第6話 ノイズ

 頬に軽くかかった細い髪、自分の唇に初めて触れる感触、そして、真っ直ぐ世羅せいらを見つめる小悪魔のようなリバーブルーの瞳。

 ゆっくりと走り出した新幹線の中で、世羅の頭の中を支配しているのはひときわ目立つ東寺の五重塔でも流れゆくビル群でもなく、かいの顔だった。


 なんで…。

 さっきまで、せいらの心の中は浄士さんでいっぱいだったのに。

 後悔と、恥ずかしさと、そして…悔しさと好きが織り交ざったぐちゃぐちゃな感情が溢れて溢れて止まらなかったのに。

 今はもう、あのキスの感触と不埒な笑顔がせいらの頭から離れない。


 京都から神奈川に帰る間どころか、神楽浜町に着いても、家へ帰ってきても、夜が明けて朝が来ても…

 世羅の内からじわじわと広がって消えることはなかった。


 翌週の土曜日。

 今日もいつもなら千陰ちかげと一緒に京都へ行って、陰陽師連合会本部へ出向く予定だ。

 黒いペプラムブラウスに黒いスラックス。これはいつもの世羅のスタイルだ。先週身に着けていった、たった一着のスカートは、浄士から貰った香水とともに押し入れの奥に小さく畳んでしまってある。

 小さく二回、ドアをノックする音が聞こえた。

「世羅ー?そろそろ出るよ。」

 ドアを開けて千陰が顔を出す。

「ち、千陰さん…。」

「どうした?なんか元気ないね。具合悪いなら私1人で行ってこようか?」

「あ…えと…」


〈来いよ。俺がお前に会いたいんだ。〉


 世羅は、先週言われた海の言葉を思い出していた。

「なんでもないです。せいらも行きます。」


 いつものように、京都本部の長い廊下を、世羅は緊張した足取りで進む。エントランスラウンジへ近付くと、本部長の大きい声が響き渡ってきた。

「あんたが時間より早く来てるなんて雪降るんやないの。」

「たいぎいわ。いつも早めにおるし。」

「はぁ?どの口が言うてんの!」

 真っ直ぐ前を見て歩いていた世羅だったが、咄嗟に目線を足元へ落とす。

(海…いるんだ。)

舞子まいこさんおはようございます〜。」

 世羅の前を歩いていた千陰は、そんな世羅の様子など知りもせずに近くにいた本部長・舞子に一礼する。

「…おはようございます。」

 千陰に続いて本部長へ挨拶する世羅だが、なかなか顔を上げることが出来ない。

「おはよう世羅。」

 世羅の耳に最初に入ってきたのは海の声だった。

「あ…えと…お…」

 千陰の背中越しに小さく挨拶を返そうとしたが、ハイブランド名が大きく書かれたロゴとともに、あっけなく千陰の背中バリケードを越えられてしまった。

「ちゃんと来たな。」

 だって海に言われたから、そう伝えようと思った世羅だったが、海とのキスを思い出してしまい、言葉を呑み込んでしまう。

「世羅さん、会議が終わったら鍛錬しましょうか。」

「あ、はい。」

「そろそろ時間やね。ほら、早く会議室行く!」

「じゃあ世羅、いつものところで待ってて。」

「はい、千陰さん。」

 世羅はなるべく視線を横に向けないように、自分のつま先だけを見て談話室へと向かった。

 結局、会議が終わるまで世羅は浄士じょうじに会わずにいられた。


 会議が終わり、世羅は本部長と共に地下の修行道場へと向かった。舞子とマンツーマンで組手や絞め技などの体術を教わっている。このように稽古をつけてもらってひと月ほど経ち、なんとなく体の使い方に慣れてきた世羅。本部に着いてからずっとモヤモヤと頭の中を漂っていたノイズは晴れ、目の前の稽古だけに集中できている。

「今日はやけにキレがええやないの。」

「ありがとうございます!」

 滅多に褒めない本部長なので、自然と笑顔が全開になる世羅。

「いつまでも相手がウチなのも良くないわね。誰かあなたより体格のいいやつと組手した方がええかもしれへんけど…」

 その時、道場の引き戸がガラリと開いた。

 道場の入り口に立っている男を見て、世羅の晴れ渡っていた頭の中が、一瞬でぐちゃぐちゃになる。

「あ、いたいた舞子〜。」

「浄士、なに?」

八紘やひろ会長が探してた。なんか急用らしいけど行ける?」

 胸の奥をぎゅっと掴まれる感覚になりながら、舞子の肩越しにおそるおそる浄士に視線を送る世羅。だが、道場の入り口に立っている浄士は、まったくこちらを見る気配がない。

「ちょうどキリがいいし大丈夫。じじさまの部屋行くわ。」

「はいはーい。んじゃあ…」

 舞子の返事を確認して、さっさとこの場を去ろうと踵を返す。しかし、

「ちょうど良かったわ。あんたこの子と組手しといてくれない?」

「……え!?」

 舞子からの予想外な提案に、浄士は目を丸くしながら勢いよく振り返る。

「この子今日調子ええし、感覚掴めるとこまで持っていきたいのよ。」

「いや〜、舞子あのさぁ、俺この後」

「それにあんたくらい体格違うならより修行になるし。」

「や、待って俺さ」

「いい?ウチが帰ってくるまでちゃんと見てやんのよ!わかった!?」

 舞子はせかせかと靴を履き、唖然としている浄士を横切って道場を出ていった。

 カツカツと忙しないヒールの音が、段々と小さくなっていく。

 浄士も世羅も、そんな舞子の足音を聞きながら、一歩も動けないでいた。ふたりはしばらくの間、この重苦しい静寂を破ることができなかった。

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