第31話 接触

夜、約束の時間。

校門の影は長く伸び、旧校舎は月光を飲み込む黒い箱に見えた。正面玄関のガラスは割れていないのに、風の抜ける音だけしている。


「本当に、ここで?」

神崎美帆は、あくまで楽しげだった。白いブラウスの袖を少し捲り、手首の時計をちらと見る。「子どもの頃の肝試し、思い出すわ」


「……肝試しって単語、便利だよね」

俺は肩をすくめる。

「だいたい全部を軽くする」


「軽い方がいいじゃない」

美帆は笑う。

「重たい話なんて、誰も聞きたくないもの」


それが問題なんだよ。

重たいものを軽くする笑いのために、誰かの「重たい」が増えていく。


扉を押すと、ギィィ……と古い蝶番が悲鳴を上げた。

廊下は夜の湿気で膨らみ、床板がゆっくり呼吸している。

俺の背中で、誰かがそっと顎をのせた。……いや、近い。近い近い近い。


地下へ降りる階段の手前で、梓が足を止める。

「……本当に行くの?」

「行かなきゃ終わらない」俺は振り返らない。「終わらせなきゃ、明日の一時間目が地獄の継続公演だ」


里奈は涙を拭きつつ頷いた。結衣は相変わらず笑って、手すりを軽く叩く。

「行こう。呼ばれてる」


神崎美帆は、まるでSNSで“映えスポット”を見つけた人みたいに軽快に階段を下りていく。

「懐かしいわ、こういう雰囲気。ほら、写真撮る?」


「やめてください」梓の声が鋭くなった。「ここ、笑う場所じゃない」


美帆は肩をすくめる。

「怒らないでよ。雰囲気作りって大事でしょ?」


——その“雰囲気作り”で、何人が泣いたんだろうな。


地下室。

入った瞬間、黒板がひとりでに息をし、白い粉が舞い上がる。

そして、文字。


【みつけた】


美帆の眉がわずかに動く。「……なにこれ。チョークの粉、釣り糸で引っ張ってんの?」


【わらってたのは あなた】


ピタ、と場の温度が零度で固まる音がした。

美帆は笑ったまま、目だけが笑っていない。「……へえ。面白いね。誰の仕込み?」


「仕込みじゃない」梓が震える声で言う。「十年前、あなたが笑っていた場所」


里奈が唇を噛む。「ここで、誰かを真ん中に立たせて、みんなで……」


【いちばん わらってた】


美帆の頬から、血の気が引いた。

「やめて。言葉遊びは好きじゃないの。私は——」


「“場を盛り上げただけ”?」俺が口を挟む。「“笑って空気を軽くしただけ”? それが一番重かったんだよ」


黒板の端がぎり、と音を立てた。窓のガラスに、泣き笑いの顔がいくつも浮かぶ。

笑い声。壊れたレコードみたいに少し遅れて揺れる笑い。

背中が、凍てついた川みたいに固くなる。


美帆は一歩、また一歩と後ずさる。「待って……なに、それ……やだ、やめて」


【まだ わらってる】


赤い線──いや、赤い意志のような文字が黒板に走る。

美帆が叫ぶ。「違う! 今は——」


足首に黒い影が絡みつく。床の闇が糸を伸ばし、彼女の踝を冷たく撫でる。

「っ、いや……やめ、て……!」


俺は反射的に飛び込んだ。彼女の腕を掴む。「離れるな!」


耳元で、静かな、泣き笑いの囁き。


【ゆうま はなして】


“選べ”。短いのに、吐き気がするほど重い言葉だ。

ここで手を放せば、断罪は完了するかもしれない。

握り続ければ、俺ごと引きずり込まれるかもしれない。


梓と里奈が同時に叫ぶ。「離しちゃだめ!」「でも危ない!」

結衣は笑ったまま、涙をぽろぽろ零した。「……選んで、悠真くん」


黒板が最後の問いを刻む。


【ほんとうに わらってた】

【どうする ゆうま】


——俺は、掴んだ手に力を込めた。

「離さない。まだ離さない。

“ほんとうに笑ってたやつ”を——俺が見つける。だから、今ここで裁かせるな」


背中の冷気が、ほんの少しだけ緩む。

泣きながら、笑って。

黒板の粉が、雪みたいに静かに落ちた。


美帆は肩で息をして、膝をつく。

俺は手を離さずにいた。彼女の脈は、速く、浅い。

梓と里奈が駆け寄り、結衣がそっとタオルを差し出す。——どこから出した、それ。


「続きは——」俺は黒板を睨む。「俺が連れてくる“本丸”でやる。

笑って、見ないふりして、場を転がした全部を、ここに」


窓の顔が、スッと消えた。

黒板に粉だけが残り、最後に薄く文字が浮かぶ。


【また くる】


——来いよ。こっちも、行く。


背中の“それ”は、ほんの少しだけ軽くなった。

泣きながら、笑いながら、それでも期待するみたいに。


俺は深呼吸をして、握っていた手をゆっくりと解いた。

神崎美帆は震えながら、俺を見上げる。

その目は、十年前の写真とは違う色をしていた——少なくとも、今だけは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る