第15話 月明かりを塞いで
不気味に笑う魔族を前にしても、シオンの心はひどく冷静だった。
目的はただ一つ――シルフィの救出。
一刻の猶予もない。迷っている時間すら無駄だ。
ならば、ためらう理由はない。
一瞬で終わらせる。
視界の隅で光るステータスウィンドウを、一瞥。
《索敵LV6》→《狂戦士LV10》
《暗視LV9》→《血戦覚醒LV8》
《狂戦士LV10》
・攻撃力+30%、防御力-30%、抗魔力-30%。
・攻撃時、50%の確率で30秒間、攻撃力がさらに上昇。
《血戦覚醒LV8》
・攻撃時、16%の確率で敵を出血状態へ。
・敵が出血状態時、次の攻撃ダメージ+160%。
準備完了。
《暗視》を外したことで、世界は闇に沈む。
だが、ヤツの影さえ見えれば十分だ。
空気が張りつめる。
森のざわめきが遠ざかり、呼吸の音すら消えていく。
――先に動いたのは、シオンだった。
足を踏み込み、前方へ飛ぶ。
単純な動作が、常識外のステータスによって、瞬間移動とすら錯覚する速度を生む。
魔族の背後に回り、一閃。
狙いは、子供らしく細い首元。
《大出血》。
飢狼の代名詞とも呼ばれる必殺が、夜を裂いた。
「うへえ、何その速さっ!?」
――見ていなかったはず。
魔族の視線は、最後まで別の方向を向いていた。
それなのに、渾身の一撃が首へ届く直前、わずかに身をひねり、風に乗るように軽やかに回避した。
避けられた。
その瞬間、シオンの瞳がわずかに見開く。
(……どうやって、回避した?)
脳裏に走る冷静な修正。
シオンは即座に、目の前の魔族の危険度を引き上げた。
「いいねえ、いいねえ。今度の玩具は、長く楽しめそう?」
魔族は不気味に体を揺らし、小さく息を吸う。
直後、周囲の魔力が膨れ上がった。
(詠唱――魔法型か)
シオンが分析を終えるより早く、魔族は囁く。
「幻の月よ、虚影を断ち切る刃となりて――断罪せよ。《
機械音声のように正確な倍速詠唱。
闇が裂け、差し出した魔族の手元から光の刃が迸る。
数は三つ。
弧を描くように軌跡をたどり、音すら置き去りにしてシオンへ迫る。
空気が震えた。
肌をかすめる熱が、刃の速度を物語る。
――だが、遅い。
シオンは迫りくる三つの光刃の位置と軌道、反射角までを瞬時に計算し、確信をもって正面へ飛び出した。
光が大地にぶつかる。
風が揺れて、噴煙が散った。
「はァ!? ――って当たるんかーい! 驚かせないでよ!」
けらけらと笑う魔族をよそ目に、シオンは大剣を強く握り締めた。
肩越しに僅かな息遣い。
狙うは、再び首元。
背後へ回り込み、呼吸を止める。
飢狼が牙を振り抜いた。
手繰り寄せた勝利に、口角が緩む。
確実に斬った。
そう思った次の瞬間――刃は、空を切っていた。
「いやいや、いやいや、どんな速さしてるのさ!」
声がしたのは、頭上。
月を背にした魔族が、クルクルと宙を回りながら眉間にしわを寄せている。
「さっきもそうだが、何をしたんだ?」
「聞きたいのはこっちだよ! その速さ、人間とは思えないんだけどぉ。魔族にもなかなかいないよ!」
魔族の騒がしい声が、風に混じって通り過ぎていく。
シオンはその間にも、思考を整理し、分析を始めていた。
一撃目、二撃目、どちらも振り抜く直前まで気づかれていなかった。
だが、命中するその瞬間だけ、魔族は反応した。
まるで、誰かに合図をもらったかのように。
背後に目があるわけでもない。
むしろ、上空から戦場を俯瞰している何者かが、逐一指示を送っている――そう考える方が自然だった。
ふと、上空を見上げる。
宙に浮かぶ魔族の後ろ、月が妖しく光を放っていた。
「ねえ、ねえ、そういえば自己紹介がまだだったよね?」
「は?」
あまりに場違いな会話に、素っ頓狂な声が漏れる。
魔族は戦いの最中だというのに、まるで遊びに誘う子供のような笑顔を浮かべていた。
「僕はね、《幻月》のオリオパトラ。マザーがくれた名前なんだ――かっこいいでしょ?」
軽く笑いながら、オリオパトラは宙でくるりと一回転してみせた。
無邪気な仕草とは裏腹に、その目の奥には明確な意思が宿っている。
「名前を教えるのは、僕にとって遊び相手を認めた証なんだ。嬉しいよ……君みたいなの、滅多にいないから」
声は柔らかく、それでいて底が見えない。
子供のように笑いながら、獣のように牙を隠していた。
「君の名前、知ってるよ――シオン、でしょ?」
「……どうして、知ってる」
「そりゃあ、そりゃあ、マザーが教えてくれたからに決まってるじゃん! ――人間の顔はみんな同じに見えるけど、君だけは覚えちゃった」
弾むような声。
その裏で、確かな闇が蠢いていた。
――マザー。
さっきから何度も口にしているが、それが誰を指すのか見当もつかない。少なくとも、
(……つまり、こいつも物語の外側の存在か)
背筋を氷の指でなぞられるような感覚。
未知の改変は、すでに想定の域を超えている。
(……ダメだ。今は戦うことだけを考えろ)
深く息を吐き、余計な思考を削ぎ落す。
すべきことは、オリオパトラの討伐――そしてシルフィの救出。
それ以外に、思考も時間も割いている余裕はない。
シオンは握る大剣に力を込めた。
その手に伝わる熱が、戦いの再開を告げていた。
「それじゃあ、それじゃあ、遊びの時間を始めよっか!」
「……仕留めるッ!」
決意を吐き出すように叫び、シオンは目の前の敵に全神経を集中させた。
解くべき謎はひとつ。
どうして攻撃が当たらないのか。
一撃必殺の技も、空を切ってしまえば意味がない。
単なる実力差ではなく、そこには確実に何か仕掛けがある。
互いに距離を取り、静かな呼吸が夜気を震わせる。
次の瞬間、動いたのは――オリオパトラだった。
「眠れ、幻に溶ける意識よ。影の底で囁く声が、お前を縛る。抗うほどに深く沈め――封印せよ。《
「チィィッ!」
あまりに速すぎる詠唱。
規格外の敏捷を誇るシオンですら、割り込む隙を見出せない。
直後、膨大な魔力が地を這うように溢れ出す。
オリオパトラの足元から、妖しく光る無数の鎖が伸び――生き物のようにシオンへ殺到した。
(拘束状態……!)
