもの理性はあっても、温度がなかった。
ただ事実を告げるだけのような口調が、かえって不気味に響く。
「君なら、一緒に戦う選択を取ると思っていた」
「……そう。急に、人間観察なんて、ジルらしくない」
「私も、そう思うわ」
その一言に、妙な間があった。
言葉の終わりが、どこか別の誰かのもののように聞こえる。
「シルフィ殿は、本当にあの男を信じているのか?」
「さっきから、要領を得ない質問ばかりね……何を、知りたいの?」
「別に、気になっただけよ。本当に、オリオパトラを倒して――助けに来てくれると、思っているのか」
沈黙。
ジルの言葉が、妙に重くのしかかる。
声の残響だけが耳の奥にまとわりつき、まるで別の誰かが口を動かしているようだった。
月明かりが、ジルの横顔を照らす。
光と影の境目――その輪郭が、一瞬だけ揺らいで見えた。
「ねえ――」
シルフィが異変を察し、声をかけた、その時。
首筋を撫でるような冷たい感触が走る。
ジルの手には、細剣が握られていた。
その切っ先は、寸分の狂いもなく――シルフィの喉元を狙っていた。
「何のつもり?」
「――残念なお知らせよ。あの人間は、オリオパトラには勝てない」
「私は、そうは思わないけど」
「いいえ、確実に勝てないわ。二度も戦いを見てきた《私》が断言する。あの人間の行動パターンでは、オリオパトラの《月光残身》は突破できない」
一切の迷いがないジルの言葉に、空気が沈む。
胸の奥に生じた不安を断ち切るように、シルフィは突きつけられた細剣を弾いた。
金属が鳴り、刃が弧を描く。
そのまま距離を取り、体勢を整えた。
「抵抗しても無駄よ。飢狼は来ない。他の冒険者もオリオパトラの方へ向かってる。あなた一人では、私に勝てない。素直に捕まった方が、身のためだと思うわ」
「――やってみなきゃ、わからないと思うけど」
月の光すら吸い込む闇の中、赤い輝きが二つ、シルフィを捉える。
ジルの瞳孔は人の色を失い、暗く濁っていた。
魔族。
昨日、紅蓮谷で戦った男と同じ瞳。
シルフィの心臓が、強く音を立てる。
「……やっぱり、あなただったのね。指示役は」
「あら、気付かれていたのね? 呼吸も、仕草も、声も――限りなく人間に近づけたつもりだったけれど。ふふ、完璧すぎたのかしら」
不気味な笑みとともに、ジルの体表に亀裂が走る。
音を立て、裂け目が広がっていく。
皮膚が砕け、骨が崩れ、形が音を失って崩壊していく。
人ならざる様相。
冷気が走る。
シルフィは、動けないまま、その光景を見つめていた。
やがて、砕けた殻の中から――別のものが姿を取った。
「……魔族っ」
「ふふっ、大正解。私は《擬貌》のジルレネ。マザーが造りし最高傑作――人を壊すための玩具よ。よろしくね、白銀の姫、シルフィ・クレスタ・アランクレードさん。きっと、長い付き合いになると思うから」
「……私は、よろしくするつもりないけど」
ジルレネは楽しげに唇を吊り上げた。
その笑みは、かつてのジルと同じ形をしているはずなのに、どこか鮮やかすぎた。
人間という枷を失い、隠れていた激情と嗜虐が滲み出ている。
これが、本来のジル。
赤い瞳に、漆黒のツノ。
紫がかった肌、鋭利なツメ。
どこを取っても、人間とはかけ離れた姿だった。
どうして、人の姿で街に溶け込んでいたのか。
どうして、今になって正体を現したのか。
答えの出ない疑問が頭の中を渦巻き、思考が絡まり合う。
気づけば、言葉が零れていた。
「どうして、紅蓮谷で――私を助けたの? あの時、私は何もできなかった。シオンとジルがいなければ、きっと負けていた。なんで、私たちの味方をしたの?」
「……決まってるじゃない」
一拍。
ジルレネの言葉が、空気を震わせる。
「飢狼は、生かしていたらマザーの計画に支障をきたす異端よ。存在そのものが、世界の調律を狂わせる。だから、排除するべきだと判断して紅蓮谷に向かったの。アリオージーとなら、二人まとめて叩けると思ってね」
「なら、なおさら意味が分からない。あの時、確実にアリオージーを倒すのに、あなたは協力していた。その協力がなければ、私とシオンは負けていたかもしれない」
「今度はあなたが質問ばかりね――まあいいわ、答えてあげる」
ジルレネは笑った。
乾いた唇が歪み、笑みが嗤いへ。
そして、嗤いが狂気へ変わる。
「最初は本気だったのよ。アリオージーと力を合わせて、飢狼を殺すつもりだったの。でも――あの愚か者は、調子に乗ったわ」
声が跳ねた。
路地の闇が震える。
「私を! 洗脳しようとしたの! この私をよッ!」
叫ぶたびに、髪が逆立ち、空気が焦げるような熱を帯びる。
紅い瞳が爛々と輝き、声が悲鳴のように割れた。
「マザーの造り子である私をッ!! 支配しようだなんて、出来損ないの分際でッ! ――ありえない! 許されるはずがないッ! あんな汚い手で、マザーの創造物に触れるなんて!」
怒号が夜を裂いた。
狂気と憎悪が渦巻き、月光までもが怯えて退いたように感じられる。
「だから殺したの。あの愚か者を、この手で! 私を縛れるのはマザーだけ。崇高なるマザーだけなのよ! 他の誰にも触れさせない、壊してでもねッ!」
「……そうだったの。理解できないわ」
「理解できない? ――それはマザーの偉大さを知らないからよ。ふふ……まあ、いいわ。おしゃべりはここでおしまい。さっさと、終わらせてあげる」
ジルレネは笑いながら、一歩を踏み出した。
その細剣が、月光を浴びて妖しく光る。
まだ熱を帯びた息が漏れ、口元には狂気じみた笑みが残っている。
夜風がざわめいた。
風すらも、この女を避けているようだった。
次の瞬間、狂気と殺意を宿した刃が静寂を裂いて――シルフィへと向けられた。
その光景を前にして、シルフィの指先がわずかに震える。
敵の気配が、空気そのものを支配している。
紅蓮谷で死線を越えたはずの彼女の体が、本能的な恐怖に支配されていた。
(勝てるの……?)
頭の奥で、かすかな疑念が囁く。
相手は人を模し、心を弄ぶ《擬貌》の魔族。
(私のことなんて、知り尽くしているよね)
それでも、退くことはできない。
胸の奥で、燃えるような決意が息を吹き返す。
(シオンもきっと一緒。不利な状態で、それでも戦ってくれている。だから、ここで私が負けるわけにはいかない)
シルフィは小さく息を吸い、剣を構えた。
夜が、再び静寂を取り戻す。
その中心で、二つの光がぶつかり合おうとしていた。
誰もあずかり知らぬところで。
世界の行く末を大きく左右する戦いが今、始まる。
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