第9話 切断
見物人がいようと、やるべきことは変わらない。
背中に突き刺さる好奇の視線を振り払い、いつものように大剣を構えた。
砂塵の奥で蠢く巨影に、意識を研ぎ澄ます。
――
紅く灼けた巨大ハサミが、空間を砕くように開閉する。
刃が擦れて響いた軋みが、戦場の開始を告げるゴングとなった。
多彩な状態異常攻撃と、どんな斬撃をも跳ね返す漆黒の装甲を持つ砂地の王。
弱点はただ一つ――巨体ゆえ、懐に潜り込まれると動きが鈍ること。
「早い――あれが、大剣を担いだ人間のスピードなのかよッ!?」
先に動き出したのは、シオンだった。
足を飲み込む砂地を蹴り上げ、音を置き去りにして接近する。
蠍王が反射的に繰り出した鋏の一撃は、残像を掠めるだけ。
「破裂しろ」
――《大出血》。
瞬間、大剣の刃に血が巡る。
深紅の輝きが脈打つように走り、蠍王の腹部を焼き尽くした。
爛れた肉が砂に散り、熱気が吹き荒れる。
切り裂くというより、粉砕。
爆ぜるように紫の体液が飛び散り、シオンの肌を焦がした。
「チィィ、血液に炎傷効果があるなんて聞いてねえぞ」
渾身の一撃が予想外の結果を生み、シオンは顔を歪めた。
鋏の一撃で炎傷、尾針の刺突で毒、HP25%以下で吐く即死ブレス。
ヤツの状態異常パターンは、この三つだったはず。
この世界で幾度となく味わってきた“原作とのズレ”が、また現実を突きつけてくる。
苛立ち。
そのわずかな揺らぎを、後方で見ていた冒険者たちが息を呑んで感じ取った。
「すげぇ……」
「なんだ、あの速さ。何も見えねぇ……」
戦場の熱に気圧された観客たちの声が、遠くで揺れる。
シオンは視線を下げ、視界にステータスウィンドウを呼び出した。
HP:311/564。
炎傷ダメージで200以上も削れていた。
「すごい出血量……それだけ強烈な一撃だったってことですよね!」
「ああ……だが、不自然だ。あんな爆発するみたいな飛び散り方、普通はしねえ」
背後のやり取りが耳に届く。
出血――どんな相手にも固定ダメージを与える最強格の状態異常。
だが発生条件は極めて厳しい。
同一の攻撃者が蓄積値を上げ続けなければならない。
他の仲間の攻撃が挟まれば、値はリセット。最初からやり直しだ。
死んだら終わりのこの世界では、ソロで戦い続けること自体が稀。
“出血”を実戦で扱える冒険者など、上位でもほとんど存在しない。
(……出血状態は諸刃の剣か。戦法を変える)
シオンにとって出血は最強の武器だった。
蓄積値を無視して、確率で発生させる特技とスキル。
それらをすべて封印する。
「次は何を見せてくれる……飢狼」
誰の独り言かわからない声を背に、シオンはいったん距離をとる。
先ほどの一撃を警戒してか、蠍王も同じく動かない。
互いに、次の一手を見極めていた。
刃が擦れる嫌な音が響く。
その一瞬の間が、体勢を立て直す絶好の機会になった。
シオンはステータスウィンドウを開く。
《???》
《不眠不休LV10》
《エネルギー転換LV8》
《禁欲LV7》
《狂戦士LV10》
《狂化LV10》
《血戦覚醒LV8》
シオンは出血に関する《血戦覚醒LV8》を取り外し、別のスキルへと付け替えた。
その瞬間、空気が変わった。
背後の観客たちが小さくざわめく。
シオンの呼吸が落ち着き、瞳が研ぎ澄まされていく。
戦場の熱が、一瞬、凍り付いたように感じられた。
「……動かない?」
「いや、違う。見てる――互いに」
誰かが呟く。
ジルがわずかに目を細めた。
理解ではなく、直感で何かが変わったと感じ取っている。
砂の音。刃の擦れる金属音。
そのわずかな間に、体勢が整った。
「ふぅ、やっぱり馴染むな――こっちの方が」
《切断LV9》
・部位破壊によるダメージ+180%。
戦法を出血から切断へ。
狂気の力任せではなく、理性で研ぎ澄ませた一撃。
静と動が共存する構えだった。
呼吸が整う。
視界が澄み渡る。