幻惑とは違う。
相手の肉体を絡め取り、生命力そのものを喰らう状態異常。
ツタや触手を備えた魔物が使うことはあっても、魔法として利用する者は稀だ。
だが――。
「俺の敵じゃない」
空間を断ち切る勢いで、大剣が振り下ろされる。
爆ぜた衝撃波が森を震わせ、迫りくる鎖を一瞬で粉砕した。
拘束魔法は衝撃に弱い。
それは、《エンドサーガ》で数多の戦いの果てに学んだ法則。
その知識を握る者にとって、この手の術は脅威ではない。
「今度はこっちの番だ」
足場を蹴って、風を切る勢いでオリオパトラの正面に飛びこむ。
さっきまでの慎重さはもう捨てろ。
相手は後衛、シオンは前衛。
考えるより、動け。
それが戦士の戦い方だ。
攻撃が当たらないのなら、何度でも狙えばいい。
その中で、当てる術が見えてくるはずだ。
(敵に飲み込まれていた……俺の戦いは、もとよりこれだ)
「うえぇっ!?」
オリオパトラの驚愕を置き去りに、シオンは腕を振り抜く。
案の定、ヤツは不規則な動きで避けた。
――これでいい。
呼吸すら許さぬ速度で、大剣が唸りを上げる。
風が裂け、衝撃が夜を叩いた。
シオンは、斬り、踏み込み、また斬る。
考えることをやめた瞬間、身体が勝手に最適解を描き始める。
飢狼の連撃が止まらない。
やがて、オリオパトラの動きにわずかな遅れが見え始めた。
「ちょっと……ちょっと、待って」
しびれを切らしたオリオパトラが、はるか上空へ逃れた。
だが、シオンはその動きを――予備動作の一瞬で見切る。
足場を砕き、夜空へ跳ぶ。
重力を置き去りにした大剣が、月光を裂いて閃いた。
安堵の笑みを浮かべる魔族の真上。
その月明かりを背に、シオンは静かに見下ろしていた。
(そういえば、避ける時、ずっと明るかったな)
脳裏で戦闘の光景が再生される。
一撃目も、二撃目も、三撃目も――奴の体は常に月明かりを浴びていた。
(なら、月が届かない場所では……どうなる?)
シオンの影が、月光を遮る。
今、この瞬間だけ――オリオパトラの体は闇に沈んでいた。
確かめるように、シオンは大剣を振り抜く。
一瞬、世界が息をひそめた。
風が遠ざかり、音が薄れる。
全てが、刃の軌跡だけを見つめている。
――《大出血》。
夜空に、赤い花が咲いた。
「ぐぎゃああああああああああああああッ!」
オリオパトラは悶絶の咆哮を上げて、大地に叩きつけられた。
鈍い音とともに土煙が舞い上がり、森全体がその衝撃に震える。
シオンは静かに着地し、握っていた大剣を下ろす。
深く息を吐き、わずかに乱れた呼吸を整える。
煙がゆっくりと晴れていく。
その向こうには、砕けた地面と焦げた土、そして――大きな血痕だけが残っていた。
(……消えた)
気配は完全に途絶えている。
逃走の痕跡もない。
だが、殺しきれていない――そんな嫌な確信が胸をよぎる。
と、そのとき。
「……あはは、あはは……やっぱり、君は面白いや」
声が、森の奥から風に乗って響いた。
掠れた笑い混じりの声。もはや姿はない。
「今日はこのへんでいいよ――マザーが言ってた、人間は油断するとすぐ死ぬって。それに、あっちで楽しいものが見れたから、満足満足」
子供のような声音が、次第に遠ざかっていく。
それは負け惜しみか、それとも本心の呟きか。
シオンは目を細め、静かに剣を収めた。
「……逃げたか」
夜風が頬を撫でて、血の匂いが霞んでいく。
戦いには勝利した。だが、胸に残るのは嫌な予感だった。
(オリオパトラ、それにマザー。何者なんだ、お前らは……)
月が雲に隠れる。
勝利の光が、あっけなく闇に飲まれていくようだ。
「……急がないと。無事でいてくれ、シルフィ」
シオンは足早に森を後にした。
踏みしめるたび、胸の奥で嫌な予感が膨らんでいく。
それが焦燥となって、歩みを速めた。
やがて、街道の先に農村が見えてきた。
「……え?」
短く呟き、足が止まる。
村は、まるで光そのものが奪われたように暗闇に沈んでいた。
灯り一つない。
魔族を避けるために焚かれていた篝火も、民家の窓灯も、すべて消えている。
――何かが、起きた。
冷えた空気が頬を刺す。
静寂だけが、夜気に染みていた。
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