「蠍のほうが先に動いちゃいましたよ!」
その叫びが空気を切り裂く。
蟲の生存本能か。
先に動いたのは、変化を感じ取った蠍王だった。
おぞましい足の動きで突き進み、鋏を振り下ろす。
一瞬――時が止まる。
閃光。
巨体の一部が、何の前触れもなく地に落ちた。
「切り落とした、だと――いつの間に!」
砂に飲み込まれていく巨大な鋏。
シオンは一歩も動かず、迫りくる一撃を切り落として見せた。
漂う紫煙が、砂の熱を揺らす。
(……部位切断でも多少血が飛び散る。油断は禁物だ)
飛び散った体液を見下ろし、短く息を吐く。
その横顔には焦りではなく、余裕が宿っていた。
観客たちは声を失っていた。
ただ立ち尽くし、理解不能の光景を前に息を呑む。
シオンの動きは、人間のそれではなかった。
「どうせ次は、毒で来るんだろ?」
炎耐性を上げると、毒と即死ばかり多用する。
蠍王には、そんな狡猾なAIが埋め込まれていた。
この世界でもそれは同じ。
鋏攻撃を封じられた巨蟲は、長い尾を不気味に揺らす。
蠍王はシオンの手のひらの上だった。
ケラケラと笑う男に向かって、火中の蟲は全力で突き進む。
――焦ったふりでもしているつもりか?
シオンは笑っていた。
この敵の行動ルーティンを、頭の中で何百回も再生できる。
勝敗は、もう決まっている。
「生物の真似事なんて、百年早い」
鋏を振り上げ、我を失ったように猛進する蠍王。その陰で、尾を鞭のようにしならせたのを見逃さない。
――あえて、乗っかってやる。
大蠍の最大限の思考、それを完全に読み切ったうえで、シオンは敵の術中にはまることにした。
シオンは叩きつける鋏を避けるように、後方へ下がる。
蠍がカチカチと気味の悪い音を立てた。
作戦通りと言わんばかりに、シオンの着地点に尾を突き放つ。
背後から「危ない」と危険を知らせる声がする。
それより先に、シオンは動いた。
刃を構え、身を翻し、空気が裂ける。
――《切断》。
音が消えた。
風も、熱も、止まる。
そして、巨体が崩れた。
制御を失った槍のように巨大な尾が、砂地に溶けていく。
「鋏を囮にして、尾を突き刺す――その程度の悪知恵で、俺を倒せると思ったのか?」
ヴァル・スコルグの生命反応が途絶える。
灼熱の戦場が、静寂に包まれた。
シオンは振り返らず歩き出す。
肩越しに、誰かの焦燥が聞こえた。
「気をつけろ、飢狼。そいつは最後――」
「知っている」
その瞬間、背後で奇声が響く。
――死の間際、一度だけ甦る蟲の本能。
「シオンさん、危ない!」
叫びが重なった。
だが、シオンは笑っていた。
その笑みには、恐怖よりも確信が宿っていた。
「安心しろ、俺の勝ちだ」
硬い音が鳴る。
何かが切り落とされ、砂に沈んだ。
誰も動いていない。
それなのに、残っていた片方の鋏が地面に転がった。
砂煙が静まり、蠍王の亡骸が崩れ落ちる。
残されたのは、一振りの大剣。
血と熱を喰らい、なお静かに脈動する飢狼の牙だった。
世界が呼吸を止める。
次の瞬間、視界の端に光が走った。
――スキル獲得:《灼毒活性LV1》
獲得条件:
効果:自分と敵、双方の状態異常3種類を10%の確率で昇格させる。
毒→猛毒/炎傷→灼傷/麻痺→雷鎖。
視界に浮かぶスキルログを見て、シオンは静かに息を吐いた。
あっけない勝負だった。
「……何をしたんだ?」
ジルの声が震えていた。
恐れとも、驚きともつかぬ響き。
彼女の手がわずかに震え、砂を握りしめているのが見えた。
「尾を切り落とすとき、勢いのまま剣を上に投げた。悪あがきで動き出したとき、ちょうど鋏を落とせるようにな」
淡々と告げる声。
戦闘が終わり急速に冷え込む体に、寂しさを覚える。
見物人たちは、誰も言葉を発さなかった。
否、発せなかった。
静まり返ったダンジョンに、砂の落ちる音だけが残った。
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